4-17.繋ぐ手と泡沫の夢
どこか思いつめた様ですらある真剣な面差し、その中で複雑な色合いに揺れる二つの瞳、そして、少し痛いくらいにきつく握られた繋ぐ手。
「俺―!」
遥には、青羽がその先にどんな言葉を続けようとしているのか、それは分からなかった。ただ、青羽はとても辛そうで、だからだろうか。遥は無意識の内に、きつく握られた繋ぐ手を自らもギュッと強く握り返していた。
「…っ!」
まるで、遥が握り返した繋ぐ手の感触に勇気づけられたかの様に、青羽の瞳からそれまで複雑に揺れていた迷いや戸惑いといった色が徐々に薄らいでゆく。
「奏さん…!」
もしかしたら、遥は怖かったのかもしれない。
青羽が何を告げようとしているのかは分からなくとも、それが何かとても大切な「想い」であるらしい事くらいは、遥にも空気で読みとれた。
想いと向かい合う事は、いつだって少なからず恐ろしい。
想いと向かい合う事は、傷つく事や、傷つける事と常に紙一重だ。
遥が繋ぐ手を強く握り返したのも、だからなのしれない。青羽がそうしている様に、「想い」と向き合う為に、「想い」から逃げ出さない為に。
「…大丈夫」
自身を鼓舞する様に遥がポツリと呟いたその言葉が、青羽の瞳に残っていた迷いと戸惑いを全て消し去り、その面差しには確かな覚悟の意思が宿る。
「奏さん! 俺は…奏さんが―」
そこで一瞬言葉を止めて大きく息を吸い込んだ青羽の瞳に残っていたものは、唯一つの強い想い。
「―好きだ!」
飾り気のない、たったの一言に込められたその想いは、その眼差しと同じ様に、どこまでも、どこまでも、真っ直ぐだった。
「…ずっと、好きだった!」
重ねて告げられた青羽の真っ直ぐな強い想い。青羽の強張った赤い顔を見れば、それが「女の子」としての自分に向けられた特別な感情である事は遥にだって理解できた。
「…早見…君」
想いと向かい合う事は、やはりどうしようもなく恐ろしい。
もし、今直ぐ青羽の手を振りほどいて、その場から逃げ出す事ができたなら、きっとそれほど楽な選択肢は他に無かっただろう。
だがそれでも遥は、寧ろ繋ぐ手をより一層強く握りしめて、青羽の真っ直ぐな想いと正面から向かい合う。青羽はきっと、想いを伝えるために、沢山の勇気を振り絞った筈だから。繋いだ手から伝わって来る僅かな震えが、それを雄弁に物語っていたから。
「…早見…青羽…君」
その改まった呼び方に、青羽の緊張が高まって、ゴクリと固唾を呑み込んだ音が遥にも聞こえてきた。
「……青羽って、良い名前…だね」
晴天の空を颯爽と舞う鮮やかな青い羽。入学式の日にその名前を教えてもらった時、美しい響きだと、そう感じた事を遥は今でも覚えている。そして、青羽がその名に相応しい爽やかで善良な人物であると感じた事も忘れてはいない。
「あ、ありが…とう…?」
不意に上げられた名前の話題に青羽は明らかに戸惑っていたが、遥は構わず在りし日の記憶に想いを馳せる。
「ボクね…キミと仲良くなれたら、それはきっと素敵だって…初めて会った時にはそう思ったんだよ…」
その言葉に青羽の瞳が僅かに揺らいだのは、それが現状とは異なっている事を身に染みて実感していたからだろう。
「それは…で、でも、奏さんは、遠藤さん達に気を使って―」
先日の保健室で普段自分が避けられている理由の一端を聞いたばかりだった青羽がその事に付いて言いかけると、遥は左右に首を振ってそれを途中で遮った。
「あのね…ボクが早見君と仲良くできなかった理由は、それだけじゃ…ないよ…」
確かに遥が今まで青羽と積極的に関わろうとしなかった理由の一つは、青羽に語っていた通りに周囲の女子達から余計な反感を買いたくなかったからだ。
ただ遥にはそれ以前に、青羽と、否、青羽に限らず、沙穂や楓といった極一部の限られた者を除いては、他の誰とも親しくなれなかったもっと別な理由が有る。
「だって、ボクは…」
遥は僅かに逡巡したが、青羽の想いと本当の意味で向き合うのならば、それを明かさない訳には行く筈も無い。
「…早見君、ボクの秘密…教えてあげる…」
それはそう、言うまでも無く、遥が青羽の思っている様な「女の子」ではないという、その稀有で複雑な成り立ちに関する「秘密」に他ならなかった。
「えっ…? ひ、秘密って…奏…さん…?」
青羽がその突然の申告に酷く困惑したのは、当然と言えば当然だっただろう。この局面で「秘密」がある等と言われて楽観的になれる者はおそらくそれ程多く無い。
「ボクの秘密を聞いた後で…もう一度、早見君の気持ちを聞かせて…」
一つの覚悟と共にそう告げた遥は、繋ぐ手を引いてゆっくりと歩き出す。これから秘密を明かそうというからには、流石に人目が多いこの場では都合が悪く、青羽にもその意図は伝わった様で、二人は連れ立ってまだ大して回れていなかった水族館を後にした。
微かに聞こえてくる潮騒と頬を撫でるひんやりとした海風に誘われる様に、水族館を出てから程なくの距離にあった臨海公園の高台に辿り着いた遥は、依然として繋がれている手と手を挟んで青羽と正面から向かい合う。青羽が「好きだ」と言ってくれた目の前の「女の子」が、本当はどの様な存在であるのかを知ってもらう為に。
無論、遥が高校生活においてその複雑な事情を公言してはならないという縛りは、今でもしっかりと生きてはいる。ただそれでも遥は、青羽と、そして自身の想いと真っ向から向かい合う為に、最早それを明かす事を厭わなかった。
例えその結果が傷つき、傷つける事になるのだとしても、遥は「想い」に対して嘘や誤魔化しで返す事などできはしない。何より、今ここで本当の自分を知ってもらわなければ、それこそ青羽の想いを嘘に貶めてしまう事にもなる。故に青羽がその想いを伝えてくれた瞬間から、遥には元よりこうする以外に他の選択肢など残されてはいなかった。
「早見君、見て…ここにボクの秘密があるから…」
遥は宣言通りに自らの素性を明かすべく、お気に入りのもふもふとした毛玉のポーチからパスケースを引っ張り出し、その中から抜き出した一枚のカードを青羽に提示する。
「えっ…と…これは…健康保険証…?」
青羽の言う通り、そのカードは毎月病院に定期検査を受けに行く関係上、遥が常に持ち歩いている健康保険証で相違ない。
「秘密って…普通に…見えるけど…」
確かにそれは、一見すると何の変哲も無い只の健康保険証で、実際その通りの物ではあったのだがしかし、だからこそそれは遥の秘密足り得ていた。
「生年月日と、性別のところ…、よく見て…」
遥が秘密の有りかを明確にすると、改めて健康保険証をまじまじと見やった青羽もようやくそれがある意味では「普通」で無かった事に気付いてハッとした顔になる。
「えっ…こ、これ…どういう…」
青羽が酷く混乱してしまったのも無理はない。自分より三年も早い生まれた年と、性別欄に印字されていた「男」の一文字。青羽からすればそこに記載されていたそれらの情報は、今目の前に居る小さくて愛らしい「女の子」とは、まるで真逆なのだ。
「見た通り…だよ…、それが本当の…ううん、四年くらい前までのボク…かな…」
そうは言っても、俄かには信じてもらえる筈も無く、青羽は一層混乱した様子で、忙しなく首を上下させて、遥と健康保険証を頻りに見比べる。
「名前は…確かに奏さんのだけど…でも…こんなの…何かの間違いじゃ…」
そう信じたい青羽の気持ちは遥にも理解できなくはない。だが、そこに記載されている情報は、少なくともその健康保険証が発行された当時には紛れも無い事実だった。
「早見君、ボクが大きな事故に遭って三年くらい入院してたって話…覚えてる…?」
その問い掛けに青羽が混乱した様子ながらも頷きを返して来ると、遥はそこを起点に事の次第を順追って全て打ち明けて行ゆく。
事故に関するより詳細ない経緯から始まり、それ以前の自分がごく平凡な男子高校生だった事や、どうして今は女の子であるのかまで、自身の素性に纏わる事の概ね全てを。遥はそれら一つずつをいつか楓が見つけたネットのニュース記事なども引用しながら、ニ十分ほどかけて青羽に明かして行った。
「―それが今のボク…それが…ボクの秘密にしてきた事…」
遥が全てを話し終えてそう締めくくると、それに対する青羽はやはりと言うべきか、益々混乱した様子で、殊更に狼狽えるばかりだった。
「そんな…そんな事って…で、でも…そんな…」
疑心の眼差しに揺れていたその反応に、遥は胸の奥がズキリと痛んで、堪らずに青羽から視線をそらして目を伏せる。
「だからボクは…キミと…仲良くなっちゃいけなかったのに…」
高校生活を送る上で素性を公には語れない枷が存在している以上、そこには大きなリスクが付きまとう事を遥は沙穂や楓の時に身をもって経験していた筈だった。
「それなのに…早見君が…いつも…優しくしてくれるから…ボク…」
それは青羽が自分に対して特別な「好意」を抱いていたからなのだと、今なら遥にも理解できる。ただ、予めそうと知っていたとしても、今この状況を回避できていたかと問われれば、遥にはそう出来ていた自信が無かった。
「早見…青羽君…」
遥は伏せていた視線を上げて、その大きく黒目がちな瞳で青羽を真っすぐに見る。
「ボクね…本当に…キミと仲良くなりたかったんだよ…」
不安でいっぱいだった入学式の日に、初めて声を掛けてくれた美しい名前の男の子。遥はその鮮烈な名前の印象と同じくらいに、この男の子と親しくなれたらと願った事を今でも覚えている。思えばその時から、既にその予兆はそこにあったのかもしれない。
もちろん当時は、ただ純粋に「友達」になれたらと、そう思っていたに過ぎなかった。しかし今では、特に駅前での一件以来、その思いはもっと別な想いに変わりつつある。
青羽が優しくしてくれる度に、遥の胸の中心にある大樹の枝先でひっそりと芽吹いていた小さな想いの蕾がほころんで、それは今にも花開きそうになっているのだ。
その蕾は、賢治が芽吹かせてくれる力強い蕾とは違って、ほんのささやかでは有ったし、かつて爛漫と咲き誇っていた想いの花達の鮮やかさにも到底及ぶ物では無い。
ただ、今にも花開きそうなその小さな蕾に名前をつけるとするならば、遥はそれに間違いなくただ一つの言葉を当てはめるだろう。
「早見青羽君…ボクね…」
遥は未だ混乱冷めやらぬ様子で居る青羽の酷く動揺した瞳を見詰めながら、いつの間にかほどけてしまいそうだった繋ぐ手を今一度ぎゅっと握り直す。
「きっと…キミが好きだよ…」
その瞬間に、薄い水色の花としてほころびきったその想いはそう、間違いなく「恋」と呼ぶべき感情だった。
「だから…早見君がボクのこと好きだって言ってくれた時…すごく嬉しかった…」
このままこの「恋」を育てていけたなら、その先には在りし日に願った未来以上の物が有ったのかもしれない。遥にはそれがどんな物かは想像もつかなかったが、少なくとも確かに在ったかもしれないその可能性に想いを馳せるくらいはきっとまだ許される筈だ。そうでもしなければ、現実は余りにも辛く、余りにも残酷が過ぎるのだから。
「…奏…さん…俺、今は…な、何て言ったら…いいか…」
ほんの三十分ほど前だったなら、青羽にとって遥がほころばせた想いの蕾は、正しく奇跡が起きたにも等しい福音以外の何物でも無かっただろう。がしかし、遥の秘密を知った今はもう、青羽の歯切れは悪く、声も上ずって、あれほどに真っ直ぐだった瞳も唯々余所々々しく泳ぐばかりだった。
「…俺…何も…知らなくて…それなのに…ご、ごめん…」
青羽の口をついて出た謝罪の言葉に、遥の胸はギュッと締め付けられて、ともすれば涙がこぼれそうにもなる。
「…うん」
涙をこらえながら、小さく頷きを返した遥が繋いでいた手の力を弱めると、それは驚く程いとも容易くほどけていった。
「…ボクが…普通の女の子だったら…よかったね…」
ごく普通の女の子だったなら、ごく普通に青羽と出会って、ごく普通の恋をして、今もその手と手は繋がれたままだったかもしれない。ただそれこそは、ほどけてしまった手の様に、どうしたって遥にはつかみ取れない泡沫の夢に過ぎなかった。遥もどこかでそれを分かっていたからこそ、尚更に想いと向き合う事が怖かったのだ。
「早見君…いままで…ありがとう…、それから…ごめんなさい…」
遥は最後にそれだけ告げると、青羽に背を向けて一人歩き出す。秘密を明かす前に約束していた青羽の答えは、最早聞く必要も無い。青羽は高台に残って唯々立ち尽くすばかりで、遥の小さな背中を追ってくれたのは、かすかに聞こえて来る潮騒の音と、ひんやりとした海風だけだったのだから。




