4-12.気負いと使命感
来たる日曜日、遥よりも随分と早く待ち合わせ場所である駅前にやって来ていた青羽は、酷く落ち着かない様子で終始ソワソワとしていた。
一分おきにミントタブレットを口の中に放り込み、三分おきにスマホのインカメラで寝癖が無いかをチェックして、その合間には遅々として針が進まない腕時計を見やって溜息を洩らす。
青羽はそんな行動をかれこれ三十分以上は延々とループさせていて、その落ち着きのなさたるや、それを傍で見ている方がソワソワとしてしまう程だった。
「奏さん…まだ…かな…」
最早何度目になるか分からない一連のルーティンを行った青羽がこのとき自身の腕時計で確認できた時刻は、午前の八時半を少し回った辺り。約束の時間は午前九時という事になっていた為、青羽は実に一時間も早く待ち合わせ場所にやって来ていた事になるだろう。いくら遥と二人で遊びに出掛けられるまたとないかもしれない機会とは言え、流石にこれは気負い過ぎの逸り過ぎというやつだ。
「あと三十分…か…」
割ときっちりとした性格をしている遥ならば、もしかしたらそろそろやって来るのではないかと、青羽はそんな勝手な予測を立ててこれまで以上に一層ソワソワとしてしまう。
確かに遥は基本時間に余裕を持たせて行動するタイプではあるものの、流石にこの頃はまだようやく家を出たかどうかという所だった。
「ヤバい…、水瀬さんがあんな事言うから…すげぇ緊張…してきた…」
楓の言った「あんな事」とはつまり今回が遥との「デート」であるというあの囁きの事で相違ない。無論青羽だって本日の趣旨が「デート」等ではなく、只の「お礼」に過ぎない事は重々承知の上ではあるが、あんな風に言われてはどうしたって意識せざるを得ないという奴である。
特に青羽は、女子達からの人気はともかくとして、元来の性質はどちらかと言えば純朴で、間違っても遊び慣れている様なタイプでも無い。
であれば、その趣旨や意図がどうあれ、好きな女の子と二人で出掛けられると言うだけで、青羽が必要以上に気負ってしまったとしても仕方が無い事だった。
「今日の事、賢治さんは…どう思ってるんだろう…」
青羽は再三にわたるインカメラでの寝癖チェックを行っていた最中、ふいに賢治の顔が頭を過って、少しばかり後ろめたくなってしまう。
青羽はかつて、想いは有っても遥と具体的な関係になるつもりは無い事を賢治に宣言していただけに、今回の件が一種の裏切りに当たるのではないかと、そんな風に思わないでも無かったのだ。
ただ二人で遊びに出かけるというだけでは、よほどの事が無い限り遥との関係がどうこうなる訳も無く、青羽としてもこの機に乗じて何かアクションを起こす気など毛頭ありはしなかったが、これもまた気負い過ぎの一環なのだろう。
「賢治さん…メッセージでは、気にするなって言ってくれてたけど…」
変に律儀な青羽はそうなった経緯も含めて今回の件を報告済みで、いちおう賢治からはそんな返答を貰ってはいた。
「でも…やっぱり…いい気はしてない…よなぁ…」
事実その通り、青羽に大人ぶった対応をして見せたその裏で、賢治の心中は相当に穏やかでは無く、それは当日を迎えた今や最高潮に達してもいる。
それでも、青羽に対して負い目がある以上、今回の件に介入する訳に行かなかった賢治は結局どうする事も出来ず、今は自宅で唯々ひたすらに悶々としている所だった。
「後で、賢治さんにはちゃんと報告しよう…」
賢治に対してはそれで一先ずの筋を通す方向で考えを纏めた青羽は、その意識を再び間もなくやって来るはずの遥へと戻して元通りソワソワとしだす。
この時、青羽は全くもって知りもしなかった。今回の件に介入できなかった賢治の代わりに、という訳では別に無かったが、何とかこれを阻止せんとする者達が直ぐ近くで青羽が来るよりもずっと前から網を張っていた事を。
「なにあいつ! 青羽のくせしていっちょ前にオシャレなんかしちゃってさ! ちょぉっと遥ちゃんとお出掛けできるからって気合入り過ぎじゃない!?」
ロータリーを挟んだ向かい側にあるファストフード店の二階、青羽の居る駅前を一望可能な窓際の席で身を乗り出してそんな憤りを露わにしたのはそう、美乃梨である。
そして、「者達」というからには美乃梨の他にも居る訳で、その隣には渋い表情で溜息を洩らす沙穂と、そして大変困った顔でおろおろとする楓までもが居た。
「ネイビーのミリシャツに白のスキニーパンツかぁ…、まぁ、無難っちゃ無難だけど、早見にしては頑張った感じっぽいわねー…」
沙穂はドリンクのストローに口を付けながら、肩越しに窓の外をチラリと見やって、美乃梨が「オシャレ」と評した青羽のコーディネートにはそんな少々厳しい評価を下す。
「あいつ、いつもはTシャツにジーンズとかなんだよ! それ考えたら今日のあれはめちゃくちゃ気合入りまくりだよ!」
あからさまに気に食わないと言った面持ちで今日の青羽がどれだけ「オシャレ」してきているかを力説する美乃梨は、日曜の朝でも相変わらずのハイテンションだ。
尤も、これからその普段よりもめかし込んでいる青羽が遥と二人きりで遊びに出掛けるというのだから、美乃梨のボルテージが上がりっぱなしなのも仕方が無い事なのかもしれない。
「まー、あの様子だと、早見は完全に『デート』のつもりっぽいわねぇ…」
青羽の心づもりをそんな風に邪推して、深々とした溜息を付いた沙穂は、テンションこそかなり低くは有ったが、その面持ちからは美乃梨と同じかそれ以上の気に食わなさが滲み出していた。
「青羽が遥ちゃんとデートなんて百億万年早いよ! そんなの断固阻止だよ!」
美乃梨は興奮のあまり握りこぶしをブンブント振り回し、このまま放っておけば今にもその場から飛び出していきそうな勢いである。
「は、花房さん落ち着いて…、声大きいよぉ…」
実際に飛び出して行ってしまわない様に美乃梨を抑えながら、いつにも増して困った顔をしていた楓は、実の所この場に居る三人の中では一人だけ微妙な立場にあった。
美乃梨と沙穂は、その動機や内心に関しては幾らかの差異があるだろうが、遥と青羽のデートが気に食わないという一点では共通している。
ただそんな二人とは違って、楓は若干複雑な所は有りながらも、今回の事に限らず青羽の遥に対する恋心を以前から応援していた立場なのだ。
だからこそ楓は夏休みの初日には、今回の話しが成立するのを見計らって保健室に帰還していたし、であれば今ここに居るその理由も遥と青羽のデートを阻止するため等では無く、寧ろそれをしようとしている美乃梨と沙穂の方を阻止する為だった。
因みに、ここでもう少しだけ詳しい経緯を説明しておくと、この状況は美乃梨が「せっかくの夏休みだから」という最近どこかの誰かがしたのと全く同じ理由で遥を遊びに誘った事に端を発している。
要件が一緒であればこれに対する遥の回答はこれまた最近どこかの誰かにしたものと殆ど同じ物だった訳だが、それを受けた相手が美乃梨となると、流石にその後の展開までは同じという訳には行かなかったのだ。
もちろん美乃梨は、誰かとは違って青羽に対して何の負い目も無い為、遥から今回の話を聞かされた時点でまずは至ってストレートに猛烈な反発をして見せてはいる。
しかしながら、自分から「お礼」を言い出して既に話が纏まっていた遥がそれを聞き入れた筈も無く、そうなると美乃梨はもう実力を以てこれを阻止するしかなかった。
そして、実際にそれを実行するには当日を狙うしかなく、更には盤石を期す為に遥と親しい沙穂と楓にも召集が掛かり、結果として今の状況が出来上がっているという訳だ。
「早見の奴…変な下心は無いとか言ってた癖に…油断も隙もあったもんじゃない…」
青羽が賢治に対して今回の件を一種の裏切りでは無いかと感じていた様に、沙穂の憤りも正しくそこに在り、美乃梨の招集に応じたのもおそらくはそれがあったからだろう。
「ねぇ…今日くらいはそっとしといてあげようよぉ…」
楓は何とかして美乃梨と沙穂を思い留まらせようと諭してみるも、これを簡単に聞き入れる様な二人ならば、そもそもこんな日曜の朝から駅前まで出張ってきてはいない。
「そっとしておくなんて絶対に無理! だってデートだよ!? あの遥ちゃんがあの青羽とデートするなんて駄目に決まってるよ!」
それがどんな遥とどんな青羽なのかは良く分からないとしても、美乃梨が一層興奮した様子で猛烈な拒否反応を示せば、沙穂もこれに同調してその表情を益々渋くする。
「…ミナだってカナが色々と危なっかしいの知ってるでしょ…? 心配じゃない訳?」
確かに楓も遥の無自覚で無警戒な脇の甘さは良く知っていたし、それが美乃梨の言う「あの遥」という事ならば二人がそれを心配する気持ちも理解できなくはない。ただそうは言っても、楓からすれば、今日の相手は素っ裸の遥と暫く二人きりにしても指一本触れる事のなかった「あの青羽」なのだ。
「う、うーん…でも早見くんなら絶対に大丈夫だよぉ…」
保健室での一件というそれなりの根拠があった楓は、青羽が完全なる安牌であるという本人からしたら割と不名誉だったかもしれない評価をもって何とか美乃梨と沙穂を納得させようとする。
「楓ちゃん分かってないよ! 男子なんてみんな狼なんだから!」
美乃梨のこれは流石に極端が過ぎる意見という物で、楓は青羽が素っ裸だった遥を襲うどころか体操着を貸してあげていた事を知っていただけに思わず苦笑だ。
「早見くんはそんな事無いと思うけど…、それに今回の事はカナちゃんが早見くんにお礼したいからって決まった話なんだよ…?」
楓は少し論調を変えて遥の意思を尊重すべきだという路線に切り替えてみたが、それでもやはり美乃梨と沙穂は納得しなかった。
「お礼にかこつけてデートなんて要求してる時点で早見には下心ありまくりでしょ…」
「そうだよ! 遥ちゃんの善意に付け込むなんて、青羽のやつ調子乗り過ぎだよ!」
いくら何でもこれは散々な言われ様で、思わず青羽に対しての同情を禁じ得ない楓である。
「う、うーん…」
楓は一体全体どうすれば二人を止められるのかが分からず、しきりに考えを巡らせてみるも、元々それ程頭の回転が早い方でも無い為、中々これと言った妙案は浮かんでこない。その間に美乃梨と沙穂は青羽に対する不満の言い合いで何やら意気投合してしまい、今回のデートを何としても阻止してやろうという結束を益々固くする。
「青羽は昔っからそうなのよ! 女の子には興味ありませんって顔しながら、変なとこで抜け目ないんだから!」
「あー、分るわー、あいつ絶対最初からカナの事狙ってたしねー、特に最近はカナもちょっと気を許しがちだから、きっとチャンスだとか思ってんのよ…」
等々、思わず「あくまでも個人の感想です。感じ方には個人差があります」とでも注釈を付けたくなるくらいには酷い言い様だ。
「だいたい、女子は皆キャーキャー言ってるけど青羽なんて実際は―」
尚も青羽に対する不満を口にしようとしていた美乃梨だったがしかし、不意にその言葉を止めて勢いよく椅子から立ち上がった。
「あぁ! 遥ちゃん来ちゃった!」
立ち上がるなりベッタリと窓にへばりついた美乃梨に倣って、沙穂と楓も眼下を窺えば、確かに青羽の元へ向かってロータリーを進んでゆく遥の姿が在る。
「あぁぁぁ! は、遥ちゃん! あ、あんな可愛い恰好しちゃって!」
今までも十二分に高かった美乃梨のテンションは、遥の登場によって今にもメーターを振り切ってしまいそうな程に爆上がりだったがそれも無理はないだろう。
「うわぁ…白のセーラーワンピとか…、あんなの絶対に男子は好きじゃん…」
沙穂の言う通り、今日の遥は白いセーラーカラーのワンピース姿で、その出で立ちがあざとすぎる程に可愛らしい事はファストフード店の二階からでも一目瞭然だったのだ。
ただ当然の事ながら、遥は別に自分を良く見せたいとか、青羽を喜ばせたいとか思ってそんな可愛いらしい恰好をしてきた訳では無い。
大体が遥の持っている私服の殆どは響子や朱美の趣味で構成されており、その全てが例外なく大変に愛らしいデザインで、何をどう選んでも結局は可愛くなってしまうのだ。
一応、その中から遥自身がこのセーラーワンピを選んで着てきてはいたのだが、そこには今日の行き先が水族館だからという何とも短絡的な理由しか存在していなかった。
「青羽があんなに可愛い遥ちゃんとデートするなんて絶対に許される訳が無いよ!」
遥が可愛いから許されないというその理屈は分かりそうで分からない微妙なところだとしても、とにかく美乃梨は一層意志を固くして、沙穂もこれに力強い頷きで同意する。
「そうね…! あんなのその気が無い相手でもヤバいって…!」
好意という意味では青羽には「その気」がバリバリある事を知っていた沙穂はもう気が気では無いと言った様子で、これに関しては楓も少しばかり同意せざるを得ない所が無い訳でもない。
「う、うーん…それはそうかもだけどぉ…」
それでも青羽を遥とデートをさせてあげたいというスタンスに変わりのなかった楓はこの状況をどうすればいいのかと逡巡するが、その間にも美乃梨と沙穂は動き始めていた。
「楓ちゃん、行くよ!」
「ミナ、早く!」
ここで美乃梨と沙穂を野放しにしてしまえば、それこそ全てはご破算で、それだけは何としても阻止したい楓は慌てて席から立ち上がって二人の後に追従する。
「ま、まってー!」
楓には依然として美乃梨と沙穂を止める手立ては思いついてはいなかったが、ここで何とかしなければ、青羽のデートが中止に追い込まれてしまう事だけは確かだ。
(早見くん…、ワタシが頑張ってカナちゃんとデートさせてあげるからね…!)
青羽はこの時知る由も無かった。遥と二人で遊びに出かけられるというそのまたと無いかもしれない機会の命運が、少々勝手な使命感に燃える楓の些か頼りない双肩にかかっていた事を。




