1-13.涙と笑顔
重苦しい空気の中、賢治と美乃梨は遥を挟んで再び対峙していた。
賢治が美乃梨と話し合うと決めた後、遥は病室を飛び出していった美乃梨を探しに行こうとしたが美乃梨は直ぐに見つかった。遥の病室前の廊下にいたのだ。思わず逃げ出してしまった美乃梨だったが、彼女なりにちゃんとしなければいけないと思い戻ってきた様だった。そんな美乃梨に賢治が話したがっている旨を伝えると、少しためらったが逃げ出さずこうして今また賢治と向き合っている。
先刻とは違い美乃梨は俯き、賢治は落ち着きはしていたが、やはりいざ対面すると割り切れない気持ちがまだあるのかその視線は少し厳しかった。
「正直に言えば、俺はまだお前の事が許せない」
重苦しい空気の中口を開いたのは賢治だった。俯く美乃梨に対する賢治の口調に険しさは無かったが、それでも許せないと言った賢治の言葉に美乃梨はびくりと身を震わせた。
「大切なお友達を…酷い目に合わせたんです…、当然…ですよね」
俯いたまま絞り出すようにして言ったその声は震えていた。酷い目に合わせたと言う美乃梨の表現は正確では無いと遥は思ったが、今は賢治を信じて二人を見守ると決めていたので敢えて何も言わず静観する。
「あたし…あの時は余りの事に頭が真っ白で…、貴方の事もよく覚えてなかったけど、でも、必死に遥ちゃんを呼ぶ声だけは覚えてました…。それで、すごく大切なお友達なんだって…」
人の感情に共感しやすい美乃梨は記憶の奥に焼き付いていた悲痛な叫びから賢治の遥を想う気持ちが自分の物差しでは測り切れない程強い物だと感じていた。そんな賢治から大切な遥を三年もの間奪ってしまった。その事に今は胸が張り裂けそうだった。
「あたし…許してもらえるなんて、思っていないけど…でも…」
美乃梨は俯いていた顔を上げ、今にも泣き出しそうになりながらも必死で涙を堪える。
「本当に、ごめん…な…さい…」
賢治と真っすぐ向き合い、詰まりながらも美乃梨は言葉を紡ぐ。堪えていた涙が一筋その頬を伝うと美乃梨は再び俯き小刻みに肩を震わせた。
賢治は俯いた美乃梨を眺めながらその心中を推し量る。絞り出す様だった声、零れ落ちた涙と震える肩、そして病室を逃げ出した時に見せた悲痛な表情。美乃梨はもう苦しんでいる。そう言った遥の言葉を思い出す。続けて賢治はこの三年間自分が過ごしてきた悪夢の様だった日々に思いを馳せる。見えない親友の姿を追い求め暗い感情を募らせた日々。それはただひたすらに辛い日々だった。しかしその悪夢にケリをつけると決めた。遥は戻り今は傍に居る。自分の苦しみと美乃梨の苦しみを単純に比べる事は出来ないが、ただ遥が傍に居てくれるのならば自分はもうその苦しみの日々を送る必要は無い筈だ。ひきかえ美乃梨はどうだ、美乃梨にとって遥は自分以上に負い目のある相手のはずだ、何せ事故の当事者だ。にも拘わらず美乃梨があれほど遥に懐いていたのは、遥がその苦しみを引き取ってやったからではないのだろうか。遥が自分にしてくれたように、美乃梨もまた遥に心を救われたのかもしれない。命を助けられ、心を救われ、だから美乃梨は遥の事を運命だと言ったのかもしれない。そう思うと賢治の心は少し穏やかになった。
賢治はゆっくりと息を吐く。吐いた息と共に怒りや憎悪といった美乃梨に向けていた負の感情を心から追い払う。ケリをつけよう。胸中でそう呟く。
「俺はハルが大切だよ。替えの利かないたった一人の親友だ」
厳しさを湛えた瞳で美乃梨を見つめていた賢治が明瞭な口調でそう言った。遥がその表情をうかがうと賢治はいつも通りの落ち着いた表情だった。瞳の奥で微かに揺れていた美乃梨に対する敵意はもう認められず、遥はその事に一先ずほっとして賢治の発言を黙って見守った。
「だから、まだお前の事を許せないが…、もうあの時の事を責めたりはしない…」
自分の複雑な心境を言葉にすると賢治はパイプ椅子に身体を預け病室の天井を仰ぎ一度大きく息を吸い込んだ。先ほど吐き出した怒りや憎悪の代わりに、自分の身体と心へ真新しい空気を取り込む。
「ハルはもう傍に居る…」
賢治は最後にそう自分に言い聞かせる様に呟いた。全てを割り切れた訳ではない。美乃梨が事故原因の一旦である事は今でも疑っていないし、そんな美乃梨を手放しで許せるほど賢治は人間出来てはいない。だが遥は今こうして傍に居いて、変わり果ててしまった身体を背負いながらも前を向こうとしている。そんな時に親友である自分が過去に囚われ下を向いている訳には行かないのだ。遥の向日葵のような笑顔に照らされた心で今はそう思えた。
賢治の言葉にそれまで小刻みだった美乃梨の震えが嗚咽と共に大きく不規則なリズムを刻みだす。美乃梨は遥の病室に戻り再び賢治と対峙した時、どの様な厳しい言葉も受け入れると決めていた。謝罪の言葉は許して欲しかったからではない、ただそれしか言える言葉が見つからなかったからだ。どの様な言葉を並べても自分は許されないだろう。そう覚悟していた。しかし賢治はそんな自分を許さないまでも責めはしないと言った。思いがけない言葉を投げかけられ堪らず涙が溢れた。
「あたし…、あたし…!」
賢治の与えてくれた言葉に美乃梨は何と応えればいいのか分からなかった。見つからない言葉の代わりにただただ涙が溢れ出た。
遥は息を詰まらせ涙を流す美乃梨に言葉を掛けようとしたが、一瞬躊躇い賢治の方を見やる。天井を仰いでいた賢治はその視線に気付くと少しさっぱりとした表情で頷いた。遥はその表情に賢治が自分の想いを言い終えたのだと分かり頷きを返してから美乃梨の方へと向き直る。
「美乃梨、もう泣かないで」
嗚咽を漏らし大きく震える美乃梨の肩にそっと手を触れる。美乃梨は遥の優しい声と肩に触れた小さな手の感触に顔を上げたがその瞳からは依然として涙が溢れ続けていた。
「でも…あたし!」
遥の優しさに美乃梨は感情を昂らせる。本来ならば遥こそ自分を責め立ててもいいはずなのに、遥はずっと変わらず優しかった。
美乃梨は初めて遥と会った時、その可愛らしい外見から興味を惹かれ、それから少し話をしてみると人を思い遣れる賢い素敵な子だと感じた。故に美乃梨はそんな遥と仲良くなりたいと思った。暇を見つけては遥の病室に足を運び、時間を共有する内に初めは少し警戒していた遥も心を開いてくれる様になったと感じていた。遥の可愛らしい外見は美乃梨のお気に入りで、大人びた性格と物言いはちょっと変わっていると思ったが対等に話が出来る相手だと認め友達になれた事を嬉しく思った。しかし今日、事故の事を打ち明けられ、自分のお気に入りだった遥の可愛らしい外見は自分のせいで負った犠牲だと分かった。これまで事故の記憶を胸に留めつつも恩人に報いる為明るく生きなければと努めてきた美乃梨だった。しかし大きな犠牲を払った遥を目の当たりにし、今までのうのうと生きてきた自分の存在を悔いた。だが遥は恨み言の一つも言わず「元気でいてくれた」とそう言ってくれたのだ。遥のその優しさに触れ、今では年齢や性別など関係ないただ大好きな人になっていた。
「遥ちゃん…あたし…!」
大好きな遥とその親友である賢治を苦しめた自分。その事に美乃梨の心が押しつぶされそうになる。そんな美乃梨にそれでも遥は変わらず優しかった。
「前にも言ったじゃないか、ボクはここに居て、美乃梨が元気で居てくれて、それで十分だって」
遥は美乃梨が人の辛さに共感できる優しい子だと知っている。それだけに自分の事で苦しんでほしくは無かった。それと同時に自意識過剰かもしれないと思いつつも、賢治と美乃梨が自分の為に心を砕いてくれる事が得難い幸福に感じられた。それならば今自分が感じているこの幸福感をこそ二人には共有してほしいとそう願った。涙を流し続ける美乃梨の頭をそっと撫で後悔と罪悪感に揺れるその心を思い遣る。
「賢治だって美乃梨の事もう怒ってないよ」
泣き続ける美乃梨に遥はそう言って賢治に目配せをする。遥の美乃梨を慈しむような面持ちに賢治はこめかみに手を当て苦笑した。遥がこれ程思い遣っている相手に自分は敵意を向けていたのかと思うとバツが悪かった。
「あー…ハルが言うなら、俺はそれで良いさ」
少し決まり悪そうな賢治に遥が愛らしい顔で頷くと賢治はまた苦笑して頷き返した。
「ほらね? だから美乃梨、もう泣かないで」
遥に促され、美乃梨は賢治と遥を交互に見やる。賢治は不愛想だったがその眼差しにもう厳しさは見当たらず、遥はずっと変わらず優しくいてくれる。胸の想いは未だに苦しかったが、二人の気遣いに心を推され美乃梨はカーディガンの裾でようやっと涙を拭い、改めて二人に向かい合う。事故で元の身体を失い不本意な身体になった遥、三年間掛け替えのない親友と引き裂かれていた賢治。その原因は自分にある。そう思うとまた涙が溢れそうになった。
「ほら美乃梨、泣かないで」
一旦涙を拭いはしたが再び泣き出しそうな表情を見せた美乃梨に遥は優しく諭す。自分が助けた女の子、命ある事の喜びを気付かせてくれた女の子。そんな美乃梨には笑っていてほしかった。
遥の言葉に美乃梨は必死で涙を抑える。賢治が自分を責めずにいてくれるのならば、遥が優しくいてくれるのならば、自分はその想いに応えなければと気持ちを奮い立たせる。
「遥ちゃん…賢治さん…」
遥の優しい眼差しと、賢治の見守るような視線の中、美乃梨は二人の想いに報いようと精いっぱいの気持ちを言葉に変える。
「ありがとう…」
言葉を紡ぎ、再び溢れそうだった涙を指先で掬い取る。そしてぎこちなくだったが二人に向ってありったけの感謝の想いを込めて笑顔を見せた。それはいつもの朗らかな笑顔とはいかなかったが、感情に彩られた心からの笑顔だった。
「礼を言われる筋合いじゃねえがな…まあいいさ…」
美乃梨の笑顔に賢治は少しぶっきらぼうに応えて最後に残った怒りの残り火を吹き消す様に小さく息を吐く。遥の為にも、自分の為にもこれでよかったのだと、胸中でそう自分を納得させる。
「よかった…」
遥はようやく戻った美乃梨の笑顔と気持ちの落としどころを見つけた賢治の様子に胸を撫で下ろす。遥のほっとした様な呟きに賢治と美乃梨がそれぞれの想いで遥の方へと視線を向けると、それまでの重苦しい空気の中少なからず気を張っていた遥は解放感と安堵感から自然と笑顔がこぼれていた。その笑顔に美乃梨は元より賢治も思わず目が釘付けになった。美乃梨は目を輝かせ、賢治は俄かに鼓動が早くなるのを感じ取る。遥が自然とのぞかせたその笑顔は、自分たちを思い遣りそれぞれに宛て向けられた正に天使の様な最上級の笑顔に映ったからだ。
「やっぱり笑顔の方がいいね」
遥が自分の表情に釘付けとなっている二人には気付かずようやく笑った美乃梨の事を思ってそう言った。しかし賢治と美乃梨は天使の笑顔を見せる遥こそが正にそうだと思わずにはいられない。
「「確かに…!」」
賢治と美乃梨の感嘆が重なった。思いがけず重なった声に二人はお互いの顔を見合わせる。そのまましばし無言で顔を見合わせていた二人だったが、賢治は泣き腫らして一回り輪郭の膨れた美乃梨の顔と先ほど重なった感嘆から思わず吹き出してしまった。
「おまっ…ひでー顔! つうかやっぱり女好きなんだろ!」
賢治の口から堪えきれなかった笑いに続いて軽口が飛び出すと美乃梨はそれに一瞬呆気にとられたが次第に賢治につられ笑いが込み上げてくる。込み上げる笑いとまだ残る涙の余韻に息切れしながら美乃梨も負けじと反論した。
「そ、そういう賢治さんこそ…やっぱりロリコンなんですよね!」
突然笑い出した二人に置いてけぼりだった遥だったが、二人のやり取りに思わず焦りを見せる。
「ちょっ? 二人とも急に何言ってるの!?」
慌てた遥に対して美乃梨が赤く腫らした目を細めいつもの朗らかな笑顔で身を乗り出した。
「遥ちゃんが可愛いって事!」
そう言ってそのまま遥に飛びつこうとした美乃梨だったがその両腕は虚しく空を切りそのまま顔からベッドに突っ伏した。美乃梨の行動を予測した賢治が遥の上体をずらしたせいだ。
「何するんですかー!」
ベッドから跳ね上がった美乃梨が頬を膨らませ抗議の声を上げると賢治は口角を上げてニヤリと笑って返す。重苦しかった病室の空気が一転して随分と軽やかになっていた。
遥は自分が玩具にされるパターンに突入した二人に僅かな身の危険を感じたが、賢治と美乃梨にわだかまりのなかった最初の頃の空気が戻りつつあった事でとりあえず今は良しとした。