4-11.予定
色々とあって結果的には散々だった夏休み初日から数日が経ったある日の夜、遥は蒸し暑い自室で汗を滲ませながらも、勉強机に向かってせっせと課題に勤しんでいた。
長期休みを良い事に羽を伸ばし過ぎて最終日に大慌てする何てタイプも世にはざらだが、元来保守的な性格である遥はその辺り堅実だ。
ただしそんな遥でも、陽が落ちて尚一向に下がる気配のない七月後半の茹だる様な暑さには少々へばり気味で、課題が捗っているかどうかで言うとそこは今一つではあった。
「うー…あづいー…」
度々そんな不平を洩らしながら、捗らないなりに何だかんだと課題を進めていた遥だったが、やはりどうしたって暑いものは暑い。
何分、遥の部屋にはクーラーの備えが無く、あるのは生ぬるい風を生み出すばかりの扇風機と、時折思い出した様に控えめな音で鳴る窓辺に吊るされた風鈴程度のものなのだ。
因みにこの風鈴は、夏休みに入る少し前、放課後いつもの様に沙穂や楓と駅前のアーケードをブラブラしていた際に立ち寄った雑貨屋で衝動買いした物である。
水色一色の飴細工の様な見た目と、よく通る澄んだ音色は確かに涼やかで遥もお気に入りではあったが、それもこう暑くては気休め程度の役にも立ちはしない。
「もーむりぃー…、シャワー…浴びようかなぁ…」
遂に限界が来てぐったりとした様子で机に突っ伏してしまった遥は、熱の溜まった思考と身体をサッパリさせて、少しばかりのクールダウンを図ろうかと思い立つ。
シャワーの後にクーラーの利いたリビングで、氷を目一杯入れた冷たいオレンジジュースでも飲めば、それはきっと爽快以外の何物でもない筈だ。
そうとなれば、遥がそれを実行に移さない理由は無く、さっそくと勉強机の椅子から立ち上がったが、窓の外から良く聞き馴れた「おじゃましまーす」という賢治の声と、玄関の扉が開閉する音が聞こえてきたのは、丁度そんなタイミングでの事だった。
「あー…賢治だぁ…」
賢治がやって来たとなれば、遥はクールダウンの計画を一時中断せざるを得ず、立ち上がったばかりの勉強机の椅子に再び座り直す。
折角立ち上がった所だったので玄関まで賢治を出迎えても良かったのだが、如何せん暑さでへばっていたところでは、流石の遥もそれは些かの億劫という奴だった。それにどうせ、放っておいても賢治は直ぐに部屋までやってくる筈なので、わざわざ出迎えたりしなくたって別に問題は無いだろう。
事実その通り、程なくしてドカドカとした重たい足音を響かせながら三階までの階段を昇り切った賢治は、ノックも無く扉を開け放って当然の様に部屋へ入って来た。
「ハル、アイス買って来たぞ」
そんな第一声に遥が椅子を回転させて賢治の方を見やれば、確かにその手にはアイスが二つ程入っていそうな小さなコンビニの袋が握られている。
「ほら、ハルの好きなカチカチ君のグレープソーダ味だ」
賢治がそう言ってコンビニ袋から取り出して差し出して来た紫色のアイスキャンディは、遥が昔から好んでよく食べていた夏の定番という奴だった。
暑さに参っていたこのタイミングでアイスの手土産とは中々に気が利いている上、好みをもしっかり抑えている所はさすがの賢治である。がしかし、遥はそんなタイムリーな賢治の差し入れを喜びもせずに、それどころか寧ろ小さく頬を膨らませて若干の不満顔さえ見せていた。
「けんじ…」
遥がアイスも受け取らずに不服を訴えかけると、それを怪訝そうにした賢治はコンビニの袋からもう一本、緑色のアイスを取り出してそれも差し出して来る。
「カチカチ君マスカットの方が良かったか…?」
遥的にグレープソーダとマスカットは甲乙付けがたいところではあるが、例えアイスの味が他の何かだったにしろ、これは元より現在の不満とは全く関係ない。
「グレープでいいけど…、そんなことよりノックくらいしてよ!」
遥がグレープソーダのアイスキャンディをひったくりながら、少々うんざりとした調子で告げたこれが今回賢治に対して覚えた不満の内容である。
言ってみればそれは、一般常識の範疇に在る至って尤もな話しではあったのだが、それを訴えられた賢治はといえば、何やら酷く面食らった様子でいた。
「はっ? なんでだ?」
賢治が素っ頓狂な声を上げて、まるで意味が分からないと言わんばかりの反応を返して来たのは、実のところ無理も無い話である。何せ、部屋に入る際にはノックをするという当たり前の一般常識は、遥と賢治の間に限っては全く成立しない話なのだ。
「…ハルだって俺の部屋に来る時はノックなんてしないだろ」
賢治の言う通り、遥も十六年来の幼馴染でかつ親友の部屋を訪れる際にわざわざノックなんてしたりする事は無く、それこそが二人の間では常識だった。
「それは…そうだけど! でも、ボクは別に良いの!」
遥が先程奪い取ったアイスキャンディ―を一口かじってから断言したその余りにも乱暴な反論は、痛いところを突かれて思わず開き直ったという訳では決して無い。
普通なら理屈や道理を重んじる遥が自分は良くても賢治は駄目なんて不条理をまかり通す訳は無いのだが、これに関してはちゃんとそれなりの論拠があったのだ。
「あのね賢治、ボクはもう女の子なんだよ!」
どうだと言わんばかりに、その平らな胸を張って言い放ったこれこそ、賢治だけがノックをしなければならない遥の大正義と言っても過言ではない確固たる根拠だった。
「あ、あぁ…!」
如何に鈍感でデリカシーに欠ける賢治でも、流石にこれは納得がいったらしく、ハッとした様子で感嘆の声を上げながらしきりに頷きを見せる。
「そ、そうか、そりゃそうだよな…! ハルが着替えの最中だったら不味いもんな…」
何とも気まずそうな顔でノックが必要な具体的例を挙げてきた辺り、賢治は実際に何度か遭遇した事のあるその場面をつい思い出してしまっていたのかもしれない。
実体験としてそれを持っていながら、今までノックという簡単な対策も講じられていなかったのは、やはり長年に渡って当たり前の事として染み付いていた習慣故だろう。
「だから、これからは、ちゃんとノック、してよね?」
遥がアイスキャンディをシャクシャクとかじりながら念を押すと、それが若干行儀悪い事はともかく、その内容に付いては異論が無かった賢治はこれに二つ返事だ。
「わかった! 今後は気を付ける!」
その了承をもってノック問題はこれにて一件落着、となればよかったのだがしかし、話しはここで終わりでは無かった。遥がこの際だからもっといろいろと物申しておこうと思ったからではなく、賢治がこの話題を少しばかり掘下げて来たからだ。
「それにしても…今更って言うか…何で急に…?」
賢治は入室前のノックを実施する事については二つ返事だったものの、どうして遥が今になってそんな事を言い出したのかがどうにも腑に落ちないといった様子だった。
この半年間、着替えどころか裸を見られても全く動じなかった遥を見て来た賢治からしてみればそれは正に急な話で、当然と言えば当然の疑問だったのだろう。
「な、何でって…」
何でと言われればそれは簡単な話で、先日の保健室で得た経験に依って、遥に女の子としての羞恥心が芽生えたからだった。ただ、そこに至った経緯を賢治に説明する為には、まず高校のプールで溺れて気を失ってしまった事から話さなければならない。
「えっ…と…なんていうか…その…」
そもそもの発端となった出来事自体が恥ずかしいことこの上ないエピソードだった遥は、賢治の疑問には答えられずに堪らずしどろもどろだ。
「そ、そう! これは別に急じゃないの! 前から思ってたけど言わなかっただけで! だ、だから…えっと…、うん、この話はこれでおわり!」
答えに窮した遥は、食べ終えたアイスの棒をゴミ箱に投げ入れながらそんな取ってつけた様な誤魔化しで半ば強引に話を畳みに掛かる。
「そ、そうか…、まぁ、それならそれで良いんだが…」
その面持ちには今一納得しきれてはいない様子が浮かんではいたものの、幸い賢治がそれ以上この話題に付いて深く言及してくる事はなかった。
「そ、そうだよ、それよりも賢治は何か用だったんじゃないの?」
遥は内心でホッと胸を撫で下ろしながら、この隙にとばかりにあからさまな話題転換を図ってみる。賢治は普段から特に用が無くとも暇さえあればやって来るので、大して広がりそうも無い話題ではあるが、遥としてはともかく話を逸らせれば何でもよかった。
「ん、あぁ…用って程の事は別に無いが…」
その回答は案の定というやつで、やはり賢治は普段の例にもれず、今日も特にこれといった目的があってやって来たという訳では無かったらしい。普段ならこのあと賢治は別に何をする訳でも無く適当にダラダラと過ごして、適当な時間に帰っていくのが通例だ。ただ今日の賢治は、定位置であるベッドの脇に腰を落ち着けながらも、ダラダラする以前に何やらふと思いついた顔になってちょっとした提案を持ち掛けて来た。
「まぁでも、せっかくの夏休みだし、明日当たりどっか遊びに行く相談ってのはどうだ?」
明日とは随分急な話ではあるものの、賢治からのお誘いともなれば、よっぽどの事情が無ければ遥がそれを断る理由等はそうそうない。
「いいね! それならボク―」
今回も遥はパッと瞳を輝かせて、それこそ二つ返事でこれを了承しかけたがしかし、その寸前で今の自分はそれが不可能な「よっぽどの事情」があった事を思い出す。
「あっ…ごめん…ボク、まだしばらくは補習があって、明日も学校だ…」
そう、遥は初日に只の一メートルも泳がないまま保健室送りになってしまった事もあって、夏休み開始から数日が経過した今でも、依然として体育の補習を修了できていないままだったのだ。
元々誰よりも多いノルマを課せられていた上に、そもそもの運動能力が壊滅的な遥である。そこへきて初日の失態から足の付かない学校のプールにすっかり苦手意識が付いてしまっていたとなれば、その補習が遅々として進んでいないのも仕方がない。
その為、他の参加者達が続々とノルマを達成して補習を終えてゆく中、遥はようやく折り返しといった所で、このままでは七月中に終わるかどうかも些か怪しい処だった。
そのおかげと言っては難だが、着替え問題に付いてもうそれ程悩まなくて済む様になっていた事だけは、唯一不幸中の幸いではある。
因みに体育の補習は午前中のみではあるものの、それを終えた後の遥が賢治と遊びに行ける様な余力を残していない事は言うまでも無い。
「補習って体育のだっけか…? それじゃぁ遊びに行くのは暫く無理そうだなぁ…」
細かな事情までは関知していないとしても、遥と体育の補習という組み合わせが中々に簡単では無い事には、さしもの賢治も容易に察しがついたようだ。
「うん…あっ、でも次の日曜なら―って駄目だ…その日は他に約束があるんだった…」
賢治の提案を諦め難かった遥は、補習の無い日曜日ならばそれが実現可能である事を口に仕掛けたがしかし、今度はその日には先約が入っていた事を思い出す。
「約束って、いつもの子達か?」
賢治の言う「いつもの子達」とはおそらく沙穂と楓の事で、遥は二人とも夏休み中にどこか遊びにゆく計画を立ててはいるが、今回の約束はそれとはまた別口だった。
「ううん、早見君と二人で遊びに行く約束してて…」
それは言うまでも無く、先日の保健室で遥が持ち掛けた「お礼」の件である。その時は行き先や日程を決めかねていた青羽でも、流石にそれから数日もあれば、具体的なプランをまとめるには十分だったのだ。
「うー…再来週の日曜日なら大丈夫なんだけどぉ…」
その頃には流石に補習も終えている筈で、そうなれば日曜と言わず、平日だって何ら問題は無いだろう。とは言え、それまでにはまだ十日以上もあって、刹那を生きる女子高生たる遥からすれば、そこまで先になってしまうと今回の話はもう白紙も同然だった。
「ごめんね賢治…やっぱり暫くは無理そう…」
折角のお誘いを断念せざるを得なかった遥はしゅんとして項垂れてしまったが、今の話でそれどころの騒ぎでは無かったのが何を隠そう賢治である。
「な、なぁ、ハル…、今、青羽と、ふ、二人で遊びに行くって…言ったか…?」
賢治からすればそれは正しく寝耳に水というやつで、どう考えても穏やかでは済ませられないその話に動揺を禁じ得ず、半ば愕然となってしまっていた。
「言ったよ? 次の日曜日は早見君と水族館に行く約束してるの」
賢治の気など知りもしない遥は、その様子を不思議そうにしながらも、青羽と二人で遊びに出かける事に付いては、行き先まで明言してしっかりと肯定する。
「す、水族館…だと!?」
その如何にもだった行き先に賢治は殊更愕然となったが、遥の方は相変わらずそれを不思議そうにしながらも随分と呑気な物だ。
「うん、早見君ってお魚好きなのかな?」
賢治はその意外過ぎる着眼点とそんな発想が出て来る遥の天然ぶりに、もはや愕然を通り越して頭を抱えてしまいそうにもなる。
遥の言い様から、水族館が青羽の希望である事はまず間違いないとして、問題なのは何故そこを選んだかだ。賢治には青羽が魚好きかどうかは知る由も無いが、そのチョイスには少なくとも遥なんかよりもよっぽど深く思う所があった。
「な、なぁ…ハル…二人で遊びに行こうって…あ、青羽が言い出したのか…?」
その問い掛けに対して、遥は何故そんな事を聞くのか分からないと言った様子で小首を傾げさせる。
「んー、半々かな? ほら、駅前での事とか早見君にはいろいろ助けてもらってるから、今回はそのお礼なんだー」
意図は分からないながらも遥がいちおう掻い摘んで事情を説明すると、賢治も大凡の経緯については納得ではあるが、その心中はどうしたって穏やかでは無い。
「そ、そうか…お、お礼で…青羽と…二人で…」
ともすれば、賢治は今すぐにでも青羽に電話を掛けて、多少強引にでもそれを止めさせたいとすら思わずにはいられない。ただ、遥の言うお礼に駅前一件が含まれているとなれば、そこに引け目の有る賢治としては実際にそうする訳には当然行く筈も無かった。
「遊びに行くのがお礼なんて、早見君は欲がないよねー」
賢治の心境は元より、青羽の気持ちなどはそれこそ知りもしない遥はそんな見当はずれな事まで言い出す始末である。
「そ、そう…か…なら…青羽に俺がヨロシク言ってたって…伝えておいてくれ…」
結局、賢治に出来たのはそんな遠回しな牽制を仕込んでおく事くらいで、遥が青羽と二人で水族館へ出かける等というどう考えてもデートとしか思えない話をみすみす容認するより他なかった。




