4-2.前途多難
いつも通り教室で過ごす朝のひと時、体育館で催された生徒会進行による恙無い終業式、そしていつもより少し長めのホームルームと担任からさされた若干の釘。
大凡そんなありきたりな感じで一学期最後の日程はあっという間に消化され、学生達はいよいよ待ちに待った夏休みへと突入した。
夏休みと言えば高校生活における一つの華であり、手渡されたばかりの通知表や課題の山には悲喜交々ありつつも、大抵の者ならば多少なりとも浮かれて然るべきではある。ただいつでもどこにでも例外は存在していて、何を隠そう他ならぬ遥がその例外に含まれる一人だった。
「あんた達…暗いよ…」
夏休み開始早々、沙穂がそんないつか聞いた覚えのある台詞を口にしたのは、終業式の後でもやっぱりいつも通りに訪れていたお気に入りのカフェ『メリル』での事だ。そして勿論の事ながら沙穂の言う「あんた達」とは、こちらもいつぞやの再現かの如く揃いも揃ってどんよりと暗く沈んだ面持ちで居る遥と楓の事で相違なかった。
「もぉ、夏休み早々何なのあんた達は…」
そうは言われても、二人だって何も好き好んでこんな日に落ち込んでいる訳は無く、遥と楓がそうなっているのには当然それぞれにそれなりの理由が有る。
「うぅ…だってぇ…」
まず、沙穂の指摘に対していつかの時と同じく真っ先に情けない声を上げた楓が落ち込んでいる理由についてたが、こちらは至って単純でそれほど深刻でもない。
「せっかくの夏休みなのに明日からいきなり期末の補習なんだよぉ…」
という事であり、楓の方は至って平常運転なので、本人の心情はともかくとして取りあえず放っておいても問題ないだろう。そもそも楓が夏休み中に補習を受ける事は、期末テストの結果が出た時点で確定していたので今更なのだ。
「あんたが三つも赤点とるからいけないんでしょ…自業自得よ」
沙穂も楓が落ち込んでいた理由に付いては元より承知の上だったので、その対応は若干投げやり気味で些か辛辣である。
「まぁ、ミナの方は予定通りだから良いとして…」
続いては楓の横でいつにも増して落ち込み様の著しい遥の方だが、こちらは今までが今までだっただけに一筋縄ではいかないかと思いきや、今回に限ってはそうでも無かった。
「まさかカナまで補習とはねぇ…」
楓に向けていた呆れ顔そのままに沙穂が述べたその通り、遥が落ち込んでいた理由もまた夏休み中に受けねばならならない補習授業についてだったのだ。
「カナちゃんテストの成績は良いのにねー…」
横でボソッと呟いた楓が何やら若干嬉しそうだったのはともかくとして、実際に遥は一年生をやり直しているアドバンテージもあって勉学に付いては今のところそつがない。その証拠に、一学期の総まとめとして今日受け取ったばかりの通知表も、ちょっとばかり誇らしくなる様な高評価がずらりと並んでいる。では、そんな遥がどうして補習を受けなければならないのかと言えば、その理由は至って簡単かつ少々複雑だった。
「仕方ないよ…ボク、体育は今までずっと見学だったし…」
遥がしょんぼりとした様子でまず簡単な方の理由を述べると、それに対して沙穂は眉を潜めて複雑である方の理由について論う。
「つっても、カナの場合は医者に止められてたんだから成績には関係ないんでしょ?」
この様に、遥が補習を受けなければならないのは体育の授業を受けた実績が無いからであり、そしてそれは沙穂の言う様に本来ならば免除されている筈だった。それにも拘らず、遥が夏休み中に体育の補習を受けなければならないという事は、とどのつまり状況が変わったのである。
「実はボク…七月からは体育の授業に出られる事になってたんだけど…」
それは六月の末頃、遥が月一の定期検査を病院で受けた際に主治医の諏訪医師から言い渡されていた事だった。
遥は相変わらず運動能力に付いては「要訓練」とされながらも、体力的な面ではもう体育の授業を受けても問題ないだろうと、そう診断されたていたのである。
そしてこの事は、毎月検査後に欠かさず行っていた診断書の提出という形で学校側にも既に報告済みで、要するに遥はその時点から体育の授業が免除では無くなっていたのだ。
「あれ…? でもカナちゃん、七月に入ってからも体育はずっと見学してたよね…?」
楓はたった今知り得た情報と実際が食い違っている事を不思議そうにするが、沙穂の方は大凡で事のあらましを把握できたようで呆れた顔で溜息を付いた。
「だから補習って事なんでしょ…」
正しくその通りで、先程本人も述べていた様に、六月末の検査結果を踏まえて体育が免除では無くなった後も、遥が「今までずっと」見学を続けていたからこその補習だ。
「うん、まぁ…そういう事なんだけど…」
遥が実に気まずい様子でそれが正解である事を肯定すると、沙穂は一層呆れた顔で殊更深々とした溜息を付いた。
「それでこんな落ち込むんだったら体育出とけばよかったじゃん…」
それは至極尤もな意見ではあるが、そんな事を言われても後の祭りであるし、そもそもの話をすると沙穂には少しばかりの思い違いがある。確かに遥は今現にこうして補習を受けなければならない事に対して落ち込んではいるが、何もそれは補習そのものが嫌だからではない。
「だって…体育の補習がプールだなんて思ってなかったんだもん…」
そう、遥が嫌なのは補習そのものでは無く、その内容が水泳だったからなのだ。
「いや、七月に入ってから体育はずっと水泳なんだから、そりゃそうなるでしょ…」
沙穂は少々呆れた顔でそれを当然であるとしながらも、遥が何をそんなに嫌がっているのかは全く意味が分からないと言った感じで首を傾げさせる。
「でも水泳なんて寧ろ楽な方でしょ…?」
得意不得意や好き嫌いを度外視すれば、確かに水泳は他の種目に比べて比較的負担が少なく、その点については遥としても別段異存はない。特に今時期は、炎天下のグラウンドや熱気渦巻く体育館よりも、水面が涼し気に揺らめくプールの方が断然良いに決まっている。
「それは…ボクもそう思うけど…」
遥は水泳という種目自体は良心的な内容である事をあっさりと肯定したがしかし、そうなると益々意味が分からなかったのが言わずもがなの沙穂だった。
「だったらなおさら普通に授業出とけばよかったじゃん…」
水泳自体に苦手意識がないなら殊更そうすべきだったという沙穂の意見はやはり至極尤もで、遥としてもこんな事になると分かっていたらそこには一考の余地があっただろう。
「ボクだってできればそうしたかったけど…でもぉ…」
遥が渋い表情で言葉を濁すので沙穂は一層困惑だが、それまで横で聞き役に徹していた楓がふと何やら思い付いた顔になった。
「あっ、もしかしてカナちゃん水着になるのが恥ずかしいの?」
楓が唐突に挙げたそれは、女子が水泳の授業を嫌がる理由としては割とありがちで、確かに遥としてもこれは若干無くは無い。もちろん遥が水着を恥ずかしいと思うポイントは普通の女の子のそれとは違っているだろうが、只いずれにしても流石にこれが水泳を嫌がっている理由の全てという訳では無かった。
「うー…それはちょっとあるけど…でもそういう事じゃなくてー…」
ひとまず楓の推論を不正解とした遥は、実際にそれを何と説明したらいいのかと頭を悩ませて、机の下で脚をパタパタさせながら少しばかり難しい顔になる。
「えっとぉ…体育って皆で着替えるでしょ…しかもプールって事は水着だよ…?」
取りあえず遥が考えの纏まらない中でも何とか理解を得ようと説明を始めてみると、幸いな事にこの時点で沙穂と楓はピンと来た様で、二人から揃って感嘆の声が上がった。
「「あー…」」
もし他の誰かがこれまで為された一連の話を聞いていたのなら、遥の口にしたそれは楓の挙げた事柄と殆ど同じ事の様に思えたかもしれない。ただそこは沙穂と楓なので、ここまで来ればそれが似て非なる物である事を理解するのはさほど難しい事では無かった。
「そっかー、そうだよねー、カナちゃん普通の体育でも皆が着替え始める前に教室から逃げてくもんねー」
楓はそれをどこか微笑まし気にしてる節が無きにしろ非ずだが、遥としては全くもって穏やかな話しではない。
「まー…確かにプールん時の女子更衣室とか、カナにはちょっと刺激が強すぎるかもねぇ」
これはもう全くもって沙穂の言う通りで、実際それがどんな光景なのかはともかくとして、遥はそれをちらりと想像してみるだけでも目を回してしまいそうである。
「うぅ…だからしょうがなかったのー…」
要するに遥は、二クラス分の女子が水着に着替えている真っ只中に飛び込んでいける勇気が無かったが為に、ドクターストップが解除されてからも体育を見学し続けていたのだ。
遥にとって体育の着替えは、女子高生として高校に復学する事が決まった当初から抱いていた大きな危惧ではあったものの、遂に現実となったそれは想定していたよりもずっとハードモードだったという訳である。
その余りにも高すぎる難易度に敢え無く敗北を喫した結果として、夏休み中に補習を受ける羽目になった遥だが、さて問題はここからだ。
「とりあえず事情は分かったけど…体育の補習って確か女子は結構参加者多かったわよね…あんた大丈夫な訳…?」
沙穂がズバリ突き付けてきたこれこそが遥の直面している本来の問題であり、今現在リアルタイムで酷く落ち込んでいる最大の要因に他ならなかった。なので、当然の事ながら大丈夫かどうかで言えば遥は全くもって大丈夫ではなく、女の子になって以来過去最大のピンチを迎えていると言っても過言では無いだろう。
「うぅ…ヒナぁ、ミナぁ、どうしよぉ…」
かつてない程に情けない顔で沙穂と楓に助けを求める遥だったが、こればっかりは泣きつかれたところで二人にはどうしようも無い。
「まぁ…取って食われたりはしないから大丈夫よ」
「そうそう、男の人のアレよりはたぶん全然へいきだよー」
沙穂と楓が出来たのは、そんな割とおざなりな気休めを言う事くらいで、これでは到底前向きになれる筈も無かった遥は堪らず机に突っ伏してしまう。
「うあーん! 夏なんて大嫌いだ―!」
そんな訳で遥の夏休みは、ある意味過去最大の難問と共に、正しく前途多難といった様相でその幕を開ける事となった。




