1-12.悪夢
賢治は遥の言葉を待っていた。遥を問い詰め性急に答えを求めたりはしてこなかったが、遥にはそれがプレッシャーとして感じられた。美乃梨の事を説明するのは事故の記憶を掘り起こすのと同義だ。遥は躊躇う。間違っても楽しい話にはならない。しかし無言で遥の言葉を待つ賢治の険しい表情に、このまま黙っている訳にもいかないと腹を括るしかなかった。
「あ、あのね…、美乃梨は、あの時ボクが助けた子なんだ…」
重々しい空気の中、少し目を伏せ遥は賢治にそう告げる。賢治の表情が一層険しくなった。奥歯を噛みしめる音が遥にも聞こえそうな程だ。
「なんでだ…」
賢治は低く唸るようにそう言った。
「えっ…と、美乃梨に会ったのは、本当にすごい偶然で…」
険を増した賢治に小さくなりながらも遥は答える。美乃梨がこのタイミングで遥と同じ病院に入院していたのも、遥と自動販売機の前で出会ったのも本当にただの偶然だ。遥は当時助けた女の子の顔をはっきりと覚えていなかったし、覚えていたとしても成長期の三年を経て子供から少女に変貌を遂げた美乃梨を判別できなかっただろう。そして美乃梨が遥の事を外見から特定するのが不可能なのは言うに及ばずだ。そう全て偶然なのだ。だからこそ美乃梨は「運命」という言葉を使ったのだろう。
妙に懐かれスキンシップの多い美乃梨に、本来の性別から罪悪感を感じ事情を打ち明けたところ、彼女は事故の当事者だった事が分かった。遥は美乃梨との経緯を賢治にそう語って聞かせた。
「ハル…お前平気なのかよ…」
遥の話を聞き終えた賢治が低くい声でそう洩らした。その声には明らかに怒りが満ちている。
「お前が事故に遭ったのはあいつのせいだぞ!」
賢治は珍しく声を荒げ目を見開きベッドに手をついて遥に詰め寄った。上からかぶさる様な形で眼前に迫った賢治の姿は、身体の小さくなってしまった遥には恐ろしく威圧的に感じられた。それと同時に親友の怒りの矛先が美乃梨に向かっている事にショックを受ける。確かに賢治の言う事は一面の真実だ。あの時美乃梨がもう少し慎重に行動していれば事故は起きなかったかもしれない。美乃梨自身もそれを感じていた為にあれほど泣いたのだろう。それでも遥は美乃梨の事を責める気持ちにはなれなかった。
「ハル、あいつの病室何処だ」
そう言ってベッドから離れた賢治の瞳は怒りに揺れながらも、ぞっとするような冷たさだった。
「ま、待って賢治、悪いのは赤信号で突っ込んできた車で…」
今にも病室を飛び出していきそうな賢治の腕を両手で掴み遥は必死に抑える。
「あいつにだって責任はある!」
賢治は叫び遥の腕を振り払った。
「ハルが教えねえなら自分で調べるだけだ」
背を向け病室の入口を目指そうとする賢治に遥は焦った。何としても追わなければと、今度は身体のコントロールを失わない様全身の力を振り絞る。
「待ってよ、美乃梨は…美乃梨はもう十分苦しんでるよ!」
何とかベッドから立ち上がり頼りない足取りで賢治を追い縋り訴える。事情を打ち明けた時、涙を流し「ごめんなさい」と何度も繰り返した美乃梨、そして先ほど病室を去り際に見せた思いつめた表情。感受性豊かな美乃梨が平気でいるはずがないのだ。遥の言葉に足を止めた賢治に遥はようやく追いつくと再びその腕を掴む。
「賢治待って! 大体行ってどうするんだよ!」
掴んだ賢治の腕が、握り込められた拳に強張り熱した鉄の様だ。
「行ってどうするかなんて俺だって分かんねえよ!」
賢治は感情を吐き出すように語気を荒げ勢いよく遥の方へ向き直った。
「ッ…!」
賢治の振り返った勢いにその腕を掴んでいた遥はあっけなく弾き飛ばされてしまう。未だ不安定な足取りで立っていたため踏ん張り切れず数歩たたらを踏んで床に尻もちをついた。
「ったぁ…」
尻もちをついた遥は体重が軽いせいもあり衝撃は弱く特に痛みもなかったが反射的にそう声が漏れる。そんな遥の姿にそれまで怒りに紅潮していた賢治の顔がさっと青ざめた。
「ハル! 大丈夫か!?」
慌てて駆け寄り遥の様子を伺った賢治の表情は、親友を気遣う不安げな色と、そして悔いるような苦し気な物へと変わっていた。遥の胸が締め付けられる。親友の怒りも、そして今見せる苦し気な表情も、全て自分に起因しているのだと。それは一種の呪いの様に感じられた。そうであるならば、その呪いを解けるのは他の誰でもない遥自身しかいない。一旦深呼吸をして気持ちを落ち着ける。自分に何が出来るのかはわからないけれど、賢治の苦悩と向き合おう。そう心に決める。
「ベッドに戻して…。それから賢治も座って」
賢治を不安にさせぬよう極力平静に努めながら遥は賢治に向って手を伸ばす。賢治は迂闊な自分の行動を悔いつつ、差し出された手には触れず背中と下半身に手を回すと横抱きにしてゆっくりと遥の身体を持ち上げた。遥の思っていた態勢とは違ったがひとまず今はダメ出しをしている時ではない。賢治はベッドまでその態勢のまま遥を運ぶとまるで壊れ物を扱うかの様な丁寧さで遥をベッドに落ち着け、自分は横にあったパイプ椅子へ崩れ落ちる様にして腰を下ろした。
暗く苦し気に表情を曇らせる親友の姿に遥の胸が締め付けられる。賢治が自分の心を光で満たしてくれた様に、今度は自分が助けになりたい。そう強く想う。賢治を真っすぐ見つめ自分に何が出来るのかを考える。
「取り乱してすまん…」
遥の真っすぐな視線に気付いた賢治はそう言って俯いた。
「俺…、今でもあの日の事を夢に見るんだ…」
俯き自分の膝の上で拳を固く握った賢治には、苦しみ、悲しみ、後悔、そんな感情が溢れていた。
「ハルが前俺に言ったよな、追いつくって。けど、ずっと追いかけてたのは俺の方だ…」
賢治のその言葉に遥の心が揺らめく。三年の時間差に置き去りにされてしまったと感じた遥に、賢治は「おいて行った事なんて無い」そう言ってくれた。その言葉は遥の心を温かく包んでくれたが、その裏で賢治がこれほど苦しんでいた事に気付けていなかった。
「俺は…、この三年間、ずっと目に見えないハルの姿を追ってたよ」
それまで常に傍らにいるのが当たり前だった存在。それがある日突然目の前から居なくなった。それは賢治に深い喪失感を与えた。日常の何気ない場面で、ふとそこに居たはずの遥を探してしまう。そしてその度に失った存在の大きさに心を苛まれる。それはまるで悪夢の様だった。賢治の三年間はそんな日々だったと言う。
そして遥の帰還を知り三年ぶりに再会した。変わり果てた姿に戸惑いながらも思い出を確かめ合い、確かに遥が戻ってきたのだと実感できた。ただそれでもどこか感情の上で納得できていない想いがあった。変わってしまった姿を見る度、リハビリに励む不自由な身体の様子を見る度、どこかでまだ悪夢が続いている様な気がしていた。
三年間抱えてきた想いを打ち明けた賢治に、遥の胸には様々な感情が溢れていた。賢治を独にしてしまったという後悔、それに気付けないでいた無念、そして自分の事をずっと想ってくれていた親友に対する暖かな気持ち。遥はそれらの感情をどう表現していいのか、どう賢治に伝えたらいいのか考える。言葉では言い尽くせない。こんな時どうすればいいのか、ふと美乃梨の姿が思い浮かんだ。感情の赴くまま振る舞うあの姿が。
「賢治…」
遥はベッドの上で膝立ちになり、賢治の方へ真っすぐ向かう。そして項垂れた親友へと小さな両手を伸ばしてゆく。
「ハル…?」
賢治は戸惑ったが、遥は気に留めず身を乗り出しそのままゆっくりと賢治に身体を預ける。
「ボクはもうここに居るよ」
かつて賢治がくれた心の灯を移し替える様に、賢治にしっかりと身体を寄せ遥は囁く。
「賢治は言ってくれたじゃないか、お前はハルだって。だからボクは間違いなくここに居るよ」
賢治の身体を細い腕で一度ぎゅっと強く抱きしめ、それからゆっくりと身体を離し遥は微笑んだ。
「ハルは強いな…」
あどけない少女の顔で笑いかける遥の笑顔はどこか眩しく感じられ、賢治は目を細め少し自嘲気味に笑ってそう呟いた。賢治の言葉に遥は小さく苦笑する。賢治に自分が強く見えたのだとしても、それは自分の強さではない。一人で悩み、苦しみ、絶望し、色々な事を見失って、その度に周りに救われてきた。家族の愛情を示してくれた両親、命ある事の喜びを教えてくれた美乃梨、その命を救ってくれた諏訪医師。そして自分を信じさせてくれた賢治。そんな周りの人々によって今の時分は形作られている。遥は自分の胸に手を当てそれを確かめる。
「ボクは強くなんかないよ…。皆が、賢治がいてくれたからだよ」
遥は再び賢治に笑いかける。自分が分けてもらった強さを、今度は賢治に返したい。これから先の自分は辛い記憶の象徴としてではなく、賢治の強さとして共に在りたいと、そう想うのだ。
「ボクはもう大丈夫。傍に居る」
遥は真っすぐと賢治の瞳を見つめ穏やかに微笑む。それは賢治の胸の内にあった辛い思い出や暗い感情にそっと寄り添ってくれる向日葵のような笑顔だった。
抱きしめられた時の感触と、その眩しい笑顔に賢治の感情がクリアになっていく。見晴らしの良くなった心で賢治の理性が悪夢はもう終わりにしようと告げていた。握り込めていた拳をゆっくり開き手の平を見つめる。遥は傍に居ると言ってくれた。もう悪戯にその姿を追いかける必要はない。もう大丈夫だと言った。賢治はその言葉を胸に刻みこの三年間の苦渋を打ち払う。
「ハル、あいつと話をさせてくれ」
そう言った賢治はもう落ち着いたいつもの賢治だった。悪夢と決別するためには美乃梨とも正面からきっちりと向き合う必要があると感じていた。遥もそれを認め頷く。
遥にとっては美乃梨もまた強さをくれた一人だ。このまま放っては置けないし、叶うのならば賢治と美乃梨には分かり合ってほしいと願った。