3-72.願い
遥がぶつけた想いの丈がどれほど賢治に伝わったかは分からない。伝えたかった想いの総量に対して、その言葉が余りにもたどたどしい物だった事は遥自身が一番良く分かっている。ただそれでも遥は、賢治に想いが伝わった筈だとそう強く信じられていた。ついさっきまで激情に任せて怒りと憎悪に身をやつしていた賢治が、今はもうその動きを止めてくれていたのだから。
「けんじ…、ボクはもう、大丈夫だから…」
動きを止めたその大きな背中に顔をうずめながら、遥は今一度想いを言葉に紡いでそれを賢治の心に向って響き渡らせる。
「だからけんじも…もう…大丈夫だよ…」
多分それは、誰だって持ち得るごく当たり前の願いだ。家族だったり、恋人だったり、友人だったり、向ける相手は人によって様々かもしれないが、皆一様に何時だってそれを願っている。大切な人には、大好きな人には、ただ健やかに、ただ幸せであって欲しいと。
「賢治が辛いのは…ボク…嫌だよ…」
遥が想いと共にその身体をギュッと抱き締めると、賢治は正面を向いたまま何も応えなかったが、その代わりに今まで襟を掴まれて無理やり立たされていた青羽の身体がその場にガックリと崩れ落ちた。
「ゲホッ! ゲホッ!」
賢治の手から解放された青羽はアスファルトの上に跪きながら激しくむせ返り、それにハッとなった沙穂と楓が慌てた様子で傍まで駆け寄ってゆく。
「は、早見くん! だ、だ、だ、大丈夫!?」
楓の心配振りは今回に限って言えば大袈裟でも何でもなかったが、当の青羽は上体を起こしていつも通り爽やかに、とはいかないまでも笑顔でそれに応えて見せた。
「ハァ…ハァ…、ありがとう水瀬さん、これくらい…あつつッ…だ、大丈夫…だよ…」
その引きつった笑みから青羽が強がっているのは明らかで、これでは楓も安心できる訳が無く、沙穂ですらもその顔を覗き込んで心配そうな面持ちになる。
「せっかくのイケメンが台無しね…」
神妙になって沙穂が溜息交じりに言ったその通り、しこたま賢治に拳を叩き込まれた青羽の顔は元の男前ぶり等見る影が無ほどに無残な有様だった。
「日南さん、俺の事…イケメンだと…ツっ…思って…くれてたんだ…」
青羽は沙穂に軽口を返して見せはするものの、大きな痣と無数の裂傷が刻まれたその顔はやはりどうしたって痛ましい。そんな青羽の姿は誰が見ても「悲惨」の一言で、そしてそれは既に遥の想いによって我を取りしつつあった賢治の理性を完全に呼び覚ますには十分すぎる物だった。
「あっ…お、俺は…何て…事を…」
理性を取り戻すと共に自身の行いをも激しく省みた賢治は、ともすれば再び拳を握り込んで、今度はそれを自らの顔面に叩き込みそうにもなる。ただ、それをさせてくれなかったのがいち早く賢治の心情を察して傍まで歩み寄って来た倉屋藍と、そして今までその拳を散々食らわせれていた人物、青羽その人に他ならなかった。
「紬君、手から、血が出てる」
倉屋藍は、自分の時にも同じ事をしようとしていた賢治の先回りをするかのように、血が滲んで赤黒くなっていたその拳にハンカチをあてがいそれを両手でそっと包み込む。青羽の方はその拳が封じられている間に、楓や沙穂の制止も聞かずに自らの健在ぶりを示すかの様に、自身の両脚でしっかりと地を踏みしめて賢治の前に立ち上がった。
「け…賢治…さん…」
やはり無理をしているのか青羽が苦痛に顔を歪めながら呼びかけて来ると、賢治はどの様な報いをも受け入れる覚悟を持って次の言葉を待ち受ける。
「最初に殴った事や…ツッ…奏さんに怪我させた事は…謝ります…」
青羽はまず自らの行いに対する謝罪を口にして、賢治は次こそが報いの時だとそう信じて疑わなかったがしかし、そうはならなかった。
「だからこれで…ッ…おあいこって事に…しませんか…」
賢治にとってそれは耳を疑う様な信じられない申し出で、これには思わず愕然となって困惑せずにはいられない。
「し、しかし…それではキミが余りにも―」
自分の行った仕打ちの本質を誰よりも理解していた賢治は、それを「おあいこ」とする事がどれほど理非に反しているかを説こうとしたが、真っ直ぐな眼差しを作った青羽がそれをさせなかった。
「もうこれ以上、奏さんを悲しませるのは…、嫌なんです!」
後悔の念が滲むその言葉と、自責の念がありありと浮かんでいたその面持ちに賢治はハッとなる。
「青羽…キミは…」
悔し気なその表情の中で、真っ直ぐな意志の光を帯びた青羽の瞳が、全ては遥の為だと、そう強くそう主張していた。
「賢治さん、俺…奏さんの笑ってる顔が…見たいですよ…」
その言葉が遥の響かせてくれた想いや願いと重なり合って、賢治の頑なだった心を揺り動かす。そしてそれを後押しする様に、今まで拳を優しく握ったまま二人のやり取りを見守っていた倉屋藍が遠慮がちに微笑みかけて来た。
「紬君、あの子の為に、自分を許してあげて」
そうしなければ自分との事は全て嘘になってしまうと言われた気がした賢治は殊更ハッとなって、その胸にはグッと熱い物が込み上げて来る。もしかしたら、そう思う事で自身を納得させようとしていたのかもしれないが、それでも賢治が迷う理由はもうどこにも無かった。遥を悲しませたくないというその気持ちは、倉屋藍の三年間を犠牲にしてまで守ろうとした唯一無二の想いに他ならず、青羽のそれにも決して引けを取る物では無いのだ。
「わかった…これで…終わりにしよう…、青羽…すまなかった…」
想いの定まった賢治が終幕を告げる言葉を謝罪で締めくくると、周囲にはホッとした空気が満ちて、やはり無理をしていたらしい青羽は再びその場に崩れ落ちた。
「は、早見くん!」
元々すぐ後ろに控えていた楓がすかさず青羽のフォローに入り、同じく後ろに控えていた沙穂はその様子を見守りながら心底呆れた顔で大きな溜息を付く。
「あんたって、ほんと救いようのない馬鹿ね…」
沙穂は言葉や態度こそ辛辣ではあったものの、その眼差しがいつもより幾分も優し気だったのはおそらく気のせいでは無い。
「あつつッ…二人共、心配かけてごめん…」
青羽は沙穂と楓に向ってバツが悪そうに謝罪をしてから、顔を上げて今一度賢治の方へと目を向ける。
「賢治さん、とりあえず…」
青羽はそこで一旦言葉を止めると、視線を賢治の顔から下へとずらして小さな溜息と共に僅かばかりの苦笑をこぼした。
「二人で奏さんに謝りましょうか…」
再び口を開いた青羽が今度は何を言い出すのか全く予想も出来ていなかった賢治だが、これに関してならば元よりそのつもりで断然異論は無い。
「そうだな…」
今ここに居る面々の中で、他の誰よりも遥が心を痛めているだろう事は、賢治が一番身に染みている。遥が響かせてくれた想いと願いは、清らかな音色を奏でて今や賢治の胸の内一杯に広がっていた。
「ハル…」
面と向かってキッチリ謝罪をするために賢治が呼び掛けると、遥はその背中からゆっくりと身体を離して一歩前へと進み出る。
「奏さん、ほんとうに…ごめん!」
まず真っ先に送られて来た青羽の改まった謝罪に、遥は正直どんな反応を返せばいいのか分からず戸惑ってしまったが、賢治とのやり取りを思い返せば答えは一つしかない。
「ううん…早見君、ありがとう…」
一度左右に首を振った遥は、次に感謝の言葉を述べ、そして青羽がそうあって欲しいと願ってくれた様に小さく微笑んで見せた。流石に満面の笑顔とはいかなかったものの、それでも青羽はホッとした面持ちになって嬉しそうにする。
「はぁ…よかったぁ…俺、これ以上奏さんに嫌われたどうしようかと…」
遥は確かに青羽を敬遠しがちではあるが、別に毛嫌いしている訳では無いのでこれには今度こそ反応に困って思わず苦笑いだ。
「ほら早見、ちょっとこっち向いて、手当してあげるから」
遥の微妙な心中を察したのか、沙穂は青羽を半ば強引に自分の方へと向き直らせ、自前の通学リュックから取り出していた絆創膏をその顔に張り付けだす。
「ッてぇ…! 日南さん、もっと優しくしてよ…!」
青羽は堪らず抗議の声を上げるが、沙穂は知らん顔で楓にも絆創膏を分け与えて引き続きその乱暴な処置を続行だ。遥はその様子に苦笑しながらも、一先ず青羽は沙穂と楓に任せておけば大丈夫そうなので、今度は賢治の方へと向き直った。
「賢治は…もう…大丈夫?」
問い掛けながら見上げた賢治の瞳には、あのゾッとする様な冷たさはどこにも見当たらず、それだけでも遥の気持ちは幾らも穏やかになる。
「あぁ…心配かけて…すまなかった…」
そう答えた賢治は一瞬だけ複雑な表情を垣間見せたが、遥はそれをきっとまだ完全には自分の行いを許せていないからだと理解してその事は敢えて追求しなかった。その代りに、遥は賢治の横でその拳を両手で包み込む様に握っていた倉屋藍の方へと向き直り、最後にどうしても成し遂げておかなければならない一つの事柄と対峙する。
「……」
遥は賢治に寄り添っている倉屋藍の姿にぎゅっと胸が締め付けられながらも、その胸の中心で幹となっている大樹の想いを支えに、もう無暗に絶望したりはしない。
「くらや…さん…」
恋心を全て散らしてしまった今でも、本当は自分がそうでありたかったという気持ちは偽らざるもので、遥は思わず胸が詰まりそうにもなる。それでも今は、それが賢治にとっての幸せなのだと信じて、ただそれだけを願って、自らの苦楽など一切顧みず、遥は想いの枝を倉屋藍へと引き渡した。
「賢治の事、おねがい…します…!」
想いを託した遥が倉屋藍に向って深々と頭を下げたのは、何も誠意を現す為ばかりでは無い。そうしなければ、今にも泣き崩れてしまいそうだったから、そうしなければ、未練を残してしまいそうだったから。
「カナ…」
「カナちゃん…」
遥と倉屋藍が向き合った時から、固唾を呑んで様子を見守っていた沙穂や楓、それに青羽はその愛おしいまでのいじらしさに思わず涙ぐみそうになる。三人共、賢治を失ったと感じた遥がどれほど絶望していたのかを知っていただけに、その共感も殊更というものだ。がしかし、そんな具合に感極まってすらいた少年少女たちに反して、キョトンとしてしまっていたのが言わずもがなの賢治と倉屋藍だった。
「えっと…」
案の定、意味が良く分からなかったらしい倉屋藍は困った顔をしてしきりに首を傾げさせていたが、幸いな事に賢治程には察しが悪く無かったようだ。
「あぁ…、あのね、私さっき、紬君に振られてるの、だから、お願いされても、駄目なの」
倉屋藍が有りのままの事実を明かして想いを付き返して来れば、今度は遥達がキョトンとする番だった。
「…へっ?」
賢治と倉屋藍の関係に一分の疑いも持っていなかった遥にとって、寝耳に水とは正しくこの事だ。それは状況を見守っていた沙穂と楓、それに青羽の三人も同様だったらしく、皆一様に狐につままれた様な顔でポカンとしてしまっていた。
「えっ…? で、でも…キス…して…」
その瞬間を目撃してしまったからこそ、二人の関係に疑いを持たなかった遥は、大いに混乱をきたしながらひとまずの事実確認を計ろうとする。
「あー…ハル…もしかして…」
流石にここまで来れば如何に鈍感な賢治と言えども大凡の事情が理解できたらしく、かつてないくらいに神妙な面持ちになった。
「アレを見てたのか…」
その言葉に遥が頷いて肯定の意思表示をすると、賢治と倉屋藍は何とも言えない微妙な表情で顔を見合わせる。
「あれは、私が一方的にしただけで、その後、振られたの」
倉屋藍の捕捉に遥は唖然となりながらも、全ては自分の勘違いと早とちりであった事をもはや完全に理解した。
「そ、そう…だったんだぁ…」
それまでの絶望感が途方もない物だっただけに、遥は安堵するよりも先にただただ気が抜けて、堪らずその場にフラフラとへたり込んでしまう。
「もしかして、倉屋に俺を取られると思ったのか…?」
賢治が自身も屈みこんで問い掛けて来ると、酷い誤解をしてしまった気まずさや、図星を付かれた気恥ずかしさから、遥の顔はあっという間に耳たぶまで真っ赤だ。
「あぅ…」
遥はひたすらに赤面するばかりだったが、賢治はその態度を肯定の意と受け取ったのか「成程」と納得した様子で一度頷き、それから青羽の方をチラリと見やった。
「俺がハルを悲しませたってのはその事か…、それで俺は青羽に殴られた訳だ…」
視線に気付いた青羽はギクリとした表情になったが、賢治が今更それをどうこう言う筈もない。例え誤解や勘違いだったのだとしても、遥が傷付いていたという事実が在るならば、賢治は青羽の行いは正当だったとそう思うのだ。
「青羽、おあいこ…だろ?」
青羽が謝罪を言い出す前に一本釘を刺した賢治は、それから遥の方へ視線を戻したかと思うと、いつも通りの落ち着いた面持ちでいつも以上に優しく微笑みかけて来た。
「今はハルが優先で恋愛なんて考えてないって、前にも言っただろ?」
賢治の笑顔とその言葉は、絶望にまかれて暗闇に満ちていた遥の心に降り注いで眩い光の群れとなる。かつて幾度となくその言葉に安らいできた遥だが、今日ほどそれが救いに感じられた日はなかっただろう。例えそれが永遠を約束するものでないのだとしても、少なくともその時が来るまでは賢治の傍に居られるのだというだけで、今の遥にはもう十分だった。
「ボク…まだ…、賢治の傍に…いられるんだね…」
安堵感や幸福感に推され、遥の瞳から自然と暖かな涙が一筋こぼれ落ちてゆく。そんな遥の姿につられて今度こそ後ろで見ていた沙穂と楓は涙ぐみ、青羽と倉屋藍はそれぞれに複雑な面持ちにはなっていたが、その眼差しは皆一様に穏やかだった。
初めからそうだった青羽は元より、想いを断ち切られても尚「ありがとう」と言えた倉屋藍もきっと同じなのだ。何時だって、願う事はたったの一つ。大切な人には、大好きな人には、ただ健やかに、ただ幸せであって欲しい。そしてそれは、倉屋藍の三年間を犠牲にしてまで遥への想いを守り通した賢治ならば尚更だ。
「ハルの傍に居るって、約束しただろ」
遥の瞳から零れ落ちた涙を親指で掬い取った賢治は、自らの誓いを証明するかの様に、その小さな身体を自身の胸元にそっと抱き寄せた。
「不安にさせて、悪かった…」
その優しい言葉と、優しく包み込んでくれる賢治の体温が暖かな陽となって、遥の胸の中心で根を下ろしていた大樹の想いに柔らかく降り注ぐ。
「うん…」
せめて今だけはと、自らも身を寄せた遥の胸の内では、陽の光に煌めく大樹の新緑と、その枝先で芽吹く小さな蕾がサラサラと揺れていた。
「ありがとう…けんじ…」
かつて爛漫と咲き誇っていた恋心を全て散らしてしまっていた遥には、その蕾がほころんだ時にどんな色の花が咲くのかはまだ考えも及ばない。ただ願わくばその花は、例えどんな色であろうとも、賢治の傍で咲く花であって欲しかった。




