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3-68.花と嵐

 今の身体になってからの遥は、小さく非力で、運動神経も皆無に等しく、身体的な面では大凡の部分で人よりも劣っていた。恐らくそれは、十歳前後という肉体年齢相当で見積もった所でさして変わる事の無い公然たる事実だろう。

 見た目が愛らしい事はそれなりに大きな取柄と言えなくも無かったが、遥自身からすればそれは短所であり只のコンプレックスでしかない。ただ、そんな遥にもたった一つだけ、人よりも秀でていると胸を張って断言できる身体機能がその身体に存在していた。

 それは、本の虫である遥がかつての肉体では半ば損ないかけていた物であり、今の真新しい十歳前後の身体になったからこそ得られた物、詰まるところが視力だ。

 訓練を要する一種の運動機能である動体視力に関しては流石にその限りでは無いが、事、単純に物を見るだけの静止視力ならば、遥のそれは余人に全く引けを取る物では無い。実際に遥は、月に一度病院で受けている定期検査において、運動能力に関しては「要訓練」とされながらも、視力だけは常に計測上の最高数値をマークし続けている。

 そんな唯一と言っても良い遥の優位性だがしかし、それが常に良好な結果や成果をもたらすとは限らない。遥は人よりも視力がずば抜けていた所為で、気付いてしまったのだ。照明の頼りないロータリーの薄暗さや、向こうが気付かない程にはまだ幾らかあった距離をものともせずに、そこで起きていた出来事が、沙穂や楓が言う様な単なる偶発的な「事故」では無い事を。

「ボク…あの人…知って…る…」 

 虚ろな瞳をした遥がかすれた声で絞り出すようにしてぽつりと呟いたその言葉は、沙穂と楓にとっては正しく寝耳に水だった。

「なっ…!」

「えぇっ!?」

 沙穂と楓は愕然となって、これでは二人ももうそれを単なる「事故」として扱う事はできず、フォローの言葉も直ぐには出てこない。その代わりに二人が口にしたのは、隠し得なかった大きな困惑と、そしてそれに伴う当然の疑問だった。

「か、カナちゃん、それ…ほ、本当なの?」

「見間違いとか、他人の空似じゃなくて?」

 俄かに信じ難いと言った面持ちを見せる沙穂と楓に、遥はゆっくりと左右に首を振ってその疑念を否定する。

「…そうだったら…よかった…けど」

 遥とてそれがただの「事故」であった方がまだいくらかはマシだっただろうが、一度それに気付いてしまった今はもう、そんな希望的観測は到底抱けずにいた。

「あの人…高校の…同級生で…」

 その言葉に沙穂と楓が殊更愕然となったのは言うまでも無い。

「「えぇぇぇ!?」」

 それは遥が今の身体になる以前、かつて男子生徒として高校に通っていた頃の事の記憶だった。

「名前も…わかるよ…」

 かの人物は名を倉屋藍くらやあいと言い、目鼻立ちの整った美しい顔立ちと、清楚で物静かな雰囲気から男子生徒人気が非常に高く、遥達の学年では一種のマドンナ的存在だった女生徒だ。

 初心で奥手な上、今にもまして女の子に免疫が無かったかつての遥は、その他大勢として僅かな憧憬を抱きながらも、倉屋藍と直接話しをした事自体は無い。その程度なので何か個人的な思い出や特別な思い入れが有るという訳ではないのだが、それでも彼女の事はハッキリと記憶に残っていた。

「そ、それって…四年くらい前の話し…だよね? 記憶違いとかじゃ…」

 楓は時間経過を引き合いに出して、その記憶が本当に定かな物なのかどうかを疑問視するも、遥に対してそれは愚問だろう。倉屋藍が印象的な生徒だった事以前に、その記憶は遥からすれば曖昧になってぼやけてしまう程に古い物では無いのだ。

「ボクにとっては…そんなに前のことじゃ…ないよ…」

 遥がその四年間には自分の時間が殆ど流れていなかった事を示唆すると、その言葉で楓はハッとした顔になる。

「い、いやでもさ、四年も経ってたら女子は結構変わるじゃん!」

 楓に代わって今度は相手の変化を論った沙穂の言う事は尤もで、実際先程目にした人物は遥の記憶していた高校生の倉屋藍よりももっとあか抜けた大人の女性だった。がしかし、それでも遥の目から見てあの女性には間違いなく倉屋藍の面影が在ったし、全体的な印象も当時の彼女とさして変わってはいなかったように思えたのだ。何よりも、状況的に言ってあの人物が倉屋藍である事を遥はまず疑いようが無かった。

「賢治と…一緒…だった…よ?」

 かつての同級生と良く似た人物がその同窓にあたる賢治と「親しく」していたとなれば、これで見間違いや他人の空似を疑う方が逆に不自然という物だ。賢治は響子に頼まれてここまでやってきているので、出くわしたのは偶然なのかもしれないが、駅前という場所を考えればそれは十分に起こり得る事だろう。実際にほぼ毎日のように駅前を利用している遥は、倉屋藍以外にもかつての同級生とおぼしき人物を幾人か見かけた事があった。

「そ、それは…そうかも…だけど…」

 可能性の話しとしてどちらの言い分がより現実的であるかを賢明な沙穂が理解できなかった訳は無く、これには堪らず言い淀んでしまう。この時点で沙穂と楓はもうすっかり反論の余地を失ってしまっていたが、遥はもう一つだけ、あれが倉屋藍であるとする決定的な根拠を二人に示した。

「それに…ボク…淳也から…聞いたの…」

 それは、ほんの一ヶ月ほど前、まだ梅雨の只中だった六月のある日、雨天を理由にして珍しく駅の表側を利用していた淳也と偶然に出くわした日の出来事だ。

「賢治は…ボクがいない間…来るもの拒まずで…いろんな女の子と…つ、付き合ってて…」

 その時、淳也は一例として、数人の実名をこっそりと遥に教えてくれていた。つまり、その中に在ったのだ。倉屋藍の名前が。

「だから…あの人…賢治と…ッ…」

 そこまで口にした遥は思わず言葉に詰まって、それまで虚ろだったその瞳がゆらりと光を反射する。淳也はそれを、あくまでも過去の出来事として語っていたが、遥にとってそれは今や目の前で巻き起こっている紛れもない現在進行形の出来事だった。

「も、もしかしたら…い、今も…!」

 例え賢治と倉屋藍の関係が一度切れていて、今もまだそのままなのだとしても、遥にはもうそれがただ時間の問題である様にすら思えてしまう。

 倉屋藍が今でも賢治に対して並々ならぬ好意を抱いているであろう事は、先のキスシーンから見てもまず間違いが無い。賢治にしても、当時こそ恋愛どころでは無かったのかもしれないが、今ではそれを妨げる様な枷はどこにも存在してはい筈なのだ。

「け…けんじも…もしか…したら…」

 賢治は恋愛絡みの話しになると、いつも「今は遥が優先」だと言ってくれてはいたが、その言葉は必ずしも永遠を約束してはくれていなかった。ならばその「今」が今日で終わりだったとしても、遥は最早それを何ら疑問に思わないだろう。

 大人の女性に成長していた倉屋藍は当時にも増して美しかったし、賢治と寄り添っていたその姿は、遥の目から見てもある種理想的ですらあった。それに引き替え、自分は女性未満の小さな幼女で、それどころか今頃になって「性の芽生え」を迎えている様な「女の子」にすらなり切れていない中途半端な存在だ。どちらが賢治に相応しい「相手」か、男が異性として惹かれ得るのはどちらか、遥はもうその答えを想像してみる必要すらも無かった。

「そうだ…けんじだって…きっと…」

 その結論は余りにも残酷で、今にも心が張り裂けそうだった遥は、悲痛な面持ちになってその薄っぺらな胸元を小さな両手でギュッと強く握りしめる。

「カナ…もう…、もう分かったから…!」

 堪らず沙穂がやんわり抱き寄せて来ると、遥の瞳を揺らす光が一層大きくなって、その頬には一筋の湿った感触が通り過ぎていった。

「カナちゃん…」

 楓も寄り添うようにして、小さく震えるその肩と背中に腕を回して来れば、僅かに保たれていた理性は消え去って、遥の感情が堰を切ったように溢れ出す。

「う…うぇぇ…」

 哀しみ、苦しみ、切なさ、遣る瀬無さ、そして幾ばくかの嫉妬とそれ以上の羨望。胸の内を席巻するそれらの感情一つ一つに呼び名を付けていけば切りはないが、その中でも一際大きく遥の心を苛んだ物は、恐ろしいまでの「絶望感」だった。

 賢治と倉屋藍が結ばれてしまう事は、遥にとっては失恋と完全に同義だ。それがごく普通の恋ならば、失恋は痛手でありながらもいずれは癒えて思い出にすらなっただろうが、遥のそれは只の失恋等では済まされない。

「ぼ、ボクは…けんじが…けんじがいないと…!」

 遥は、賢治に対する恋心を自覚して以来、日増しに膨らんでゆくその気持ちを原動力に代えて、今日という日まで「女の子」を続けて来たのだ。

 勿論、沙穂や楓といった友人達の支えや、理解ある家族が居てくれた事も大きな助けにはなっていたが、それでも遥の中心に在ったものは、いつでも賢治に対する満開の恋心だった。

 それがなければ、遥は今ほど「女の子」である自分を受け入れられていなかっただろうし、また、より一層そうであろうともしなかっただろう。全ては、賢治に対する恋心と、それが実った先にきっと幸せな未来が待っていると信じられていたからこそだ。それが失われる事は即ち、遥が女子として生きてゆくべくその道筋どころか、そうで在り続ける意義すらも失ってしまう事をも意味していた。

 かつて淳也が沙穂に「世界の終わりだ」と語ったその危惧は、確かに正しかったのだ。淳也に誤算が有ったとすれば、その世界に強度をもたらそうとした「保険」がさして意味をなさなかった程に、賢治の存在が遥にとって絶対的だった事だろう。

「こ、こんなの…うっ…うぅぅ…」

 遥は溢れ出る涙を拭いもせず、涙に満たされたその大きく黒目がちな瞳を真っ赤にして絶望に歪ませる。

「カナちゃん…泣かないでぇ…」

 楓は一緒になって眼鏡の奥で瞳に涙を滲ませ、慰めの言葉を掛ける意外に出来た事は無く、沙穂もその小さな身体を抱き締める腕に力を込めるのが精一杯だった。

「カナ…あたしらが…いるから…」

 淳也の推論を聞いていた沙穂は言うに呼ばず、普段は抜けている所の有る楓とて、伊達にこの一学期間遥の友達を続けてきた訳では無い。それだけに、沙穂と楓にはもう今の遥に掛けられる言葉がそれ以上は見つけられなかった。そうなる前にそれを未然に防ぎたかったからこそ、遥に先立って倉屋藍の存在に気付いた沙穂と楓は特に示し合わせる事も無く、息を合わせてそれをひた隠しにしようとしたのだ。

「ヒナぁ…ミナぁ…」

 これまで、幾度となく沙穂と楓に助けられてきた遥だが、今回ばかりはそんな二人の存在も救いにはなりえない。それどころか、成す術がない二人の苦し気な面持ちが遥に自分の不甲斐なさを痛感させて、それがより一層に胸を締め付ける。

「どうしてぇ…」

 その答えは、探さずとも分かっていた。全ての事柄は、たった一つの事柄に端を発している。それがなければ、賢治に恋をしてしまう事も、そのせいで胸が張り裂けそうになる事も、大切な友達である沙穂や楓を苦しませる事だって無かった筈だ。

「すきな…だけなのに…!」

 ただそれだけの事だった筈なのに、その先には幸せな未来があったはずなのに、絶望に駆られた遥の眼前には、今やただ真っ暗な深淵だけが広がっていた。

「こんなの…こんなこと…!」

 遥の中で、今まで積み重ねて来た想いと、止めどない感情の渦が吹き荒ぶ嵐となって、その胸の内で爛漫と咲き誇っていた恋の花を一斉に散らしてゆく。巻き上げられた恋の花達は曇天の心模様に舞って、その行きつく先は、大きく口を開けた底の無い闇だ。

「もう…やだよぉ…!」

 慟哭と共に嵐はその勢いを増し、恋の花は遂には最後の一輪となって、遥の内を色すらもない絶望が満たしてゆく。

「こんなことに…なるくらいなら…ボクは…!」

 そこから先の言葉を口にして最後の一輪をも散らせば、遥はこれから進むべき道も、辿り着くべき場所さえも本当に失ってしまうだろう。それでも遥は思わずには居られなかった。これまで賢治の存在と、その胸の内に咲いていた恋心が、光であり希望だったからこそ。

「女の子になんて…なりたくなかった…!」

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