3-64.理解と共感
遥がこの頃男子生徒を避けていた理由、並びに暗い顔をしていた真相を明らかにしてからしばしの、三人の間には何とも言えない微妙な沈黙が横たわっていた。
遥はもう恥ずかしさの余り真っ赤な顔を俯かせて友人達の反応を確かめる事も出来ずにいたし、沙穂と楓の方もこちらはこちらで、余程に衝撃的だったのか唖然とした面持ちのまま一体全体どんな反応をすればいいのか皆目見当もつかないといった様子である。そんな調子でいる三人の間にはただただ無為な時間が流れるばかりだったが、沙穂の前に在ったアイスコーヒーの氷が全て跡形も無く溶けてしまった頃の事だ。
「あ、あの…えっと…」
沈黙を破るべく遠慮がちにおずおずと口を開いたのは、顔の赤みが幾分か和らぎ、沙穂と楓の様子を上目でチラリと窺える程には平静さを取り戻した遥だった。
「そういう事…だから…えっと…そんなに深刻じゃ…なかったでしょ?」
遥は油断すれば再び羞恥心に飲まれそうになるのを必死で堪えながら、何とか話を締め括ろうとしながら沙穂と楓に到底自然とは言い難いぎこちない笑顔を見せる。沙穂と楓もここでようやく我へと返ったがしかし、そこから二人は話を纏めに掛かっていた遥の意図に反して大騒ぎとなった。
「ひ、ヒナちゃんどうしよぉ! カナちゃんがエッチな子になっちゃったよぉ!」
楓はまるでこの世の終わりにでも出くわしたかのような大変な動揺振りで、沙穂に向ってそれがかなりの異常事態である事を訴えかける。
「お、落ち着いてミナ! あたしらの歳なら誰だってエロイ妄想くらいはするでしょ!」
沙穂は一般的にそれが何ら不自然では無い事を説きはするが、その口ぶりや面持ちからは楓と同じくらい動揺していることが明白だ。
「確かにワタシは推しキャラとかで時々エッチな妄想しちゃうけど! で、でもカナちゃんにはまだ早いよ! 教育上よくないよ!」
楓はよっぽどそれを受け入れ難いのか、遥が自分より歳上である事を度外視して完全に保護者目線である。
「あたしだってそう思うけど! でも本人が興味もっちゃったんだからしょうがないじゃない!」
沙穂は論調こそ遥の主体性を重んじてはいるものの、心情的には楓と大差が無さそうだ。
「でもカナちゃんだよ!? 保健体育の教科書で真っ赤になっちゃうカナちゃんだよ!?」
楓が遥の純情初心エピソードを持ち出して性的な事柄はまだ早い事の根拠とすれば、沙穂もそれに負けじと同じようなエピソードを交えて応戦する。
「確かにカナは少女漫画のキスシーンですら恥ずかしがって飛ばし読みしてるけど! それでもきっと成長してるのよ!」
この時点で沙穂と楓の両方ともが動揺のあまりかなりの混乱をきたしていた事は明らかだが、それ以上に混乱してしまったのが他ならぬ遥だった。
「えっ…あ、あれ…?」
自分が歳上の元男子高校生である事を完全に失念されている事は、二人がそれだけ同性の友達として自然に接してくれている証拠かもしれないのでこれに付いてはまだ良い。二人が自分の保護者目線になっている事も、保健体育の教科書や少女漫画の件が事実であるだけに、不本意ではありつつも仕方の無い事だと理解できる。がしかし、遥は「いやらしい想像」を恥ずかしくは思っていてもそれ程深刻ではないと捉えていたので、二人にここまでの過剰反応をされてしまうと正直困惑する以外なかった。
「あ、あの…二人とも…ちょっと落ち着いて…?」
流石にこのまま黙って聞いている訳にもいかなくなった遥が遠慮がちに二人を宥めると、沙穂と楓はピタリと言い合いを止めて全く同時に向き直って来る。
「か、カナちゃん…エッチなのはだめだよぉ…」
楓は大変悲し気な顔でそれは禁忌であるかのように諭し、かと思えば沙穂の方は若干引きつってはいるものの気持ち悪いくらいに優し気な微笑みを見せた。
「カナ、い、いいのよ…エロイ妄想くらい…だ、誰だってするんだから…!」
遥はやたら深刻そうにそれぞれの主張を述べて来る沙穂と楓を交互に見やりながら、もしかしたら二人は自分の想像よりももっと過激な事を考えているのではないだろうかと、そんな可能性に行き当たる。そう考えれば、沙穂と楓の過剰反応には説明が付きそうで、遥はその推測が正しいかどうか、早速それを二人に問い掛けてみた。
「え、えっと…二人が思ってる事と、ボクのしちゃう想像って…同じ事…なのかな…?」
その問い掛けに、沙穂と楓は遥が一体全体何を言い出したのか良く分からなかったのか、二人は同時に素っ頓狂な声を上げて疑問を露わにする。
「はっ…?」
「えっ…?」
二人がそんな反応をするのも無理はない。一般的な高校生が抱きそうな「いやらしい想像」等という物は、委細な部分はともかくとして大きな括りで言えばそうバリエーションの在る物では無い。そちらの方面にやたら造詣が深かったり特殊な癖を持っている者に関して言えばその限りでは無いとしても、沙穂と楓はその点で行くと至って普通である。そんな普通な彼女達が思い浮かべた「いやらしい想像」も別段特殊な事は無い普通の事柄で、自分達よりも初心な遥が抱いている物もそれに準ずる内容であると完全に思い込んでいたのだ。
「あ…あの…えっとね…」
遥は自分と二人の想像には本当に隔たりが無いかを確認するために、自身のそれが具体的にどのような物であるかを語る必要性を感じて、それを頭の中で言葉に置き換えようとする。その途端に遥の顔は一気に熱くなってしまうがしかし、二人が誤認している可能性があってその所為で言い争いをしているとなれば、今は恥ずかしがっている場合では無かった。
「ぼ、ボクが男の人を見るとしちゃういやらしい想像って…、あ、アレが付いてる事…なんだけど…!」
遥にとってそれは、今にも顔から火が出そうなほど恥ずかしい告白だったのだが、これに沙穂と楓の目が点になったのは言うまでもない。
「はっ…?」
「えっ…?」
またしても素っ頓狂な声を同時に挙げた沙穂と楓は、思わず顔を見合わせて眉を潜め合う。
「か、カナちゃん…、意味が…分からないよ?」
楓は困惑した面持ちで堪らず疑問を呈して、沙穂の方も同様に困惑した面持ちながら、まずは遥の言う「アレ」が自分の思う物で正しいのかどうかを問い掛けて来た。
「アレって…要するに男の股間にぶら下がってるアレよね…?」
それで間違いなく正解だった遥が真っ赤な顔で小さく頷くと、沙穂は眉間にしわを寄せて次なる質問に移行する。
「…それ以上の事は?」
沙穂は具体的な言い回しを用いなかったが、その質問の意味するところは「それを用いた行為」について想像するかどうかという事だろう。ただ、遥がここで思い浮かべたのはそれでは無く、例のアレが文字通り「それ以上」になっている光景だった。
「はわっ…」
先日嫌と言う程味わった時々力強く脈動していたその感触をもつぶさについ思い浮かべてしまった遥は、益々顔が赤くなって堪らず机に突っ伏してしまう。
「むーっ!」
机の下で足をバタバタさせて悶絶する遥の様子に沙穂は少々びっくりしながらも、質問に対する答えとしては今一判然としなかった為か、今度はそれをもう少し具体的にして再度投げ掛けて来た。
「えーと…結局はアレでナニされるエロイ妄想をしちゃうって事じゃないの…?」
沙穂の質問はまだ若干遠回しではあったが、遥は腐っても元男子高校生なのでそこまで言われればその意味合いに付いては理解できる。がしかし、これに関しては完全にキャパシティーオバーだった遥は突っ伏した態勢のまま両手で机をバシバシ叩いて一層の悶絶だ。
「ちがうからー! そういうことじゃないからー! そんな怖い事考えないからー!」
やはり認識の齟齬があった事を確信した遥は、羞恥心のメーターが今にも振り切れそうになりながら、それが酷い思い違いである事をジタバタともがいて激しく抗議した。
「えっとぉ…それじゃぁ…結局どういう事なの…?」
全く意味が分からないと言った様子で楓が詳細を問い掛けて来ると、遥は赤くなりっぱなしの顔だけを上げて恨めしそうな面持ちで困惑顔の友人二人を交互に見やる。
「さっき、ぜんぶ説明したもん…」
遥は頬を膨らませて先に述べていた以上の内容は何も無い事を告げるも、それで理解出来なかったから困惑している沙穂と楓は眉を潜めるばかりだった。
「さっきのが全部って…じゃぁ、男を見るとアレを思い浮かべちゃうだけって事…?」
沙穂は事も無げに「だけ」と言うが、遥にとってそれは十分に「いやらしい想像」で、だからこそ近頃男子を避ける様な行動を取って、それでもうっかり思い浮かべてしまった日には自己嫌悪に陥って落ち込みもしているのだ。
「うぅ…だってアレなんだよぉ…」
再び机に顔を突っ伏した遥は恥ずかしさのあまり身をよじるが、沙穂と楓は再度顔を見合わせて首を傾げさせる。
「うーん…、エッチな事と言えばそうなのかなぁ…?」
楓は遥の想像がどちらかと言えば卑猥な部類である事は認めながらも、その面持ちは今一つ釈然としない様子だった。
「いやぁ、高校生にもなってアレを思い浮かべるだけってのは…」
沙穂の方はいくら何でも「幼過ぎる」といった論調で、その想像が卑猥な範疇に入るのかどうかも疑わしいといった感じだ。
「なんで『だけ』とか言うの! だってアレだよ!? アレなんだよ!?」
過剰反応から一転して、二人が全くそれに共感していない事に遥は何やらもどかしさを覚えて、両手でバシバシと机を打ち付けながら思わず語気を荒げさせる。
「「うーん…?」」
沙穂と楓はやはり全くピンとこないのか困った顔でひたすらに首を傾げさせて、共通認識を確立できない三人はこのまま行き詰ってしまうかに思われたがその時だ。
「あっ…」
「おや…?」
沙穂が不意に何か気付いた様子で上げた声と、遥の直ぐ真後ろから何やら聞き覚えのある声が上がったのは殆ど同じタイミングだった。
「えっ…」
遥は背後からしたその声が誰のものであるのかに半ば見当がつきながらも、つい反射的に後方へと振り返ってその人物を確かめてしまう。それは余りにも迂闊な行動であったがしかし、遥がその事に気付いた時にはもう手遅れだ。
「やはり遥さん達でしたか、奇遇ですね」
遥とバッチリと眼が合って優美な笑顔と共に挨拶を送って来たその人物は、学園の王子様兼生徒会長にして、旧友光彦の弟である塚田兄弟の次男、晃人だった。
「あ、あ、あ、晃人君!?」
肩に鞄を下げて片手に購入したばかりと思しきクリームがたっぷり乗ったラテを持っている所を見ると、晃人はおそらくやって来たばかりで、席を探していた所で偶然に遥達を見つけたという事の様だ。
遥は晃人の事が嫌いではないし、色々と世話になった経緯があるので寧ろかなり好意的ではあるものの、今顔を合わせるのは非常に不味いと言わざるを得ない。理由は言わずもがな、晃人が「男」だからだ。
「ど、ど、どうしてここに!?」
案の定、遥は例の「いやらしい想像」を掻き立てられてしまい、直ぐに晃人を直視していられなくなって大慌てで正面へと向き直る。
「予備校に向かう前に少し糖分補給をと思いまして」
晃人がここにいる理由はそういう事の様だが、遥の頭の中では例の「いやらしい想像」が今にも明確なイメージを成そうとしていて、それに納得している余裕もない。
「あ、あわわ…! べ、勉強…が、頑張ってね!」
心臓に悪いことこの上ない遥はかなり上ずった声で労いの言葉をかけてやんわりと晃人にはお引き取り願おうとするも、それをさせなかったのが沙穂と楓だ。
「生徒会長! 丁度良かった!」
「先輩! ちょっと聞いてください!」
アイコンタクトで一瞬の内に意思疎通を図った沙穂と楓は、おもむろに立ち上がって左右から晃人の腕を掴んだかと思うと、そのまま強引に自分達の席へと座らせてしまう。
「ちょっ! 二人とも! 晃人君は忙しいんだよ! そんな時間無いって!」
遥は明後日の方に目を背けながら、晃人にも都合が在るだろう事を理由にこの状況を何とか切り抜けようとしたがしかし、そうそう都合よく行かないのが世の常だ。
「予備校まではまだ幾らかありますので、それまででしたら大丈夫ですよ」
晃人は白い薔薇の花びらでも舞いそうな王子様スマイルを見せて時間制限付いながらも問題ない事を告げてきて、沙穂と楓もそれならばと左右に陣取ってこれを逃さない構えだ。
「ごめんねカナちゃん、ワタシ達じゃ良く分からなかったから…」
楓が晃人を強引に引き込んだ理由を謝罪と共に述べれば、沙穂も同様になってこれ以上の人選は無い事も説いてくる。
「会長なら信頼できるでしょ? あたしらカナの事ちゃんと分かってあげたいの!」
確かに晃人は複雑な事情にも通じているし、以前にも色々と相談に乗ってもらっているので信頼度で言えばかなり高い。沙穂と楓が分からないながらも自分の事を理解してくれようとしているその姿勢は嬉しくすらあったし、遥だって出来る事ならば二人の共感を得たかった。がしかし、目の前に晃人が、と言うよりも「男」が居るというだけで、遥は例の「いやらしい想像」を否が応にも掻き立てられてしまって正直話をするどころでは無いのだ。そうこうしている内にも遥の脳内では、一糸纏わぬ晃人が妙にセクシーなポーズでご立派な例のアレをそそり立たせているイメージがつぶさに浮かんでいた。
「むーっ!」
よく知っている人物なだけに殊更強烈だったその脳内イメージに、遥は堪らずまた机に突っ伏してジタバタと悶絶してしまう。
「遥さんどうされました? 大丈夫ですか…?」
大丈夫かどうかで言えば、遥は全然大丈夫では無いし、晃人のよく通るバリトンボイスが脳内のイメージに一層の彩を添えて余計に悶絶だ。
「むーっ! むーっ!」
今や遥の脳内イメージは、全裸で次々と悩殺ポーズを繰り出す晃人がオペラ座の舞台で大観衆から拍手喝采を浴びるという良く分からない物にまで発展していた。それが「いやらしい想像」の範疇なのかどうかはともかく、遥の精神に多大なる打撃を与えた事だけは確かだ。
「会長、あたしらはカナがこうなっちゃう理由を知りたいんだけど…」
「ワタシたちじゃ話を聞いても良く分からなかったから、先輩の意見を聞きたいんです!」
沙穂と楓が困った顔をして代わる代わるに事情の一端を説明してゆくと、晃人は二人を交互に見やって思案顔になる。
「お話をうかがって意見を述べるくらい吝かではありませんが…」
晃人は沙穂と楓に協力する事に対しては前向きな姿勢を見せながらも、机に突っ伏したままでいる遥の方をチラリと見やった。
「それにはまず、遥さんのお許しを頂かなければなりませんね」
遥に関する事ならば本人に筋を通しておきたいという晃人の言い分は至極真っ当で、沙穂と楓もそれに理解を示して、テーブルの上に投げ出されていた遥の小さな手に自分達の手を重ねて来る。
「カナちゃん…おねがい」
「カナ…いいでしょ?」
遥が晃人を極力見ない様に努めながら恐る恐る顔を上げて沙穂と楓を交互に見やると、二人の面持ちは真剣そのものだった。
「うっ…」
沙穂と楓が興味本位や面白半分でこの話題を掘り下げようとしていたのならば、遥にはまだ幾らでも拒みようがあっただろう。しかし、二人が友情と思い遣りから自分の事を何とか理解してくれようとしているのならば、遥にはそれを無下にする事等はやはりできる訳がなかった。
「あうぅ…分かったよぅ…」
遥が渋々ながらも了承すると、許しを得られた沙穂と楓はパッと表情を明るくして、晃人の頭上でハイタッチを交わし合う。
「ありがとうカナちゃん!」
「あたしらで説明するから、カナはそうしていいからね!」
晃人の顔すらまともに見られない状態の遥は元よりそのつもりで、沙穂に言われるまでも無く、後はもう机に突っ伏したまま顔の表面温度を下げ様努める以外にやれる事等何一つ在りはしなかった。




