1-11.悔恨
しばらくして美乃梨は泣き止んだが、一向に抱き着いたまま遥から離れようとしない。さすがにそろそろ離れてほしいと遥が「美乃梨?」と声を掛けると美乃梨は遥の髪に顔をうずめ頬ずりをした。
「遥ちゃん可愛い…いい匂い」
すっかりいつもの美乃梨だった。いや今まで以上に何かが振り切れた様にも思える。遥は慌てて美乃梨を振りほどこうとするも体格で劣る遥にそれは叶わなかった。この子は本当に話を聞いていたのだろうか。自分は男子高校生だと言ったはずなのだが、相変わらず可愛いと来て仕舞にはいい匂いとまで言い出す始末。遥は呆れると共に漠然と身の危険を感じずにはいられない。
「美乃梨、はなしてー!」
遥のその願いは聞き届けられず美乃梨の抱擁はより一層強固さを増す。遥が何とかこの状況から逃れられないかともがいていると病室の戸をノックする音が響き返事を待たず戸が開け放たれる。遥はその一連の挙動から病室を訪れた人物に見当がついた。
「けんじーたすけてー」
美乃梨に抱き着かれ身動きの取れない遥は手をぱたぱたと動かし、やって来たであろう親友に救いを求める。
「あー…何? どういう状況?」
遥の予測通り見舞いにやってきた賢治は病室で繰り広げられている光景に思わず困惑する。遥が元の姿であったのならば、ついに春がやってきたのかと気を利かせてそっとその場を立ち去ったかもしれないが、いかんせん幼女の見た目のせいで到底そういった甘酸っぱいシチュエーションには見えない上当の本人は助けを求めもがいている。
「いいからたすけてー」
今は悠長に状況説明していられる状態ではないと遥は賢治に救助を催促する。助けてと言う度に美乃梨の抱擁が更にきつくなっているのは気のせいだと思いたい。
「お、おう」
賢治は戸惑いつつも応えると二人の元までやってきて改めて間近でその光景を観察する。年頃の女の子に抱き着かれて苦しむ幼女姿の親友。なんともシュールな光景だ。助けるといってもどうすればいいものかと少し考えたが美乃梨の方をどうこうする訳にもいかず、遥の脇腹辺りを両手で掴んで力任せに持ち上げ強引に美乃梨から引きはがした。
「ひぁっ」
遥から可愛らしい小さな悲鳴が上がった。賢治の思っていたよりも遥の体重が大分軽かったせいで力加減を間違えかなり高々と持ち上がってしまっていたのだ。賢治の身長は一八〇センチ後半でその頭より高くかかげられ未体験の高度から遥は思わず驚いて声を上げてしまったのだった。病室の天井が高かったのは幸いである。
「あー、遥ちゃんがー」
遥を引きはがされた美乃梨が無念そうに声を上げと、賢治は遥を抱え上げたままその視線を美乃梨へと移した。
「ハルの友達?」
寝間着姿から入院患者という事は分かる。院内で知り合って親しくなったのだろう。今の遥の見た目なら如何にも女の子に可愛がられそうだなと、賢治はその様子を想像して笑みを漏らす。
「花房美乃梨です。遥ちゃんとは運命なんです!」
遥を取り上げられた美乃梨は恨めしそうに賢治を見上げ大それた自己紹介をしてのける。確かに運命的な再会ではあったが、こうもハッキリと言われると遥としては妙な気恥ずかしさがある。
「俺は紬賢治だ」
美乃梨の大仰な自己紹介に怯む事もなくいつも通りの落ち着いた様子で名乗り返す賢治に遥はさすが我が親友と思いながらも、そろそろ下ろしてほしいと目線を送る。しかし賢治がそんな遥の目線に気付くより早く美乃梨が賢治に食って掛かった。
「あたしの遥ちゃん返してください!」
遥を取り返そうとその場で飛び跳ね手を伸ばすが、高身長の賢治に高々と抱えあげられた遥にはなかなか手が届かない。自分はいつから美乃梨の物になったのだと遥は胸中で突っ込みを入れる。
「本人から助けを求められた以上渡す訳にはいかないなぁ」
賢治は少し揶揄う様に口角を上げニヤリと笑って遥を益々高々と持ち上げた。
「そんなー、鬼! 悪魔!」
美乃梨が批難の声を浴びせるも賢治は愉快そうに笑って更に遥を遠ざける。賢治は普段は落ち着いているが時々こういった悪ノリをする事があった。高校で漏れ聞いた話によるとそんな時たま見せるちょっと少年っぽい所もモテ要素の一旦らしいのだが、とりあえず遥としては今そんな事はどうでもいい。
「賢治…、そろそろ下ろして」
流石に堪らなくなり遥がそう口にすると賢治は「わりぃ」と悪びれない笑顔で謝罪して自分の正面にすとんと遥を下した。遥がこれでようやく一息つけると思ったその瞬間、狙いすましていた美乃梨がすかさず遥目がけて飛び掛かってくる。しかし遥の身体からまだ手を放していなかった賢治は遥を再び軽く持ち上げると美乃梨の飛びつきを透かし少し横に位置をずらして遥を再度着地させた。美乃梨はぐぬぬと唸ってもう一度遥に飛びつくもやはり賢治に躱されてしまう。そんな攻防が何度か繰り返され、遥はそろそろこれは怒ってもいいんじゃなかろうかと思い始める。
「二人ともボクを玩具にしないでくれるかな…」
今の見た目と声で怒って見せてもあまり効果はなさそうだと判断した遥は、出来るだけ感情を押し殺した冷たい口調を心がけそう二人を咎める。これは中々効果があったようで流石の二人も我に返り「すまん」「遥ちゃんごめん!」と同時にそれぞれ謝罪を口にし遥を巡る攻防戦には幕が下ろされた。
遥の訴えにより終結した戦いの後、賢治と美乃梨の二人は遥の座るベッドを挟み睨み合う構図となっていた。もっとも美乃梨が一方的に賢治を睨んでいるだけで賢治の方はいつも通りの落ち着いた様子だ。賢治が女の子からここまで敵愾心を向けられるのはなかなかレアなケースなのではないだろうかと遥はその要因が自分にある事を棚に上げ、内心少し面白い状況だと思っていた。
「あー、で何だっけか、ハルが運命とか言ってたけど、あれか、女同士が好きとかそういう趣味のあれなのか?」
このまま睨み合っていても仕方がないと思ったのか賢治が先に口を開いた。遥とは運命だと名乗り際に言った美乃梨の言葉を賢治は同性愛的な物と捉えたようだ。最初に見たのが遥に抱き着いている姿だったのでそんな考えに至ったのも納得できないではないが、賢治の言う「女同士」の相手がかつて立ち小便の飛距離を競い合った事もある幼馴染だという事は忘れないでほしいものだと遥は若干複雑な気持ちになる。
「そういうのじゃありません! あたしはノーマルです!」
美乃梨は頬を膨らませ目を三角にして抗議の声を上げる。ノーマルと言った美乃梨の主張は信憑性が若干怪しいような気がしないでもない遥だったがその事を深く掘り下げるのは藪蛇になりそうだと、とりあえず静観を決め込む。
「そういう貴方こそ何ですか、見たところ大学生くらいに見えますけど、遥ちゃんとは十歳は離れてますよね? ロリコンですか?」
反撃の狼煙を上げた美乃梨の言葉は賢治よりもむしろ遥にダメージが大きかった。かつて自分でも使ったネタだったが、改めて他人の口から聞くとその破壊力は筆舌尽くしがたい。遥は思わぬ余波にクラクラとしながらも、美乃梨には先ほど元々の性別と年齢を説明したはずなのだが、この子はアホなのだろうか? と美乃梨の記憶力が若干心配になる。
「俺はハルの幼馴染だよ」
遥に「ろりこん」と言われた時はそれなりに慌てた反応を見せた賢治だったが、今回の美乃梨の言葉は意に介していない様で普段通り落ち着いた口調で自分と遥の関係性を簡潔に述べた。美乃梨は自分の反撃があまり効いていない事を悔しそうに歯噛みする。
「幼馴染がなんですか! 遥ちゃんはあたしの命の恩人なんです!」
幼馴染という関係性に対抗意識を燃やしたのか美乃梨は勢いよくそう言い放つ。対して賢治は命の恩人と見得を切った美乃梨を馬鹿々々しいと鼻で笑った。
「命の恩人だぁ? そんな大げさなもんそうそう…」
しかしそこまで言って賢治は遥を見やって言葉を止める。目の前に女の子の命を救った実例が存在している事に気付いたのだ。そして同時にまさかという思いが沸き上がる。
「大げさなんかじゃ…」
賢治に反論しようとした美乃梨もそこまで言って何かが引っかかった様で言葉を止め首を捻った。そして「幼馴染…?」と数舜前に賢治から示された情報を小さく繰り返すとその表情を強張らせた。
今しがたまで騒がしく言い合っていた二人が突然同時に黙り込んでしまう。これに戸惑ったのは遥だ。普段から落ち着いている賢治はともかく活力の塊みたいな美乃梨が急に黙り込むとは珍しい。
「美乃梨?」
不思議に思った遥が美乃梨の顔を覗き込むと、先ほどまでの生き生きとしていた様子から一変顔面蒼白だった。
「あの時『はる』って呼んでたの…」
うわ言の様に呟いた美乃梨に遥もはっとなる。美乃梨の言うあの時とはすなわち事故当日の事だ。遥も思わず一瞬固まってしまう。賢治があの時の話題を避けているのを知っていたし、美乃梨が事故の事に責任を感じているのは先ほど目の当たりにしたばかりだ。そして遥はここ数日の接触で美乃梨が他人の気持ちに感情移入しやすい子だと知っている。
「け、賢治?」
美乃梨の急変の原因に気付いた遥は次に慌てて賢治の方を伺った。そして伺った賢治の表情を前に背筋に冷たい物が走る。上目で見やった賢治が極めて険しい表情で美乃梨を凝視していたからだ。見上げているせいもあるかもしれないがその表情は今まで遥が見た事のない程の厳しさだった。これはいかにも不味い。二人の様子に遥はこの状況をどうすればいいのかと頭を必死に働かせようとする。しかし妙に気ばかりが焦ってしまい思考が上滑りして上手く考えが纏まらない。遥が逡巡している間に先に動いたのは美乃梨の方だった。
「あたし…ごめんなさい…」
絞り出すようにそれだけ告げると、思いつめた悲痛な面持ちで賢治の方を一瞬見やり美乃梨は勢いよく病室から飛び出して行った。
「美乃梨!」
遥は咄嗟に美乃梨を追いかけようとベッドから立ち上がったが、未だリハビリの途中でさらに慌てていたせいもあり上手く身体を操る事が出来なかった。踏み出した足はそのままバランスを失ってしまう。しかし前のめりに倒れかけた遥を咄嗟に伸ばした賢治の腕が受け止める。賢治は受け止めた遥の身体を無言でベッドに押し戻すとそのままその場に落ち着かせた。
遥が恐る恐る賢治の顔を伺うと未だ表情は険しいままだ。遥の動悸が早くなる。
「ハル、説明してくれ」
掠れた声で低くそう言った賢治の瞳は悲しみとも怒りともとれる複雑な色をしていた。