3-59.間違いのない本当の事
週が明け、それも折り返しへと差し掛かった週中の水曜日、その日こそは遂にやって来た賢治の誕生日当日に他ならない。遥は学校が終わるや否やかつてない程の素早さで帰り支度を整え、今日に限ってはいつも一緒の沙穂や楓とも行動を共にせずに、今は単身電車に乗って表街へとやって来ていた。
「…ここ…かな?」
表街の駅からスマホの地図アプリを頼って、待ち合わせ場所であるターミナルホテルの前に辿り着いた遥は、そこに居る筈の人物を探してキョロキョロと視線を泳がせる。小さな遥の限られた視界では、多くの人が行き交う表街の雑踏の中から特定の人物を探し出す事は中々に容易ではなかったが、幸いにも向こうの方が先に見つけてくれた。
「遥!」
手を振って名を呼びながら駆け寄って来たその人物は、遥が探していた人物に相違なく、職場から直接この場にやって来たスーツ姿の響子だ。
「お母さん!」
遥も響子の方へと駆け寄って、予定通り無事に母と合流できた事にまずはホッと胸を撫で下ろす。遥がここで響子と待ち合わせていた理由は勿論、先日の「綺麗にコーディネートしてくれる」という提案を実際に実行してもらう為だ。
「えっと…ここで着替えるの?」
遥が目の前のターミナルホテルを見上げながら疑問に思った事を問い掛けると、響子はそれを頷きと共に肯定する。
「えぇ、その為に一部屋とってあるから!」
単に着替える為だけにホテルの一室を利用するなど中々に贅沢な話しだが、それだけ響子も気合が入っているという事なのかもしれない。
「あっ、もうあんまり時間が無いわね!」
腕時計をチラリと見やって刻限が迫っている事を認めた響子は、早速その目的を果たすべく遥の手を引いて歩き出す。遥も手を引かれながら自分の腕に嵌めた小振りなスポーツウォッチを見やると、現在時刻は午後五時半を回った頃で、予定しているディナーまでにはまだ一時間ほど猶予があった。
「そんなに急がなくても大丈夫じゃ…?」
幾らなんでも着替えに一時間も必要ないだろうと思った遥だが、響子はそれがかなり甘い見積もりである事を指摘する。
「とんでもない! オシャレするのに時間はいくらあっても足りないんだから!」
そうは言われても、遥が普段身支度に使っている時間は長くても精々三十程度なので、全くピンとくる話では無い。
「今日はヘアアレンジもバッチリして、お化粧だってするんだからね!」
という事らしく、確かにそれらは遥が普段行っている身支度には無い工程なので時間が足りないと言う話しも納得だ。
「必要な物は先に運び込んであるからね!」
遥の手を引いていよいよホテル内へと足を踏み入れた響子は既に準備万端である事を告げて、フロントを経由せずにエレベーターホールへと向かって進路を取る。どうやら響子は事前にホテルのチェックインを済ませて、後は遥の到着を待つばかりという所まで段取りを整えていた様だ。その周到ぶりに改めて響子の本気具合を感じた遥は胸の内で大いに期待感を高めていたがしかし、同時に一抹の不安も感じていた。
「お母さん…、ボク…本当に綺麗になんてなれるのかな…?」
確かに遥はそうなりたいと強く願い、そして響子もそれを叶える為に尽力する事を約束してくれてはいる。ただそれでも、遥にとって自分が女性未満の小さな幼女である事は、どうしたって代えがたい動かざる事実なのだ。ともすれば、そんな自分は本当に母の尽力に耐え得る素材なのだろうかと遥が不安になってしまうのも無理のない話だった。
「遥…」
辿り着いたエレベーターホールの前で足を止めた響子は真っ直ぐに前を向いたまま、この期に及んで弱気になってしまった遥の手をギュッと強く握りしめる。
「絶対に大丈夫よ! お母さんがあんたを世界一綺麗にしてあげるから!」
絶対にとまで断じる響子の言葉は握ったその手と同様に力強く、遥も出来る事ならばそれを信じたかった。ただ、エレベーターホールの壁面に掛けられていた大きな鏡に映る自分の姿を目の当たりにしてはそれも難しい。そこに映る遥は、母に手を引かれる小さな女の子でしかなく、高校の制服を着ていてさえ、どうしようもないくらいに幼女なのだ。
「ボク…やっぱり…」
堪らず鏡から目を逸らした遥は俯き加減になって、その口からは思わず弱音が零れ出そうになる。がしかし、手を握る力をより一層強めた響子が少しばかり厳しい叱咤の言葉を持ってそれをさせなかった。
「遥、シャキッとなさい! そんな情けない顔してっちゃ賢治君だって好きになり様がないわよ!」
その一言に遥がハッとなって面を上げれば、鏡に映るその顔は今にも泣き出しそうな酷いしょぼくれ具合である。その鬱々とした表情は、遥自身の眼から見ても到底魅力的とは言い難く、確かにこれでは幼女云々以前の問題だ。
「そう…だよね…、前に読んだ本にも、女の子は笑顔が一番魅力的だって書いてあった…」
物の本で読んだその知識の信憑性はともかくとして、遥が一番良い自分を賢治には見てもらいたいと思うその気持ちは間違いなく本当だ。母と今こうしてここにいるのも全てはその為で、ならば不安に駆られて俯いている場合などではない。
「…むーっ!」
遥は自身のふにふにとした頬をムギュッとつねって、その情けない表情と共に自身の弱気をも振り払う。自らのネガティブ思考が原因で、有るかもしれないチャンスをミスミス棒に振ったとなれば、それは悔やんでも悔み切れないというやつだ。
「よろしいっ!」
響子が気を取り直した遥の様子を満足げにしたのとほぼ同時に、エレベーターホールに軽快なベルの音が鳴り響いて呼び寄せていたエレベーターの到着を知らしめる。
「さあっ、行くわよ!」
エレベーターに乗り込むべく響子が一歩前に進み出ると、遥も大きく頷いてその横にと並び立つ。
「うん!」
二人を迎え入れるべくゆっくりと扉を開いたエレベーターからは、煌々と輝く真っ白な蛍光灯の光が溢れ出し、遥はその余りの明るさに一瞬目が眩みそうになった。ただそれでも、遥はそれ以上に燦然と輝く恋心を胸に、もう俯いたりはしない。自分が幼女である事の不安は依然として遥の中でくすぶってはいたが、少しでも魅力的な自分を賢治に見てもらえる様に、何があっても明るく前を向いていようと、今はそう思えていた。
遥が響子と合流していたその頃、本日の主賓である所の賢治はといえば、大学最寄りに有る駅の構内にその姿を見る事が出来た。
「あら、紬君、こんなところで珍しいわね」
後ろから掛けられたその声に反応して賢治が振り返れば、そこに居たのは所属ゼミの先輩であるショートヘアーの妖艶な美女、飯田奈津希である。
「奈津希先輩、今帰りですか?」
賢治がここで出会ったその理由を問い掛けると、飯田奈津希はそれを肯定しながらも逆に質問を投げかけて来た。
「私はそうだけど、紬君は? こっちの方向じゃなかったわよね?」
どこでその情報を仕入れたのかは定かでないが、実際に飯田奈津希の言う通り、賢治が帰宅目的でこの駅を利用しているのならば、本来居るべきホームは反対側だ。
「今日はちょっと…、その…表街の方に用があって」
少し考えた賢治が微妙な間を置いて当たり障りの無い範囲で質問に答えると、飯田奈津希は何か察した様子で口元を薄っすらと伸ばして妖しげな笑みを浮かばせる。
「ふぅん…柄にもないジャケットなんか着てる所を見ると、これはもしかしてデートかしら? となると相手は例のお姫様?」
飯田奈津希の言うお姫様とはつまり遥の事で、その鋭い推察は見事に正鵠を射ていたがしかし、賢治はかぶりを振ってこれを否定した。
「そんなんじゃなくて、今日は家族で食事に行くんですよ。ジャケットはドレスコードが有るからってんで仕方なくです」
賢治が溜息交じりに告げたそれは、何も飯田奈津希の追及を免れるための嘘や誤魔化しの類という訳では無い。今回の誕生日ディナーに関する詳細な情報は、響子と共謀した朱美によって今日までひた隠しにされており、実はそれが遥と二人っきりのデートである事を賢治は知らされていないのだ。
「家族と食事…ねぇ」
飯田奈津希はその回答に納得しながらも、スッと目を細めさせてその妖しげな笑みをより一層の物とした。
「紬君の言うその家族の中に、あのお姫様は入って無いのねぇ」
かなり含みのある言い方ではあったが、勘の悪い賢治は飯田奈津希が何を言っているのか分からずに眉を潜めさせる。
「今日来るのは親父とお袋の二人だけです。それにハルは妹とかじゃなくて、隣に住んでる幼馴染だって前に言いましたよね?」
賢治は馬鹿正直に遥との関係をここで改めて説明するも、飯田奈津希が言わんとしていたのは勿論そういう事では無かった。
「それは覚えてるけど、お姫様は確か高一でしょ? 誕生日が来てれば法律的にはもう家族になれるんじゃない?」
ここまで言われれば流石の賢治もそれが何の話なのか理解して、これには思わずギョッとせずには居られない。
「なっ、何言ってるんですか先輩! そ、それって…け、結婚って事ですか!?」
遥を傍で支え続けると誓い、今や特別で並々ならぬ「愛情」を抱いている賢治にとって、確かにそれは一つの到達点ではあるだろう。早生まれの遥は今期の誕生日をまだ迎えてはいないが、実際の年齢は十九歳なのでその点も問題は無い。がしかし、そんな制度上の問題以前に、遥の幼馴染で親友という立ち位置を今はまだ堅守すべきだと思っている賢治にとって、結婚などと言う話しはいくらなんでも飛躍が過ぎるという物だ。
「結婚なんてまだ無理ですよ!」
賢治は力強い否定を告げながらも、慌てる余りうっかりと将来的にはそれを視野に入れている事を暗に白状してしまっていた。
「まだ…って事は、いずれはそうなりたいって事よね?」
図星である賢治はこれを否定できず、かといって肯定してしまう事も憚られて思わず言葉に詰まってしまう。
「あっ…そ、それは…その…」
賢治が明後日の方に目線を泳がせて完全に言い淀んでしまうと、飯田奈津希はそこへ容赦のない追い打ちを掛けて来た。
「早くしないとあんな可愛い娘には直ぐに悪い狼が寄って来て、あっという間に食べられちゃうわよ?」
殊更愉快そうな笑みを浮かべた飯田奈津希は、わざとらしく舌なめずりまでしてみせて、我こそがその悪い狼の筆頭だとでもいわんばかりである。
「うっ…」
飯田奈津希と遥には現状接点がないので引き会わせさえしなければ実害は無いだろうがしかし、悪い狼云々に関しては賢治が常々気を揉んでいる現在進行形の危惧だ。それが行き過ぎるあまり、遥のミニスカート仕様の制服を巡ってかなりの大喧嘩をしたのはまだ記憶に新しい。
「先輩…マジで勘弁してくださいよ…」
日ごろから募り募っている心労の余り賢治が心底ぐったりとした様子で溜息を洩らすと、飯田奈津希はクスクスと笑い声を洩らしながらこれには一応の謝りを入れて来た。
「フフっ、ごめんなさい」
言葉とは裏腹に飯田奈津希の態度には全く反省の色が見られず、賢治はもう唯々溜息を洩らすばかりだ。
「でもね紬君、本当にキミがあのお姫様に本気なら―」
飯田奈津希は不意に真面目な顔になって何かを言いかけたがしかし、その時駅構内に流れた電車の到着を予告する事務的な録音アナウンスによってそれは遮られてしまった。
『間もなく、二番線に電車が参ります。表街行きの特急です』
その絶妙なタイミングに賢治は思わず神妙な面持ちになって、発言を阻まれてしまった飯田奈津希の方は苦笑を浮かべて肩をすくめさせる。
「電車、来ちゃうわね」
興が削がれたのか飯田奈津希は元の妖しい笑みに戻って、先程の発言を再開させはしなかったが、賢治としては自分と遥に関する内容らしかったので続きが気になって仕方がない。
「奈津希先輩、今何か言いかけてましたけど…」
賢治が発言の続きを促すも、飯田奈津希はこれに応えようとはせずに薄笑いを浮かべるばかりだ。
「ほら、そんな事よりも電車くるわよ」
質問に答える代わりに飯田奈津希が示唆したその通りに、今度は駅員に依る肉声のアナウンスが構内に鳴り響いて程なくホームへと電車が滑り込んできた。
「私は次の急行だから、ここでサヨナラね」
どうやら飯田奈津希の目的地は表街よりも手前らしく、ひらひらと手を振りながらこの電車には乗らない事を告げてくる。
「…そう…ですか」
賢治は飯田奈津希の言いかけていた事が依然として気になっていたが、この電車を逃すと朱美から言い渡されている約束の時間に間に合わない。母の朱美は自身がのんびりとした性格なのでそれ程時間に厳しくは無いが、問題は父、児玉の方だ。児玉は一分一秒のレベルで時間にうるさい質で三十分前行動を常としている為、遅刻などはもっての外である。
「…それじゃぁ…今日は失礼します」
児玉の怒り狂った鬼の形相を思い浮かべた賢治は、それを現実のものとしない為にも、今日の所は大人しくこの電車へと乗り込むより他なかった。
「またゼミで会いましょう」
別れの挨拶を告げて来る飯田奈津希に、賢治は「はい」と礼儀正しく一礼をすると踵を返して電車の方へと向き直る。
「はぁ…」
賢治が溜息を一つついてホームの間にある僅かな隙間を跨いで足を踏み入れた車両内は、蛍光灯が朽ちかけているのかやけに薄暗かった。
「そうそう、紬君、さっきの続きだけど」
車内よりは幾分か明るいホームの方から飯田奈津希が思い出した様に声を掛けて来たのは、賢治の身体が完全に薄暗い車両の内側にと収まった時の事だ。
「えっ?」
賢治は慌てて飯田奈津希の居るホームの方へと振り返ったがしかし、その瞬間無情にも発車ベルが鳴り響く。
「キミが本当にあのお姫様に本気なら―」
結局聞き取れたのは先程と同じ部分までで、そこから先は閉ざされた扉に阻まれ、口の動きすらも目で追う事は叶わなかった。
「はっ!? ちょっ!?」
賢治は堪らずピッタリと閉じた扉に詰めかけたが、飯田奈津希は既に発言を終えた後だったようで、今はもう薄っすらとした笑みを浮かべているばかりだ。そして、ゆっくりと動き出した車両は次第にホームから離れて飯田奈津希の姿も徐々に遠ざかってゆく。飯田奈津希は確信犯的に敢えてあの微妙なタイミングで発言を再開させたと見て間違いが無く、こうなるともうメールやなんかで問い合わせたところで恐らくは無駄だ。
「はぁ…」
思わせぶりな飯田奈津希の所為で酷くぐったりとしてしまった賢治は、完全に閉ざされた扉に背中を預けて深々とした溜息を洩す。
「俺がハルに本気なら…か…」
賢治には飯田奈津希が最後に何を言おうとしていたのか、それは分からない。ただ、その前提に置かれた「遥に本気」であるという事だけは間違いなく本当だ。ただそれだけに、賢治の気持ちはまるでそこの無い沼にはまり込んでしまったかの様に深く沈みこんでゆく。日増しに強くなっている遥を想うその気持ちは、傍に居られないもどかしさと表裏一体なのだ。自分が傍に居られないとき、遥はどうしているだろうかと、そんな事を考えると賢治の心情はいつも穏やかでは居られない。
「はぁ…」
蛍光灯の朽ちかけた車内は薄暗く、そこに乗り合わせる人々は皆一様に疲れた顔で、そんな灰色じみた光景が、賢治の悶々とする気持ちをより一層重苦しい物へと変えていた。




