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1-10.再会

 自動販売機前で遥と美乃梨が出会った日以来、遥の事がいたく気に入ったらしい美乃梨は頻繁に遥の病室を訪れるようになった。今まで一人でいる時間を考え事や読書に充て静かに過ごしてきた遥の入院生活は一気に賑やかな物になり、おかげであれこれ余計な事を考えずに済んではいたが、今すぐ退院できそうな程活力みなぎる美乃梨の相手は相応に体力を使い、何より歳の近い女の子と親密になるという経験に乏しい遥だ、美乃梨の妹ができた様な感覚でいるクロスレンジな距離感はなかなか堪える物があった。美乃梨の事が嫌いな訳では無いがやはりそこは健全な十五歳男子の精神を持つ以上仕方がないだろう。

「はい、できたよ」

 今日も遥の病室に遊びに来ていた美乃梨が嬉しそうに言って遥の前に手鏡をかざす。響子の持ち込んだ丸い猫の顔を模した手鏡には美乃梨の手によって髪を二本の三つ編みに結われた遥の姿が映し出される。元々肩に届くぐらいまでしか長さが無いのでささやかなお下げだったが、かえってそのささやかさが小柄な遥の外見と相まり実に愛らしい雰囲気を作り出していた。結い上げた美乃梨自身もその出来栄えにご満悦な様子でしきりに「可愛い」を連呼する。

 遥も確かに鏡に映った幼女の姿を可愛らしい物だとは感じたが、それはあくまで客観的視点で見た場合の話であって、それが今の自分の姿なのかと思うとやるせなさから堪らず溜息が漏れた。

「ありゃ、気に入らなかったかな?」

 溜息をついた遥に美乃梨はちょっと不服げに「可愛いのになぁ」と洩らす。

「遥ちゃんってちょっと変わってるよね。可愛いって言ってもあんまり喜んでくれないし、ボクっ娘だし、その割にはいつも可愛い恰好して小物も可愛いのばっかり」

 美乃梨は手にしていた猫型の手鏡をくるりと一回転させてから枕元に置く。

「あとなんかやけに渋い本読んでる」

 手鏡を置いた美乃梨はその傍らにあった漱石の著書「こゝろ」を手に取って不思議そうに眺める。遥が病室での暇な時間を過ごす為にと売店で二冊ほど買った内の一冊だ。もう一冊はダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」だったが、美乃梨にはいずれも十歳前後の女の子が好んで読むようなタイトルには思えない。

「えっと、お母さんの趣味で…」

 美乃梨の疑問に答えようと遥がそこまで言うと驚きに目を見開いた美乃梨が最後まで聞かず言葉の続きを遮った。

「えー、遥ちゃんのお母さん教育ママなの?」

 意外といった様子の美乃梨に遥は思わず首を傾げてしまう。可愛い恰好や小物は母の趣味で自分が選んだ物ではないと説明しようとしていたので、何故それで教育ママという人物像に至ったのか疑問だった。可愛いの英才教育? と少しズレた事を思い浮かべたが自分を嬉々として少女趣味漬けにする母の様子から無くは無いかと遥は納得しないでもなかった。

「なにこれ超難しそう」

 漱石の「こゝろ」をパラパラとめくった美乃梨が渋い顔をしてそう言ったので遥は美乃梨が「母の趣味」を本の選定についてだと勘違いしている事に気が付いた。

 納得のいった遥は改めて美乃梨の当初の疑問と誤解を解く為の道筋を頭の中で整える。しかしそこでふと思い至った。可愛い恰好や小物は母の趣味で、見た目にそぐわない本や女の子らしくない一人称は自分が元々男子高校生だったから、そう説明したところで果たして信じてもらえるのだろうか、それ以前にそう説明する事に意味は有るのだろうか。そんな疑問が湧いてくる。今自分が十歳前後の幼女である事には変りがないし、もう元の姿に戻れる芽がほとんどない以上今後はこの身体で生きていかなければいけない。そうなると今更自分は元々男でした。なんて言うのは単に相手を混乱させるだけなのではなかろうか。そう考え込んで遥は思わず唸ってしまった。

「遥ちゃんも大変だね」

 唸る遥を教育ママの厳しい指導に対する苦悶とでも勘違いしたのか、美乃梨は遥の頭をよしよしと撫でてくる。そこでまた遥ははたと気付く、自分の事を完全に年下の女の子と疑わず接してくる美乃梨を自分は今、現在進行形で欺いている事になりはしないだろうかと。そう思うと遥の胸にじわじわと罪悪感が沸き上がってきた。

「あっ、お団子とかも可愛いかも!」

 遥の心境を他所に撫でていた髪から新たなインスピレーションでも受けたのか美乃梨は三つ編みに結った遥の髪を解いて新たなるアレンジを施し始める。

 一旦考え込み始めた遥は気もそぞろで美乃梨に成されるがままだ。今はそんな事よりも他意はなかったにしろ自分に親しくしてくれている相手を欺いているかもしれないという罪悪感についてだ。真実を打ち明ければ美乃梨に非難されるかもしれないと考えたが、それでも欺き続けるよりは人として、自分の心情としても幾分か真っ当だと思えた。真実を伝える事で美乃梨が離れて行ったとしても、本来の自分は美乃梨が思っているような小さな女の子ではない以上それは仕方のない事だ。そう割り切ろうと遥は覚悟を決める。

 美乃梨が遥の後頭部の高い位置に少し複雑なお団子をこさえ終えるのと、遥が美乃梨に本当の事を打ち明けようと決めたのはほぼ同時の事だった。「できたっ」と美乃梨がその出来栄えを誇らしげに遥の前に手鏡をかざしてきたがしかし、遥は鏡には目を向けず美乃梨の方へと向き直ってまっすぐにその瞳を見据えた。

「美乃梨ちょっと聞いてほしい話があるんだけど」

 遥の真剣な眼差しに美乃梨は少し戸惑ったがいつも通りの良い笑顔で「何でも聞くよ」と明るく答えてくれた。この笑顔もこれで見納めかもしれないと遥は少し寂しく思う。


 遥は順を追って事の次第を全て美乃梨に打ち明けた。自分は元々地元の高校に通う十五歳の男子だった事。三年程前の十二月半ばに学校からの帰り道、小学生の女の子を庇って事故に遭った事。その事故で身体を失い三年が経過していた事。事故で失った身体の代わりに十歳前後の幼女の身体になっていた事。そしてもう元には戻れないだろうという事。

 普段は油断するとすぐに話の主導権を奪っていく美乃梨だったが、今回ばかりは遥の真剣な様子に大人しく最後まで話を聞いてくれていた。話しながらも真っすぐ見据えていた美乃梨の表情は、初めは突飛な話に戸惑いの色を見せ、次に信じられないと驚嘆に目を見開き、話が終盤に差し掛かった頃には何故かその瞳を潤ませて今にも泣き出しそうになっていた。

「えっと…だからその、漱石を読んでるのは年相応だし、一人称がボクなのも自然な事で、あと可愛いって言われると複雑って言うか…」

 一通り事情を話した遥は泣き出しそうな美乃梨に戸惑いながら、最後は歯切れ悪く話を締めくくった。遥にとって美乃梨のこの反応はちょっと予想外だ。当初遥が有り得ると思っていたのは、信じてもらえずいつもの調子が続くか、騙していた事を激しく非難されるかのどちらかだった。だが今の美乃梨はそのどちらでもない。瞳に涙を溜めて遥をじっと見つめている。年下の女の子だと思っていた相手が実は年上の男子でショックを受けているのか、はたまた遥の境遇に感情移入しての事なのか、美乃梨の性格なら後者かもしれないと遥は思ったが今一つ推し量れない。

「えっと…美乃梨?」

 遥が心配になって美乃梨の顔を覗き込むと、美乃梨は遂にその瞳から大粒の涙をこぼし始める。

「遥ちゃん…あたし…」

 遥は理由の分からぬ美乃梨の涙に焦りを感じたが、美乃梨はこぼれ落ちる涙を拭う事もせず溢れる涙と感情のまま遥を強く抱き締めた。

「ごめん、ごめんなさい…!」

 突然の抱擁と謝罪に遥は益々意味が分からなかった。何故泣くのか、何を謝るのか、少なくとも今まで小さな女の子扱いしていた事に対してという訳ではなさそうだ。中身は男子高校生ですと言ったばかりなのにそんな事はお構いなしに抱き締めてくる。いったい全体どういう事なのか、もう遥には美乃梨の事がさっぱり分からない。しかしそんな遥に美乃梨は答えをくれた。それは、遥が予想もしていなかった答えだ。

「遥ちゃんが助けてくれた女の子…、あたしなの…。だから、あたしのせいなの!」

 最後は半ば絶叫の様だった美乃梨の言葉に遥は衝撃を受ける。そして同時に混乱した。美乃梨は今何と言った? 自問して今言われたばかりの言葉を反芻する。自分の助けた女の子が美乃梨? 突然突き付けられた事実に困惑する。二人が入院している病院は遥の住む街にある市民病院だ、そこに入院してきている事から美乃梨も恐らく地元の子だろう。確かに可能性としては有り得るが、あの日自分の助けた女の子と三年ぶりに目の覚めた病院で再会するなんて、そんな偶然が有るだろうか。

「ちょっとまって、ボクが助けた女の子が美乃梨だって、どうしてわかるの!?」

 性急な美乃梨の事だ、同じ様なシチュエーションを体験しているだけで、今の話と自分の過去を結び付け勘違いしている可能性もある。しかしそんな遥の疑念を美乃梨はあっさりと否定した。

「あたし、思い出したの。あたしを庇ってくれた人を、お友達が必死に『はる』って呼んでたの、それで…今の話聞いて、『はる』は、遥ちゃんだって…だから…あたし…」

 涙に詰まり美乃梨は最後まで言葉を続けられなかったが、そのエピソードに遥は確信せざるを得なかった。遥の記憶にもはっきりと残っていたからだ、自分の名を必死に叫ぶ賢治の声が。

 遥の全身から一気に力が抜け自然と力ない笑いがこぼれる。自分が庇った女の子がどうなったのか、今まで気になりつつも現状で手一杯だった為その顛末は聞きそびれていた。それがこんな形で提示される事になるとはまさか夢にも思ってはいなかった。こんな事ってあるのだろうか。こういうのを運命の悪戯とか言ったりするのだろうか。遥はそんな事を思うと同時にあの時の自分の行動は無駄ではなかったのだと、どこか救われたような気持ちになった。思わず安堵の声が漏れる。

「そっか、よかった…」

 そう呟いた遥に美乃梨は尚も「ごめん、ごめんなさい」と繰り返し泣いた。遥は涙のせいですっかり鼻声になっている美乃梨の背中を躊躇いがちに慣れない手つきで撫でる。背中に掛かった美乃梨の滑らかな髪の手触りに少しドキッとしたが、ここに自分の救った命があるのだと思うと誇らしくもあり嬉しくもあった。

「謝らないで」

 無駄ではなかった。その想いに遥の心が満たされる。思えば幸福なのかもしれない。自分の行いで、誰かの命が守られ、そして自分もまた命を繋ぎ止めている。身体を失う程の事故だ、あの時命を落としていてもおかしくはなかったはずだ。諏訪医師が言っていた。奇跡だと。その事を噛みしめると自然と遥の気持ちは前向きになった。

 今まで気付けないでいた。自分の身に起きた理不尽にばかり囚われ見失っていた。命を救う事より尊いものは無い。遥は諏訪医師のその言葉を思い出す。確かにそうだ。その行いは誰にも責められるべきではない。美乃梨と出会った日に知らされた。今こうしている間にも誰かが命を落とそうとしている。思えば自分は恵まれていたのだ。遥の胸に熱い物が込み上げる。それは命の温度その物に感じられた。

「ボクは…こんな身体になったけど、でもこうして生きてる。君もこうして元気でいてくれた」

 身体を包む腕の確かさ、伝わってくる体温、そんなものを感じながら、いつもの朗らかな美乃梨の笑顔を思い浮かべる。事故の記憶は美乃梨にとっても辛い物のはずだ、それを感じさせず健やかでいてくれた美乃梨の事を嬉しく思う。

「それで…十分じゃないか」

 遥は感じている素直な気持ちを口にした。今まで気付かなかった。落ち込むのも、悩めるのも、絶望するのだって、生きていればこそなのだ。

 遥の言葉に美乃梨は感極まったのかこれまで以上にぎゅっときつく遥を抱きしめ声を上げて泣き始めてしまった。言葉にならない嗚咽を繰り替えしながら抱き着いて離れない美乃梨に遥はちょっと気まずかったが、今はただ命の感触を確かめるように美乃梨の感情を小さな身体全身で受け止めた。

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