1-1.青天の霹靂
青天の霹靂。
青く晴れ渡った空に霹靂、つまり雷が激しいく鳴り響く様子から、予期しえない唐突な事件が起こる事を指して言う。
昔の人は上手い事言ったものだ。
押し迫る自体を前に、少年が場違いにもそんな事を考えてしまったのは、ほんの数時間前に高校の期末試験でその語句にまつわる設問を目にしていたからなのだろう。
いや、もしかしたらそれは、ある種の現実逃避だったのかもしれない。
数瞬後に、自分はとても酷い事になる。こんな時人は走馬燈を見るなんて言うけど、いったいそれはいつ見るのだろうか。もはや回避不能な事態を前に、少年の頭に浮かんぶのそんなぼんやりとした事ばかりだった。
奏遥、十五歳男子。三月生まれの高校一年生。
趣味は読書で成績は中の上。運動神経は特別に良い訳では無いが致命的に悪くもない。
家族構成は共働きの両親と四つ上の兄が一人。家族仲は適度に良好で、環境的にも経済的にも不満や不自由を覚えた事が無い程には恵まれた家庭で育ってきた。
性格面は別段真面目という訳では無いが擦れきっている訳でも無く、自意識は歳相応。
友人関係はどちらかと言えば狭く深で、特に隣の家に住む同い歳の幼馴染、紬賢治とは親友同士と言い合って憚らない。そんな賢治と共に今年の春から地元の公立高校に通い始め、学校では程々に勉強する傍ら、男子高校生らしく友人達と馬鹿話に花を咲かせたり、クラスの可愛い女子に密かな好意を寄せたりもする。
言ってみれば遥は、そんなどこにでも居そうなごくごく普通の少年だった。
「賢治また女の子に告られたんだって?」
吐く息が白み始めた十二月の半ば、二学期末の定期考査を終えた日の帰り道、澄み切った冬空の下で遥は隣を歩く賢治に向って溜息交じりふとそんな事を尋ねる。
「あぁ、まあでも、いつも通り断ったぞ」
照れるでも悪びれるでもない落ち着いた口調で遥の疑問に答えた賢治は、いわゆるイケメンに分類されるタイプの人種だった。
一八〇を超える長身に男味溢れる精悍な顔付き、そしてどこか大人びた雰囲気と落ち着きのある佇まい。それだけでも女子からの好感度ポイントはかなりの高得点をマークする所だが、運動神経抜群でどんなスポーツをやらせても一流並みの能力を発揮する万能選手という高スペック持ちだ。
そんな賢治は現在どの運動部にも所属しておらず、遥と共に帰宅部に甘んじてはいるものの、根が真面目なせいか球技大会や体育祭といった学校行事になると常に全力で、それこそ運動部を差し置いて獅子奮迅の活躍を見せたりもする。そんな所でもまた女子達の好感度ポイントは上がり続ける一方で、そうなってくると当然の如く賢治を我が物にせんとアプローチを掛けて来る女子は後を絶たない。遥が知る限りでも、賢治が今まで女の子に告白された回数は優に五十は下らず、高校に入ってからだと今回ので十六回目を数えるだろう。
「いいなぁ…ボクも一度でいいから女の子に告白されてみたいよ…」
入学してから一月に二回は告白されている事になる賢治のモテっぷりに、遥は羨望の言葉を呟きながら深々とした溜息を付く。絵に描いた様なイケメンの賢治と違って、遥のルックスは可も無く不可も無くと言った感じで見事なまでに並みだ。いつも賢治と一緒に居る所為でその印象は更に拍車が掛かっているし、その上どこかの誰かみたいに運動神経が抜群だったりもしない。もっと言えば他に何か特別秀でているという事も全くなく、遥は見た目的にも能力的にも、自他共に認めるモブキャラその一といった所だ。そんな具合なので、当然の如く遥は生まれてからこの十五年間、同世代の女の子から告白された経験などはただの一度もありはしなかった。
「まぁまぁ、ハルにはマリちゃんがいるじゃねーか」
慰めのつもりなのか賢治が肩に手を置いて至極真顔でそう諭してくると、遥は今一度深々とした溜息を付いて大きく肩を落とす。
「真梨香は小学生じゃんか…」
真梨香というのは、遥と賢治がよく行く近所のラーメン屋「白竜亭」の一人娘で、フルネームを白藤真梨香と言う、ツインテールがトレードマークの現在小学五年生の女の子だ。近所という事もあり真梨香は昔から遥と賢治を兄のように慕って懐いており、本気なのか冗談なのか「賢治くんは黙っててもモテるからあたしが遥くんのお嫁さんになってあげる」等とませた事をよく言ったのだ。
「マリちゃん将来美人になると思うがなぁ」
尚も続く賢治の見当はずれな慰めに遥は思わず苦笑いである。真梨香は確かに将来有望な可愛らしい女の子だが、遥が賢治を羨ましがったのは何も将来の伴侶を見つけたい等と言う大げさな事ではなく、単純に男子高校生として同世代の異性にモテてみたいという極健全な願望によるものなのだ。
「賢治って…たまに天然な」
遥が半ば呆れたようにそう言って賢治の方を見ると、言われた賢治は困ったような悩ましいような納得いかない様な何とも言えない微妙な表情を返していた。
「プッ…何その顔…!」
賢治の微妙な表情が可笑しくてつい吹き出してしまった遥は、それはから一頻り笑った後、ふと思い出したように問い掛けてみる。
「そういや賢治って、何で彼女作らないの?」
賢治はこれまで幾度となく女の子からの告白をうけながらも、一度としてそれに色よい返事をした事がないのだ。
「彼女…ねぇ…」
遥の問い掛けに渋い表情になった賢治は、説明の言葉を探しているのか、しきりに首を捻って腕組みをする。
「うーん…、なんつーか、女子特有の違う生き物感? そういうのが苦手なんだよなぁ」
探した言葉の中に適切な表現は見当たらなかったのか賢治の返答はどこか曖昧な物だったが、遥は賢治の言わんとしている事が何となく理解できた。恐らくそれは男子にはない、それとなく横たわる暗黙のヒエラルキーや、自らの性を自覚した上でのあざとさ何かの事だったりするのだろう。遥はそれを特別苦手に思った事は無いが、賢治の様に苦手意識を持つ者がいるのも感覚的には頷けた。
「あー、うん、言いたい事は何となく分かるよ」
遥は若干漠然としていた説明に理解を示しながら、賢治が口にした「違う生き物」という言葉を胸中で反芻する。遥はその少々大げさですらあった表現には、個人的に少々思うところがあったのだ。
それはいつ頃から感じていたものなのかハッキリとはしないが、明確に意識したのは中学の入学式での事だったのを今でも覚えている。体育館にひしめく詰襟とセーラーに分かれた集団。そんな光景を目の当たりにした時に遥は確かに感じたのだ。それまで等しくただの子供だと思っていたはずのもの達が「男」と「女」という別々の生物として定義されたのだと。
「まっ、そういう事だ。俺は男同士つるんでる方が気楽で良いよ」
共感を得られた事に満足げな笑みを見せた賢治がそんな事を口にすると、遥もその意見に関しては異論が無く笑顔でそれに頷きを返す。
「確かにそうかもね」
遥も口では賢治のモテっぷりを羨ましがり、何となく自分もモテてみたい等と思ってみたりはするものの、実際の所それは余り具体的なビジョンのある話でも無いのだ。
遥は試しに、もし実際に自分が何かの間違いで女の子から告白されて付き合うなんて事があったとしたら、果たしてそれはどんな物なのだろうかと想像を巡らせてみる。学校から一緒に帰ったり、休みの日にデートしたりと、実際に女の子と付き合った事のない遥が思い浮かべられたシチュエーションは精々がその程度だったがしかし、どうにもそれすらまるでピンと来ない。それもその筈、学校の帰り道は小学校から高校に入った今に至るまでずっと賢治と一緒なのが当たり前だったし、休みの日だって大抵はどちらかの部屋で意味もなくだらだらして過ごすのが常なのだ。今更自分の傍らに賢治じゃなく女の子がいるなんて状況は、遥にとってあまりにもリアルではなかった。
「賢治が女の子だったらよかったのかもなぁ」
遥の頭の中でいつも隣に居る賢治と、想像した彼女のいるシチュエーションが混線して小説や漫画なんかで良くある同年代の幼馴染が可愛い女の子なんて設定に思い至る。遥はつい冗談でその事を口にしてみたものの、長身で如何にも男っぽい見た目の賢治が女の子の恰好をしている姿を想像してしまい思わず吹き出してしまった。
「…プッ! あはは!」
何も姿形まで今のままで想像する必要は全くなかったのだが、賢治が隣に居る事が余りにも当たり前だった遥にはどうしてもそれしか思い浮かべられなかったのだ。
「お前、今すげー想像しただろ!」
非難の声を上げた賢治は頭一つ分高いその長身を生かし、遥の頭を上から抑え無造作にその髪をくしゃくしゃと搔き乱す。二人のごく日常的な他愛のないやり取り。今まで幾度となく共に歩いてきた帰り道。もし運命の分岐点という物が存在するのであれば、それは果たして一体どこだったのだろか。
それは、帰り道にいつも利用している交通量の多い大通りに設けられた横断歩道。遥と賢治が他愛のない会話を続けながら信号が青へ変わるのを待っていたその時、ランドセルを背負った女の子が同じように信号待ちをする為に横へ立った。
体格からしておそらくは高学年だろう。もしかしたら真梨香の同級生かもな、と遥がそんな事をぼんやり考えている横で、女の子はどこかそわそわした様子で赤く灯る歩行者用信号と青く灯る車両用信号を交互に見やって忙しない。遥はその様子に見たいアニメの時間でも迫っているのだろうか、等と昔の自分に照らし合わせてただ微笑ましく思っていた。そんな呑気な遥を他所に、おそらく運命の分岐点はすでにそこにあったのだ。
車両用の信号が黄色から赤に変わった瞬間、横にいた女の子がパッと横断歩道を駆けだしてゆく。それは一瞬の出来事だ。隣にいた賢治が「危ない!」と叫ぶのと同時に遥は走り出していた。遥自身何故そんな行動に出たのかは分からない。普段は別段行動力旺盛という訳でも正義感溢れるタイプという訳でもない。ただ咄嗟の事に、遥は頭で考えるよりも先に体の方が自然と動いていた。十五年余り生きてきた中で、おそらくは一番の瞬発力を発揮した瞬間だっただろう。
「間に合え!」
遥は唯その一心で、賢治の叫び声に反応して振り返っていた女の子を走る勢いをそのままに思い切り突き飛ばす。思いの他体重が軽かったのか、態勢が不安定だったのか、またはその両方か、女の子は遥の想定より勢いよく吹き飛んだが、幸い背中のランドセルから落ちそうなのでおそらくは大丈夫だろう。多少の打ち身や擦り傷くらいはこの際我慢してもらうとして、それよりも問題だったのは、遥自身だ。
繰り返し鳴らされるけたたましいクラクション、甲高い悲鳴のようなブレーキの擦れる音、それと周囲から上がった本物の悲鳴。もはや、遥になす術は無かった。おそらく、変わり際の黄色信号を突っ切ろうと加速していたのだろう。大型のトレーラーがその圧倒的な質量を持って、猛然と遥に迫り来る。ふと視界に入った歩行者用信号は、まだ赤いままだった。
青天の霹靂。
それは普段と変わらない帰り道のはずだった。澄み切った冬空の下、賢治と二人、普段通り他愛のない話をしながら帰宅して、それからは家でプライベートな時間を幾らか過ごせば一日が終わり、また明日も同じような今日がやってくる。そんなありふれた毎日を重ねながら、いずれは高校を卒業して、多分大学までは賢治と同じで、そこから先の事は分からないけれども、きっとそれも何ら特別では無いごく普通で当たり前の日々な筈だった。今はお互いピンと来なかった恋愛なんて物を真剣に考える日だって、これから先も生きていればきっと来た筈なのに、果たして運命はどこで分岐してしまったのだろうか。おそらくそれは、神様とやらにでも聞いてみなければ分からない事だ。
これが走馬燈か? 今までの出来事を一斉に思い出す物だと思っていたけれども、どうしてかこれか先にある筈だった事ばかりが思い浮かんでしまう。逃れられない状況を前に遥は、ただ漠然とそんな事を考える。
「ハル!」
迫りくる鉄の塊が上げるけたたましい騒音の中、賢治の悲痛な叫び声だけが何故か妙にハッキリと耳に届いていた。




