9. tangent
なんだ、あれは…。なんだ、さっきのはっ……!
かつかつと、革ブーツの音が響いている。それは廊下じゅうを響かせていた。物静かな校内は人気がない。辺りは黒い帳がかかったように真っ暗である。なんだか不気味さを醸しだしていた。
その校舎の中で、先ほどからブーツの音を鳴らす人物、キリアは、血相を変えて走り続け、息を上げている。ブーツのテンポは早い。
違う、知らない、自分は知らない。きっと見間違い。頭がボケっとしてたからだ。ありえない。
キリアは手を顔から退かすことが出来なかった。正確には両目から。もう目は痛くなくなってきた。別に痛みで覆いたくなるほど辛いわけじゃない。
ただ、怖くて、恐ろしくて、とても手を下ろせそうにないのだ。
ひゅっと短く息を吸う。
さっき、窓に映った自分は…。
自分の瞳の色は…。
ぶるぶると体が強張る。手が震えている。
落ち着け、落ち着け自分。見間違いなら、別に怯えることないじゃないか。
「………。」
キリアは足を止めた。
ギュッと唇を噛みしめて、キリアはゆっくりと手を下ろす。
目は瞑ったまま。廊下の窓の方に向く。
違う。絶対違うから。単なる錯覚。そんなわけない。
閉じられていた目を、見開いた。
「………ほら、やっぱり。」
黒曜石のように、澄んだブラック。見慣れた瞳の色。
窓に映るキリアの目は、いつもどおり、落ち着いた黒色を映しだしていた。
すとんとキリアの体に力が抜ける。
安堵が体じゅうを駆け巡り、よろよろと体を壁に預けた。
「良かった……。」
そう呟いた唇を拭う。と同時にピリッと痛みが走り、血の味がする。相変わらず唇が荒れているのか。昼間はそうでもなかったのに。
拭った自分の手を見ると、指を少し切ったくらいの少量の血がついていた。キリアは顔をしかめた。
気持ちが悪い。どこぞの化け物といっしょである。
“赤”というのは、元来、不吉な証。
この世界では共通の認識である。魔術師や、占星術士、エクソシストといった魔法に携わる者も“赤”という言葉にはぴくりと反応する。赤色は闇の住人を象徴するもの。闇に落ちた者の魔力の色は赤色になる。キリアもそれを幼い頃から徹底的に叩き込まれた。
“魔はいつでも俺たちの心にいる”
脳裏に静かな声が再生された。口を酸っぱくして言われ続けたその言葉とともに。
“狩人”の才能がある者の心得。絶対的信念。
キリアは立ち上がった。適当にスカートをはたいて、汚れをはらう。
早く寮棟へ帰ろう。いったい今は何時だ。何時間自分は調合室にいたのだろう。シアリスにどやされそうである。
キリアは光が差さない闇夜のなか、一人廊下を歩いていった。
寮棟に帰ると、案の定シアリスに問い詰められた。キリアは調合室で寝ていた、とだけ伝えることにした。目のことは、言わないことにする。心配はかけないようにするために。
「じゃあ、メモリアルストーン、出来てないの?」
「はい、すみません…。」
「わたしは別に、いい。キリアのこと、だもん。知らないよ!」
「明日、また続けます。ご心配なく。」
「それは…、もう、いいよ。でも、そうじゃなくて、」
「すみません、シアリス様。今日はもう、休んでもいい、でしょうか…。」
眠るつもりなんてなかったのだが、とろとろとまた眠気が襲ってきた。どうしてだろう。さっきも寝たばかり、じゃないか…。
「キリア…。」
「明日は必ず起きますから。すみま、せん…。」
そこから記憶がない。倒れるように眠った。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
翌日、キリアは何事もなかったかのように起床し、努めて普通の振る舞いを心掛けた。最近では朝ごはんも少食気味だったが、押しこめて食べる。行動を機敏にする、それだけで精神的にも防げるはずだ。
キリアは自己管理を徹底することに徹したのだ。最近の自分の体調不良は目に余ると深く自覚したためである。
しかしそうは分かっていても、どうしようもない眠気が襲いかかる。というか、正直にいってしまうと努めてはいるものの、果たして実行できているのかと問われると、頷けない。
前までこんなことはなかったのに。むしろ気を高ぶらせ、浅い眠りでも十分に休んでいたくらい。改めて自分の身体に異変を感じる。
“異変”…?
こくりこくりと揺れていた頭を、がばっと浮上させる。
いけない、また、寝ようとしていた。ゆっくり周りを見てみるとカリカリとペン先の静かな音が鳴っている。授業中である。
ふるふると頭を揺らし、必死に睡魔を追い出す。
また、何やっているんだ。何回目だ。心の中で自己嫌悪がたちこめる。
頬杖を突いたまま、手を目に当てるとため息をついた。まだ3時限目。朝だ。
机に無造作に置いたままの羽ペンを手に取り、なんとかメモを取っていく。
「……マリア=カーリー?あなた、大丈夫なの?」
ふと気づくとシェリルがこちらを見ていた。
「…ええ、平気。」
「そうは見えないけれど。ほら、授業終わってるわ。」
「あ…。」
キリアは図星をつかれたように急いで、教科書をしまった。心なしか、今まで以上にボケが悪化している。情けない。
ぼんやりとする頭をもう一度揺らそうとすると、突如、大きな歓声と特有の黄色い声が、まるでキリアの耳元で発されたかのように反響する。
「な、なに……。」
目覚し時計並の破壊力を持っていた。おかげで少しばかり目が冴える。
「あれはベルクールの…。」
「ベルクール…?」
シェリルが窓の外を見て、顔をすっと眉をひそめた。
窓の外を眺めていたシェリルの顔はみるみるうちに歪んでいく。
「…“アカシ”」
「なに……?」
小さくシェリルの口から漏れ出した言葉。
なんのことだ。
キリアは不可解に思いながら、窓の外を一瞥する。1階の噴水ロータリーの周り。そこにはたくさんの人だかりがあった。みな一定の距離でそれを遠目から見ている。
「…なにかと思ったらまたSSクラスの人だかり?」
中心にいる人物に目を凝らすと、何かの術式を描いているように見える。背が高く、ここにいるキリアでも分かるほど均整のとれた綺麗なシルエットをしている。見たことのない術式のようにも見えるが…。普通の魔法とは一風変わっている。
「あれは、古典魔法に似てるような…。」
「…マ、マリアっ」
いつの間にかこちらに目線を戻していたシェリルは、引き裂かれそうなほど目を見開いていた。
その顔は蒼白色に染まり、血の気がひいている。まるでおぞましい魔物を目の前にしたかのような、本心からの恐れ。
「なんで、あなたのそれ…。」
「シェリル…?な、なに、私なにかした?」
ふと脳裏に“赤”がよぎる。
昨日の、窓に映っていた、血のように純粋な、赤色の瞳。
「…ち、ちがうっ」
反射的にばっと目を覆う。嗚咽が漏れた。
「マリア、左の腕を隠して、早く。大丈夫、まだ間に合う。」
「シェリル…、私の瞳は、」
「瞳なんてどうでもいいの、それより腕っ!騒がないで、落ち着いて。あなたも、わたしも…。こっちにきて。」
瞳、じゃないのか…?
キリアは言われた通り、左の袖を引っ張る。シェリルはやや強引にその左腕をつかむと、至極平静を装い、クラスを退出する。何が何だか分からず、促されるままキリアはシェリルについていく。
「シェ、シェリル…、いったいどこに?」
「わたしを信じて、今はついてきてちょうだい。お願いだから。」
シェリルは肩に少しかかる髪を揺らし、カツカツと早歩きで廊下を進んでいく。
Aクラスの教室棟校舎から出ると、表の出入り口は相変わらずの人だかりだったが、二人は人ごみに紛れるように先を急ぐ。
「ここで止まってちょうだい。」
シェリルはAクラスの東側校舎の横までくると、くるりと校舎の壁を向く。艶やかで真っ白な壁である。
「どうする気なの。」
「こうする気よ。」
キリアがそっと聞くと、シェリルはポケットから一本のチョークを取り出した。
何の変哲もない緑色のチョークを手にしたシェリルは、すらすらと魔法陣の術式を描いていく。見たところ、基礎的な空間移動の羅列のようである。
「まさか、学校外に出る気?」
「それは微妙なところね。」
シェリルはほどなくして書き終わると、壁に手をつき、魔力を循環させていく。と同時にキリアの左腕も掴まれ、あっという間に壁の方へ引きこまれていった。
「もうすぐよ。」
気づくとそこは、緑の生い茂る木々に囲まれていた。
「ここどこ…。」
「ライトメリッツの魔法樹の森ね。」
「ま、魔法樹の森っ?」
キリアが驚くなか、シェリルは小道を通り、さらに魔法樹の森の奥深くへずんずんと入っていく。魔法樹の森の立ち入りは禁止されている。ライトメリッツに隣接する巨大なこの森は学園内の最奥に位置し、多種多様な魔法動物が生息している。
「見えたわ、あそこ。」
「何だか、お化けみたいな木の家…。」
ぐるぐるとねじ曲がった木々が、ひとつの家を抱き込むように建っている。しかし、その家の周りの日当たりは悪く、木自体も陰険な雰囲気を醸し出している。物珍しいものだ。
シェリルはキリアをひっ連れ、足早にその家の中へと入っていった。