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アイドル始めました【雨多雨編】

作者: じゅん

「はい、オーディーは今日も此処に座ってね」

私は持っているリードの端を手すりのいつもの場所に結び付ける。

オーディー、私の家で飼っているセントバーナードの名前だ。

雄なので今後ここでは「彼」と呼ぶことにしよう。

彼は慣れたもので、ご馳走を待つように前足を揃えて大人しく座っている。

主の支度を待つ忠犬、いや飼い主が行う10分にも満たない妙な行動を諦めの境地で見守っているだけかもしれない。

いけない、始める前から怖気づてどうする「雨多雨うたう」。

今日は私の・・・新しい私の初めての舞台。

無意識にスカートを強く握る。

練習は自分なりにやってきた。

多分、うまい人から見たら鼻で笑われるレベル。

自分のイメージ合わないのも分かっている。

真似ようと色々な人の動画を見た。

動画の中の彼女たちは正直可愛かった、私よりも。

見終わった後、鏡に映る私と比べて落ち込む事が何度かあった。

重そうな黒髪、地味で目立たない黒を基調とした服、なにより母を真似て付けている地味な伊達メガネ。

でも今日は少し違う、白を基調としたスカート姿だ。

いつもジーンズばかりの私にとって、勇気が必要なちょっとした冒険であった。

お蔭でオーディーを散歩に連れていくと母に言ったら、

「彼氏でもできた?夏休み前だというのに早いわねぇ」

等とあらぬ誤解をされてしまった程だ。

退屈したのか、急かす様にオーディーが大きな欠伸をする。

いけない、また考えが悪い方に向かっている。

私の悪い癖だ。

気を取り直して周りを見渡す。

ここは自宅からそう遠くない公園、その外れにあある小さな広場だ。

夕日が差し込む其処に人影はない。

この時間帯のこの場所に、人の姿はない事は事前に確認済みだ。

そろそろ日没、暗くなる前に帰らなければ。

母さんに「遅かったわね、彼とはどうだった?」等と聞かされながら、夕食を食べる羽目になる。

溜息をついて上着を脱ぐ、桜の季節は終わったが夕暮れの風はやはりまだ冷たい。

オーディーに脱いだ上着を掛けてあげる。

毛に覆われた彼に必要なさそうだが、私としては「たった一人の観客」に何かサービスをしたいところだ。

あっ、そうだ!

メガネも外さなくては。

メガネを外そうとした私は、植え込みにの植物が葉を揺らした音に驚き、咄嗟に周囲に目を走らせる。

人影は見えない。

メガネを外す、そうだその為に私はこの時間のここを選んのだ。

人前ではいつもメガネを付けている、それが無いと私は・・・・・・

もう一度誰もいない事を確認しメガネを外し、脱いだ上着のポケットに入れる。

替わりにワイヤレスのイヤホンを耳に装着。

この日の為に用意したものだ、買ってもらうのに色々母の手伝いをこなしたものだ。

中身はもっと苦労した。

〈曲と歌詞〉

初挑戦で手探り、歌詞はともかく曲は慣れないパソコンで試行錯誤しながら作ったので時間がかかった。

お蔭で振り付けまで時間が回せず、よそのPVから切り貼りしたものになってしまった。

スマホを小型の三脚に乗せると、オーディーの前に置き録画を開始。

よし!

私もいつもの場所へ。

 ポケットの音楽プレイヤーのスイッチをオン。

 曲が始まる、手に汗の感覚。

喉が酷く乾く、声を出せるのだろうか?

 ここまで来て怖じ気づでどうする雨多雨、今よ今うたうの!

 目を閉じたまま身体でリズムを刻む。

 ふとある横顔が脳裏を過ぎる。

 そうだ、この歌はあの人を思って作った曲。

 言えない気持ちを込めた曲、だから堂々としてなきゃ彼女に笑われちゃう。

 目を開けオーディーを見つめる。

 見ていて私歌うから!

 曲が一瞬止まる。

 今だ!

「私の声、届きますか」


 はぁはぁ

 息が切れる。

 余りの疲労に振り付けの最後の姿勢のまましばらく動けなかった。

 頭からつま先まで駆け抜けた高揚感の残り香に、全身が震えているような錯覚を覚える。。

 ミスもあった、歌も踊りもまだまだ。

 でも私は歌えた。

 外で歌えた。

私が作った私だけの歌を。

 少し、ほんの少しではあるが前に進めた。

「どうだった?オーディ」

犬とはいえ伝わったはず、運動後の高揚感から勝手な思い込みの籠った視線を向ける。

だが、オーディは飼い主の一世一代の努力など微塵も気にしない様子で、いつの間にか地面に伏して眠っていたのだった。

「そ、そうだよね。あははは、はぁ」

溜息が漏れると、膝から地面に崩れ落ち両手を地面に突く。

額から落ちた汗が地面に波紋を描く。

火照った体に、春の残り香と夏の始りを告げる香の入り混じった風が優しく吹き付け、日常の体温へと戻してゆく。

ようやく終わったのか、と言わんばかりに気怠そうに薄目を開いたオーディと目が合う。

まだまだだな、いや10年早いんだよ。

と言われた気がした。

オーディは何があろうとも私の傍にいてくれるが、安易に褒めてくれた?事は一度たりともないのである。

「相変わらず辛口だね」

頭を撫でようとすると近くから人の声が聞こえた。

いけない、そろそろ人通りが多くなる時間だ。

急に呼吸が乱れ運動後のものではない不快な汗が額に浮かぶ。

私は乱暴にオーディから上着を奪うと、ポケットに入れたメガネを慌ててかける。

ワン!

私の只ならぬ態度にオーディが心配そうな声を上げすり寄ってくる。

「ごめんね、驚かせちゃって」

精一杯の作り笑いを浮かべ頭を撫でてあげる。

私は目が悪い訳ではない。

ある切っ掛けでメガネをかけ始めたのだが、いつの間にか人前では常にメガネを掛けていないと先ほどのように取り乱してしまう。

家族や親友の空ちゃんの前では平気なんだけどね。

「まだ無理か」

人が来る前に眼鏡を掛けられて安堵する自分に、思わずため息が出る。

今日この場所、外で歌えば何かが変わるかもなんて淡い期待は無残にも打ち砕かれた。

人気のない場所を選んだ時点で私は逃げていたのだ。

人には急に変われない部分があるようだ。

機材を素早く片づけると私は逃げるように公園を後にした。

帰り道、何気なく撮った動画をスマホで確認する。

そこには当たり前だが私が映っていた。

直視するのはまだちょっと恥ずかしかったが、歌って踊る<彼女>は堂々としていて、とても人前でメガネを手放せない臆病者には見えなかった。

もう一人の私、かな。

もしこの時この動画を撮っていなければ、自分を変えたい高校生の一時の悪あがきで終わってしまったのだろう。

数日後、ある人物に偶然見られてしい私の人生―少なくとも高校生活は一変することとなる。

そんなことも知らず疲れ切った私は、オーディに引きずられる様に家路を急いだのであった。

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