赤い果実
※注意
トマト好きは読まない方がいいです。
聖書好きの方はぜひ読んでください。
禁断の実を林檎だと、一体誰が言ったのだろうか。
神様が作った最初の二人は、神様の命に逆らって、禁断の実を口にした。
不気味な蛇に唆されて、愚かにもその実をかじった。
赤い果実。
だから赤は愚かな色。人間の血と同じ色。
知識の実とも呼ばれるその果実は最初の二人の体を駆け巡り、その果汁を巡らせ、知識を与えた。
果たして、そうだろうか?
自分で提示した意見に疑問が生じる。
二人が口にした禁断の実が知識の実だったとして、二人が恥じらいも知らない人間だったのなら、何故神様の言葉に逆らった? 何故悪魔の言葉を理解した?
何も知らなかったなら、何もできなかったはずだ。赤い果実に手を伸ばすことも、言葉を理解することも、何も。
何故それが原罪となったのだろう?
私には神が我々を苛むための冤罪にしか感じられない。
だとしたら、私は神など信じられない。
この世界に神などいない。
夏の夜空を私は見上げる。
ああ、久しぶりだ。
また会えたね、と星に囁く。応える声はない。
発展から取り残された田舎では、まだ星たちは夜空に瞬いている。そこに存在することを許されている。
だからいつも、夜の空には星がある。私をいつも見つめている。
けれど、悲しい。どうしようもなく悲しい。星たちはいつも私を見守ってくれているのに、私がこの空を見上げるのは久方ぶりだ。
私は空を見上げられぬほど、地上に囚われていた。
人間のいる地上に。
ああ、あれは白鳥座。こと座も見えるわ。今年も織姫と彦星は逢瀬を得られたのかしら?
そんな現実逃避の言の葉を私は紡ぐ。
その話を最後に口にしてから、まだ二年も経っていないのに。私の心は随分と穢れてしまった。
織姫と彦星に請い願う長方形の紙に願いなど書けぬほどに。
ねぇ、聞こえているかわからないけれどね。私の願いを聞いてくれるかしら?
一際輝くデネブとアルタイルと、もう一つ、名前を忘れた星に語りかける。
辺りに人はいない。私は一人になりたかったから、そうなのだ。
だから、紡ぐ。
私の、願いはね。
叶うことのない願いを星たちは笑ったりしないから。
この世界が滅んでしまえばいいと思うの。
星は美しい。
何万光年彼方の星、だからそこには誰もいないかもしれないし、いたとしてもこの声は届かないかもしれない。
人のいない公園とは名ばかりの更地に涼やかな風が吹く。
静かな時が流れた。
それが答えだった。
自分がどうして荒んだのか、わからない。
他人とは違うからかもしれない。
そんなの当たり前だと、周りには一笑にふされる。
そうだろう。世の中なんて、そんなもんだ。
誰も慰めなんてくれやしない。ああ、わかっている。わかっているさ。
わかっているのに、私は救いを求めている。だから星に語りかけて、気紛らすのだ。
本当、馬鹿な人間だ。浅はかで、どうしようもない。
私がこんな感情を抱くのは、社会に出て、息苦しいからだろうか? 壊れつつある我が家に絶望を抱くからだろうか。
私は私の罪を抱いたまま、精神科に通う。心配して、付き添う母にじわりと心が滲んだが、それは次の日には掻き消えた。
父も心配している。
けれど、父の心配の影に邪を感じずにいられない自分がいる。時折気まぐれに顔を出す、父の心を慰めようとする自分の心が酷く憎い。
この家は、もう駄目だ。
母がある日、朝まで帰って来なかった。
もう駄目だ。もう駄目だ。
私がか細い糸で繋ごうとしたこの家はもう駄目だ。
弟もいる。妹もいる。私は一番上の子だから、ちゃんと、親の代わりになれるよう、どんなに辛くても、私が弱いせいだから、頑張らなくては、と切れかけた糸を必死に抱いていたけれど、もう駄目だ。
父も母ももう駄目だ。
だからこの家はもう駄目だ。
私ももう駄目だ。
母の家出は一夜だけだった。
特に何もなく、ただ頭を冷やしに行っただけなのだろう。
父はそれに気づかない。誰より長く母を知るはずの父は、自分が蔑ろにされていると断じて、もう終わりかもしれない、と言った。
終わりなんだよ。
私は声に出さずに言った。
当然、父はそれを知らない。ただ、嘆きと諦めの言葉を垂れ流すだけ。
私は聞くともなしに聞いていた。覚えたくもない下らない戯れ言が、下らないのに耳に残った。
もうこの家族は終わりだ。
父を慰める私を弟が見た。
弟もきっと、同じ思いだったに違いない。
わざと、いつもどおりに振る舞った。弟もいつもどおりに。
離れゆく私に父が一言、ありがとうと言った。
どういたしまして、と言った私の皮肉は、果たして父に伝わったのだろうか。
ふらふらと自分の部屋に向かって歩く。
私はその日、昼などとうに過ぎた時間に目覚めた。午後二時を迎える手前にだ。
前の昼以来、何も口にしていない。低血糖なのだろう。それでも何かを口に入れる気はなかった。
弟が、大丈夫? と声をかけてきた。あんな場面を見たのに、心配をしてくれる弟に、胸が痛んだ。
大丈夫だよ、多分、と私は答えた。多分じゃ駄目だろう、と弟が苦笑いで指摘する。弟は私が何も食べていないことを把握している。だから、昨日の母さんのお土産のパンとポテトサラダが冷蔵庫にあるよ、と教えてくれた。ありがと、と私はどこかおざなりに返した。
弟の気遣いに応えようと、弟が干しそびれたという洗濯物干しをかって出た。
弟の高校指定のシャツと、運動着と、何故か父の下着が入っていた。
私は部屋のハンガーを探し、母が干しっぱなしにしていた乾いたものたちを乱雑に剥いだ。たたみもせずに妹のものと一緒に重ねる。乾いたものはさっさと取り込めと常々言っているのに。私は荒んで苛ついていた。
弟のものだけ干す父のものは放置しようか、と洗濯かごを乱雑に避ける。
そのとき、白い器に敷き詰められた赤いものが目に入った。
トマトだった。
トマトは私の好物だった。二つのトマトに、一つのミニトマト。熟れて、もう少しすれば腐るだろう赤い実に私は手を伸ばした。
きっと、朝食に出したのを、いつものように置き去りにしたのだ。
私は精神科でもらった食欲増進のための葛根湯を飲んだ。
苦い苦いそれは、あまり好きではないが、この赤い実のためなら、いくらでも飲み下せた。
薬を飲み終えた私は躊躇いなくトマトにかじりついた。仄かな酸味と熟れたことによる甘さが口の中に広がる。トマト独特の赤みを帯びた透明な汁をこぼさぬよう、私は実を啜った。
血も、こんな味ならいいのにね。
私は血の味を知っている。
親指をね、カッターナイフで切ってしまったことがあるんだ。わざとじゃないよ、冬休みの工作でね。木で箱を作ろうとしていた。
嘘みたいに流れる血をぼうっと見つめていた。
反射で、ティッシュで傷口を押さえたんだけどね、止まらないものだから、少し、舐めてみたんだ。
蚊の気持ちがわかったよ。とても、美味しかった。
鉄錆びの臭いは好きじゃなかったけれど、あのときから、それが愛しかった。
弟も現場にいたから、その後は冷静に対応したけれど、止血を終え、指切った、と淡々と報告したとき、両親はすぐに夜間救急の病院に連れて行ってくれた。
あのときはまだよかったのにな。
五年前の話を思い出しながら、私はトマトを貪った。
そういえば、トマト好きを自覚したのも五年前だっけ。
だから赤い実に血の味を思い出すのかもしれない。
私は二つ目のトマトをかじった。美味しい。
そこでふと、禁断の果実の話を思い出したのだ。
禁断の果実については諸説ある。けれど有力とされているのが林檎だ。
林檎はギリシャ神話でも黄金の林檎なんかで出てくる。比較的神秘を纏った果実だ。
けれど、禁断の果実を林檎だと、一体誰が言い出したのだろう?
宗教嫌いの私にとって、どうでもいい疑問が過った。
別に何でもいいじゃないか、例えばこのトマトでも。
トマトはどこかの地域で"悪魔の実"とも称されていた気がする。いや、それはじゃがいもだったか。
細かいことはいいが、最初の二人が口にした禁断の赤い果実が、もし林檎だったのなら、そこに偽りを感じずにはいられない。何故なら林檎は皮を剥けば黄色い実。赤は表面だけの偽りの色。
トマトの実は全てが赤い。赤は罪の色。ヒトの血の色。狂った世界の色。だからきっと、禁断の赤い果実はトマトだった。
だってトマトはあの日の血の味を思い出させる。
だから罪色の果実なのだ。
罪の色は赤なのだ……
世界が赤色にしか見えない少年を描いたことがあった。
彼は信号の色も判別できず、恐ろしく美しい絵画を描くのに、世界が全て、赤にしか見えない。
彼の世界は全てが罪に染まっていたのだろうか。
けれど彼は信号の前で引き止めてくれる友を得た。
友を得て、心を開いて……それなのに、彼の世界は赤いまま。
世界の原罪とやらのせいなのだろうか?
それとも、彼の存在を紡いだ私が悪いのだろうか?
私は幸せを紡げない。
かつては幸運の紡ぎ方を知っていたはずなのに、今は全てが悲劇に変わる。
それは全て、私が悪いのだろうか? ──私が悪いのだろう。
私の血染めを、罪なき彼らに着せてしまっているのだ。
私は作家失格だ。
私は三つ目の小さいトマトに手を伸ばし、やめた。
おそらく帰ってきた妹が食べるだろう。だから残した。
今は眠りたかった。
眠れなかった。
睡眠薬にすら逆らってしまう私の体は眠りを拒絶している。
それが永遠ではないから。
私はすがるものを現実に見出だせなくて、すがるものを作った。
物語の中にしか、私の救いはない。
物語だけが私の救いなのだと気づいた。
もう、とうの昔に私は手遅れだったのかもしれない。
この家より何より、私が手遅れだったのかもしれない。
私は物語と、夏の日に出会ったオレンジ色の花と、真っ赤なトマトにしか救われなかった。
花は語らない。トマトも物を言うことはない。
だから私は物語を紡ぐ人々と、自ら生み出した架空の人物たちに救いを求めた。
語れないのに言葉を尽くそうとして、過ちを繰り返しそうなのに恐れながら、私はそれでも繋がりを求める。
暗く、苦しい、苦しい。
赤い果実を食べて、楽園を捨てた最初の二人を恨む。
私は、私は。
どうしてこんな世界に生きねばならないのだ。
暗く、苦しい、苦しい。
けれど、私は生きるのだ。
物語が果てるまで、悲しき我が子らの宿命を全て見届けるまで、生きねばならない。
だから、だからどうか皆様、許してください。
愚かな私が皆様の物語を縁に生きることを。
赤い果実を食みながら、私は星に祈ります。
きっといつか、届くと信じて。
だから、見捨てないで。
貴方たちだけは──
どうか、私の墓前には、オレンジの花を供えてくださいね。キバナコスモスという花です。
はい、トマトはいいです。生きているうちにたくさん食べますから。
ある作家の遺書より。