メディアミックスを考える―デスノート実写ドラマ化に寄せて―
デスノート実写ドラマ化のニュースを聞いた。懐かしいなと思った。私が小学生や中学生の頃に面白いと思って読んでいたのを良く覚えている。キラの思想について、友人と是非を交わしたりもした。そこから話が広がり、死刑制度の是非などについても、中学生ながらに熱心に話し合ったことを良く覚えている。
そのデスノートが、実写ドラマ化。なるほど。
私は正直なところ、実写映像化というものそれ自体が好きではない。好きな人には申し訳ないが、私は好きではない。それは今まで、実写映像化した作品を見て、満足したたことが非常に少ないからだ。だから実写映像化を素晴らしいと思っている人は、良い作品を知らないんだねと、私を哀れんでくれて構わない。実際それは、ある程度当たっているところもあると思う。
だが、何故そうも私は満足のいかない映像作品にばかり出会っているのか?運や選び方が悪い、それもあるだろう。だが、それだけだとは思っていない。そもそも映像化される作品と言うのは、それなりに元の媒体で成功したからこそ、メディアミックスの話が来ているはずなのだ。普通に考えて、成功率は高くなるはずだ。ではなぜ、そうではないのか。その点について常々考えていることを少し述べたい。
まず理由としてあるひとつ目は、私の問題だ。いや、もう少し言えばそれは「受け手」の問題と言えるだろう。決して私個人の問題だとは思っていない。
私がある作品の実写映像化に接する時に、いや、それは実写ではなくアニメ化の際もそうなのだが、鑑賞前に原作を押さえておくことが多い。これは小さい頃からの習慣だった。今思えばそれは私の母親の策略だったのだろうと多少おかしく思える話だ。
私がまだ幼かった頃、ハリーポッターの映画が公開された。第一作の賢者の石だ。当時大流行した映画を、私ももちろん見たがった。そんな私に母は原作を買い与えてこう言ったのだ。「本を読んでからの方がずっと楽しめるから、読み終わったら映画に連れて行ってあげる」と。
理由をつけて連れて行かないような親ではなかった。私は言われた通りに原作を読み、それから映画を見に連れて行ってもらった。映画は非常に面白くて、幼い私は大満足だった。今思えば、あの経験が私の人生に与えた影響は非常に大きい。
原作を読んでから映画を見たほうが面白いんだ!そう言う風にあの頃の私は思った。そしてそれが正しいと長年思い込んでいた。しかし今は、むしろ全く逆だと思っている。おそらく、原作を知らずに楽しんだ方が、メディアミックス作品は楽しめることが多い。
何故か。それは現在メディアミックス作品が、原作に非常に忠実に映像化を行うということが少ないからだと考えている。原作に忠実にすることが作品として良くなることかどうか?については後で述べたい。しかし、原作に忠実であるか否かということは、原作を知っている人の評価は大きく左右するファクターだと思われる。
原作を知っている人は、自分なりに原作へのイメージを持ってメディアミックス作品にあたる。しかし、原作忠実だといわれる作品においても、原作と全く同じと言うことはありえない。それは製作メンバーも製作過程も表現方法も表現媒体も違うものなのだから、当たり前だ。そう言う違いと言うものを所与の物として受け入れ、「メディアミックスは別作品として楽しめ」と言う人もいる。正しいと思う。原作の影を追うことが良い結果を生まないことも重々承知だ。しかし、言われて出来ることなのか?
少なくとも私には出来ない。骨組みが同じである以上、メディアミックス作品を見ているときに私の脳裏には意識せずとも原作の陰がチラつくのだ。そしてその良さが、味わいが、チラつく。そういうものがメディアミックス後の作品では表現されていないと、それはプラスが存在しないから0、とはならない。あったはずのものが欠落したマイナスとして私の心を揺さぶる。違和感だ。
私がメディアミックス作品を鑑賞する時、この違和感が邪魔をするのだ。いや、私自身が、この違和感を以って作品の美点に対して心を閉ざしてしまうのだろう。これは寂しいことだと思う。しかし、意識して改善できるものでもない。意識的に作品の美点を探すことは、出来る。違和感を無視し、別作品として作品を見ることも可能だ。しかし、その時「違和感」は消えたわけではないのだ。目をそらしているだけで、無視しているだけで、そこに確かに存在している。もはや無心で作品にのめり込むことを、私自身が許してくれない。
実際思い返してみると、原作の存在する映像作品で私が非常に面白いと思ったものは、ほとんどが原作に触れたことのない作品ばかりだ。中には後々原作に触れて「映像の方が良かった」と感じたものまで存在している。これはメディアミックスが、必ずしも原作をダメにするわけではないと言う事を私に考えさせる一つの事実である。
いつまでも私(受け手)の話をしていても仕方ない。今回の主題はメディアミックス、それ自体だ。その話をしたい。
メディアミックスと言うのは、先述したようにその行為自体に難点を抱えている。原作とメディアミックス作品は、必ず、その定義からして、完璧な価値の継承を不可能としている。
どういうことか。これは私の個人的芸術論になるが、作品と言うのは必ずその作品の持てる表現能力全てを十全に利用して、作品としての価値を体現している。つまり、小説は小説として、漫画は漫画として、映画は映画として、それとしてしかできないやり方で我々の感情を揺さぶり、感動させる。そう言う風に考えている。メディアミックスとは、その独自のやり方を剥奪する行為とすら言える。
物語作品には「物語内容」と「物語言説」が存在すると言う風に表現することが出来る。ジュネットの物語論の考え方だ。物語内容とは、語られる話の内容、つまりストーリー、プロットのことだ。
物語言説と言うのは、その物語の内容を実際に表現する方法のことだ。小説で言えば、実際に表現される言葉のことである。
元々これが小説についての概念であるから「言説」と言う言葉があてられているが、私はそれを漫画や映像作品にまで援用できると考えている。コマ割や絵のタッチ、構図、表現技法、カメラワーク、BGMの入れ方や特殊効果、俳優のキャスティングや彼らの演技……それらの「物語内容以外の部分」が全て物語言説と言える。
優れた作品はこれらの両面において、価値を表現している。だから例えば小説はそのストーリーと、物語を表現する言葉のあり方の両面において価値を持つ。その二つの側面のどちらにどれだけ価値を置いているのか、と言う点に関しては作品によって様々だと思われるが、少なくとも一方にしか価値を持たないというものは存在していないと思っている。
これは小林秀雄が言ったのだったか、正確なところは良く覚えていないが「学校の勉強のために源氏物語の要約を作ったが、出来上がった要約は物語の筋を押さえているにも拘わらず、そこにはもう源氏物語を読んだ時にそこから立ち上がってくるような美しさが感じられなかった」と言う。物語言説が喪失されたのだと、私は感じた。
身近でもそのような、物語言説の喪失を感じることがある。ある日友人が、とある作品にいたく感動したことを私に報告してきた。彼はその映画がどれだけ良い話だったのかを伝えようと、必死であらすじを説明するのだ。だが、私にはさっぱり伝わってこない。物語の筋は理解した。良い話だと思った。しかし、彼をそこまで駆り立て、情熱的に語らせるほどに感動させたものはすっぽりと抜け落ち、そこにはただただ温度差だけが残された。
物語言説の力は、大きい。
メディアミックスが行われる際、物語言説は必ず一度喪失を経験する。表現の形態はそれぞれに、全く違う特性を持っている。小説の表現はそのまま漫画や映画では利用することは出来ない。中にはあえてそれを行う(漫画や映画の中で、文章によって小説と全く同じ技法で表現を行う)ような実験的な作品もあるとは思う。しかしそれは一般的ではない。
物語内容を維持したまま、全く違う物語言説を用いて物語を表現する。それがメディアミックスと言うもののあり方だと思う。そうすると一度喪失された価値を、別の材料を以って再構成すること、もしくは全く別の新しい価値を別の切り口で創造することが求められる。ここにメディアミックスの困難が存在する。独自のやり方を剥奪されるというのは、そう言う意味である。
そのことで、メディアミックスで名作が生まれ得ない、と言う事を言いたいのではない。私が言いたいのは「メディアミックスは、改変を避けられない」ということである。
そしてそのことを、先述の内容と照らして考えると、メディアミックスは原作を知る者に対して違和感を与えることを避けることが出来ないということにもなる。
しかし、改変が悪いことだとは言えない。文字媒体で発表された作品を映像作品にする場合、映像作品の物語言説の土俵の中で最も素晴らしい物にするために、物語自体を変換するということは、ある意味で表現に対する徹底した誠実さとは言えないだろうか?
メディアミックスは原作ファンへの接待活動ではないと、私は考えている。原作のあり方に手を入れようとも、新しい表現媒体の特性を十全に利用して価値を創造することに、作り手は専念するべきなのだと私は思う。そしてそれは、作り手の最大の腕の見せどころでもある。
ここで初めて、その「改変の質」について言及したいと思う。ようやく、デスノートの話だ。
今回のドラマ化の話の中で波乱を呼んでいるのが、その方向性である。「ドラマ化にあたり、キャラクター像を変更。映画では天才大学生だった主人公は平凡な大学生に、Lは、甘いお菓子を過剰に食べるなどの奇行を抑え、天才ぶりに焦点を当てる。」と言う発表が、原作ファンを動揺させているのだ。実際に私も、大きく戸惑いを覚える。
原作を、もしくはこれまでのメディアミックス作品をご存知の方ならお分かりだろうが、主人公とLと言う二人の人物はこの作品の大きな柱である。そしてこの二人の特徴があったからこそ、この作品の「物語内容」は成立していたとも言える。どういうことか。
デスノートと言う作品は、名前を書くだけで人を殺すことの出来る死神のノートを「普通の人間ではない、正義感溢れる天才の主人公が手にする」という偶然により成立した物語なのである。これは物語のコンセプトの大きな柱ではなかったか。実際物語の中でも、死神のリュークによって「今までデスノートを手にした人間を沢山見ていたが、お前のような使い方をした奴は初めてだ」と述べられている。その部分を改変する必要が、なぜあったのか?
Lのキャラクターについても、「甘いお菓子を過剰に食べるなどの奇行を抑え」とある。しかし、彼のその奇行は天才の表現の一つであったばかりか、主人公との明確な対比構造を演出するための重要なファクターであったと私は考えている。主人公は品行方正で誰もが認める天才だが、正体は殺人鬼。Lの方は見た目や行動は社会不適合者であるが、その殺人鬼を追う天才。天才と言う一点を除いてあらゆる点で対照的な二人が、デスノートと言うアイテムを軸として頭脳戦を繰り広げる。上手い!としか言いようがない。実に明確で、美しい作品構造だと私は思っていた。
その点に手を加えることに、意味があるとは思えない。
何故そのような改変を行うのか、その真意は定かではない。だが私の主観だけでそれについて述べさせてもらうならば、それはやはり作り手の自己顕示欲なのかな、と思う。
先述したように、メディアミックスに当たって物語を改変するという行為は、それを担う作り手の最大の腕の見せ所になるはずだ。その改変によって作品がより高い評価を受ければ、それはそのまま自分の手柄になる。加えてそのような改変は、原作と言う枠の中で行わなければならない創作活動の中に残された貴重な自己表現の場でもあるのだ。自分のやりたい、表現したい事があるのならば、その範囲の中でやるしかない。この事実はしばしば、メディアミックスを行う作り手を暴走に導いてしまうのではないか?と私は考える。
更に今回のメディアミックスにおいては、テレビドラマと言う形態の特異性も影響したのではないだろうか。テレビドラマは毎回の視聴率が露骨に分かってしまう、そして連続して視聴してくれる視聴者の獲得を至上命題とする以上はそれだけ多くの視聴者に共感を得てもらう必要がある。そのためにも「天才大学生」と言う主人公像は邪魔だと判断された可能性がある。
この共感と言う要素は、非常に大事だ。近年大ヒットしたことが記憶に新しい半沢直樹のヒットの要因の一つとしてしきりに語られていたことも、この主人公への共感だと言われている。主人公の半沢直樹は確かに有能ではあるが、常に会社の中で不遇な立場に立たされている。会社の構造的理不尽の被害者として、辛い役回りを引き受け続ける。現代社会に不満を抱える視聴者にとって、これ以上に共感できる主人公はいない。そして、その逆境を跳ね除けて最後には「倍返し」を成し遂げる。理不尽に対してNOを叩きつける彼の姿は、彼に共感していた視聴者に大きなカタルシスを与える。そうして、半沢直樹は大ヒットしたと言われている。
この前提を考えると、デスノートの主人公のような「天才」は共感するに当たって少々ハードルが高いかもしれない、と言う考え方も否定は出来ないのだ。彼が繰り広げる様々な頭脳戦は確かに魅力的だが、多くの視聴者が常に他人事として見てしまうことは間違いない。自分と彼を重ねて見る人というのは、恐らく非常に少ないはずだ。そう言う現実離れした主人公たちが頭脳戦を繰り広げる点が作品の魅力であったと私は思うが、今回のメディアミックスにおいてはそうではなく、主人公の「人間的側面」に焦点を当てて「名前を書くだけで人を殺せる」と言うノートを拾った一人の青年の心理描写に注力し、それに共感してもらうことで視聴者の心を掴もうという戦略を立てていると考えれば、この改変に一応筋は通るのである。賛同できるかは別として……
もう一人の天才がいないとすれば、それと対比する意味でのLの社会不適合性と言うのは不要となる。主人公とLの対比は「凡庸」と「天才」で成り立ってしまう。
恐らく主人公は、凡庸ながら人間性が豊かであり、しかしデスノートを使って大きな目的の下で殺人鬼になるということである種矛盾した性質を見せる。そしてその中で彼が苦悩するという人間ドラマを描きながら、Lと戦わせる。Lはそれとは対照的に正義の下に彼を追い詰める天才であるが、どこか人間性を感じさせない冷酷な側面を持っている、と言う対比構造が描かれるのだろうと予想できる。
共感できる殺人鬼と、共感できない正義の天才、その二者のどちらに肩入れすれば良いのだろうか……そう言う構造で視聴者を引き込もうというのだろう。
そのような意図を感じた上で、私はその考えにNOと言いたい。これは本当に、私の趣味嗜好の世界だと思うが、私はメディアミックスにおいて物語内容にまで大きく手を加えるということが好きではない。それをしてしまうことは、原作がその作品であった必然性まで薄弱にさせてしまう気がするのだ。ただでさえ物語言説の価値を喪失し、再構成されたメディアミックスである。物語内容の価値を固持しなかったとしたら、それはもうオリジナルで良いのではないか?そう言う思いが拭えない。
それと同時に、そのような多大な改変が非常にリスキーであると言うことも、客観的な事実としてあるとは思う。非常に多くの要素によって構成されるのが作品だ。その中で、各々の要素は互いに微妙なバランスを以って作品全体を支えている。大ヒットするほどの成功した作品と言うのは、まさに神業的なバランス感覚であらゆる要素が考え込まれ、作りこまれているのだと私は信じている。一種の作者崇拝なのかもしれない。そう言う考え方の下では、改変は全てリスクの方が大きいのだ。絶妙なバランスでかみ合っていた歯車が一つ取り替えられることで、均衡を崩した作品全体が倒壊してしまうのではないか……そう言うイメージが拭えない。
私は私自身が作品を作り、世界に送り出していくことを志向している。そして将来、上手くいけばプロの作家として、物語の作り手として世に出たいという夢も持っている。
そうするとおこがましいながら、自分の作品がメディアミックスの対象になったらどうしよう……なんて夢物語も描いてみたくなるのである。
その時に私はどうするのだろうか?おそらく、断ることはないだろう。だが……
難しいことは分からない。業界の事情も、空気も、本音も、全く分からない。だが出来ることならば、自分の作った作品を、その作品のあり方自体を、深く愛して下さる方の手でメディアミックスして欲しいななどと考えてみるのだ。
そう言う人なら多分、作り変えても私の姿を、思いを、作品の中にしっかり残してくれそうな気がするから。
私の予想を裏切って、デスノートのドラマが非常に面白いものになることを願います。