第一話:おにぎりは梅干しに限る
暑かった夏もようやく終わりに近づきつつあるようだ。
水上列車の開いている窓から、水を渡る風が涼やかな冷気を運んで来る。彼女は思わずそれに眼を細めた。
壊れてしまった時計と包みを姉の元に持っていって欲しいと自分の女主人に神楽月家の使用人である彼女、有が言われたのは今朝の事だった。
「これを届けて来て欲しいの」
「かしこまりました。お姉様のお家は確か、瓦紺街ですよね」
「ええ。最近便りもないし心配だから」
様子もついでに見て来て欲しい、いくら遅くなっても大丈夫よと言われ、有は水上列車に乗り、服飾関係の職人が多く住む瓦紺街_____その名の由縁は文字通り屋根瓦が皆、紺色だからである_____にやって来たのだった。駅で降り、改札を出ると有が普段住む町とは違った町並みが広がっていた。相変わらず賑やかな町だ、と有は思った。真ん中には道路代わりに大きな水路が流れ、その水路を挟む様にして白壁に紺色の屋根瓦を持つ細長い建物がいくつも連なって立っている。水路に沿って付いている細い道には食べ物を売る屋台や露店が並び、それらの間を縫う様にして様々な年齢や身分の人々が行き交う。建物には所々、纏わり付く様にして赤いアサガオに似た花がいくつも花を咲かせていた。
有も細い道を人や屋台にぶつからないようにしながら気をつけて進んだ。いくつも建物がある中で一つ、ショーウィンドーの前に人々が足を止め、うっとりして中を見てから立ち去っていく店がある。何が飾ってあるのだろう、と有は思い切って近づき、覗き込んだ。
ショーウィンドーの中にはそれはそれは見事なドレスが飾られていた。目が覚める様な鮮やかな青の絹地を惜しげも無く使い、純白のレースの豪華さも合わさってまるで南国の海を取り出して仕立てたかの様に見える。生地の良さもあるだろうが仕立て屋の腕もいいのだろう。これを着たら女性なら誰もがお姫様になれそうな、そんな素敵なドレスだった。
「素敵…」
有も思わずそう呟いて、そのドレスをうっとりと見つめた。一体どれくらいする物なのだろう。値段はどこにも書いていなかった。店のドアには「準備中」と書かれた札が下がっている。
一つ、ため息をついてから有はその店の一軒隣にある建物に歩いていった。ここが彼女の女主人の姉の家である。色彩豊かなステンドグラスを嵌め込んだ窓の付いている観音開きのドアを開けると、部屋の真ん中に置かれた大きなテーブルに向かい合って、この暑いのにベストにワイシャツを着た禿頭の大男とすらりとした細身の女性が深刻そうに話し合っていた。声をかけづらい雰囲気だったので、有は部屋の左側に置いてある作業台の上で、宝飾品に加工されるのを待っている裸石や銀線などを見て時間を潰した。
やがて、ぼぉんと音がして柱時計が十二時を打つ。その音にはっとしたかの様に大男と女性が立ち上がった。
「あらやだ、もうこんな時間なの?すっかり話し込んじゃったわ」
「そうだな。あ、有。いらっしゃい。待たせてごめんね」
有は包みを細身の女性_______女主人の姉、薫に渡す。薫は包みをテーブルの上に置いて無造作に開けた。中身は竹の籠に入ったお握りだった。
「美味しそうだなあ。食べてかないか?」
「遠慮しとくわ、減量中なのよ」
大男はそう言って出て行こうとしたが、有の方に向き直り「お嬢ちゃん、誰か結婚しそうな人を知らないかしら」と真剣な顔で聞いた。
「ちょっと、春洋・・・!」
「だってどこからか縁が舞い込んでくるかわからないじゃないの」
彼はそう言って有を真剣な顔で見つめた。有が「ごめんなさい、知りません」と返すと、彼は「そう、残念ね」と肩を落として立ち去っていった。
「今の方はどなたですか?」
「一軒隣に見事な青色のドレスがショーウィンドウに飾られてる店あるだろ。見た?」
「見ました」
「あいつ、あそこの主人」
「じゃああのドレスは、彼が製作した物なんですか?」
「そうだよ。ところで有、麦湯がやかんに冷えてるから注いでくれないかな」
部屋の奥にある、申し訳程度についている台所に行くと金属製のたらいの中で氷水と一緒にやかんがぷかぷか浮いていた。氷は氷屋が売っている大きな塊を買い求め、ハンマーで薫が適当に砕いたのだろう。形が溶けかけているとは言え、歪だった。
戸棚からふちが欠けた湯のみを出し、注いで持っていくと薫は既にお握りを口に運んでいる。麦湯を渡すと薫はぐっと一気飲みした。
「ん。美味いよこれ。有も食べなよ」
「ありがとうございます、いただきます」
中身は梅干しだった。この暑さで傷んでしまわない様にという神楽月家の料理人の配慮によるものだろう。まだやっと三十を越えたばかりの若々しい彼は、皆口には出さないが薫に密かに懸想をしている事を誰もが知っていた。有はスチールと木で構成された無骨な椅子に腰掛け、お握りを頬張りながら何気なくテーブルの上を眺めた。
テーブルの上にはビロード張りのネックレススタンドが1台置いてあり、そこには豪華なネックレスが一つ、飾られていた。
朝露を集めた様なダイヤモンドの雫がいくつも繊細なきらめきを発しながら揺れている。その真ん中に一つ、六枚の花びらを持つ星に似たサファイアの花が、ダイヤモンドが発する豪華だが眼を刺す様な輝きを吸収してひっそりと静まり返る様にして咲いていた。
「美しいだろう」
その豪華な静謐とも言うべきあまりの美しさに声が出なくなり、ただ口を開けて呆然としているばかりの彼女に薫は声をかけた。
「その真ん中の花は庭石菖の花をモチーフにしてるんだ。私が一番好きな花。今日、晴れ舞台のはずだったんだ」
「何か・・・あったんですか」
「あいつが作ったあのドレスとセットで、結婚式で使われるはずだった」
そう言った途端に薫の顔は苦々しげに歪んだ。ネックレススタンドの隣に無造作に置いてあったこちらもビロードの小箱をぱちんと開き、中身を有に見せる。中に入っていたのはイヤリングだ。こちらもサファイアの花がそれぞれ一輪ずつ付いていて、ダイヤモンドの雫が一つずつぶら下がっていた。
「だった・・・というのは」
「結婚式前日になって花嫁がほかの男と駆け落ちしちゃってね。おかげでこいつは使われる事も無く手元に戻って来て、私は後金の代わりにこいつを抱える羽目になり、あいつはあいつでドレスの処分に悩んでるのさ」
「もしかして富士澤重工のところのご令嬢ですか?」
有は使用人たちのうわさ話から、その事件の事を知っていた。たとえ主人が口を封じても、使用人達の口からひそひそと
さざ波の様に不祥事と言うのは広まっていくものだ。
「そうだ。二回払いで前金は貰ったが、こいつを押し付けられたとなるとな・・・」
「宝石店とかに引き取ってもらえないんですか?」
「今、いい引き取り手を捜してる最中なの。でもやっぱり悔しいんだよ・・・こいつは花嫁の首に飾られ、結婚式を彩り、終わった後は大事に使われていくはずだったんだ。それなのにここに帰って来てしまった」
富士澤重工と言うのは大きな会社だ。大型の機械類を作っている会社で、多脚戦車などの兵器も手がけているらしい。そこの令嬢となると、とても有には想像のつかない様な、何不自由ない暮らしが出来るのだろうなと有は思った。きっと結婚する相手も申し分のない人で、お金持ちなんだろう。そんな恵まれた境遇を捨てる決意をする様な何かが有ったと言う事だろうか。幼い頃に両親を亡くし、孤児として生きて来た有には想像もつかないが。
「まあ終わった事だし、ガタガタ言っても仕方が無いね。最近そっちの方では何かあった?」
「特に何も。旦那様が新しい音楽機関をご購入されるとかで、奥様と喧嘩に」
「あそこの旦那は相変わらず音楽好きか。まあ、仕方ないかもね」
神楽月家の現当主、十二代目神楽月神楽は病気で現在ほぼ寝たきりの状況にあり、ベッドからほとんど動く事がない。唯一の楽しみがラジオや音楽機関から流れるクラシックやジャズなのだが、その音楽機関にかかるかかりが半端ないんだと主人がぼやいていたのを有は聞いている。ほかにも新しく陸軍に導入される多脚戦車の話や、それについて薫の友人の多脚戦車乗りが言っていた事なども話題に出て、有はその日を楽しくおしゃべりに費やした。
三日後、富士澤重工社長令嬢の遺体が川に浮かんでいるのが見つかった。