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湖の話

作者: らてーる

湖の話と銘打っておきながらほぼ終盤にしか出ないというこの体たらく

 男は前日に買っておいたコンビニのおにぎりを一つ頬張った。その日の朝食は質素であった。

 埃を被った壁時計が12時を差している。男は色褪せた畳を蹴って立ち上がると、ちっぽけな朝食の残骸をゴミ箱へ捨てた。ゴミ箱の中がおにぎりの包装フィルムでいっぱいになった。帰る予定の無い部屋を汚さないように気遣うのは、男の性格か、身辺整理をしておきたかったのか。ともかく男は残りのおにぎりとペットボトルのお茶をブカブカのリュックサックに入れ、使い古された水色のタオルを手に取ると、律儀に部屋を施錠して山へと向かったのだった。

 しつこく目に入る汗を手で拭いながら郊外を抜けると、途端に風景は緑色に変わった。(ぶな)(しな)の木、水楢(みずなら)の木々が、空の青と競争するように波型に空間を押しあい、山を縁取っている。男が歩きながら視線を下に戻すと、踏み固められた砂利の道の先に、山への入り口があった。濃い緑色が二つに分かれた中に肌色の道が、遥か奥まで続いている。男は少しの間立ち止まると、大きく息を吐いて、口を開けた木々の中へと足を踏み入れた。

 男は薄暗い木々の間を歩く。初夏の風が山独特の濃い土の匂いと共に冷たい空気を運んでくる。男は少し歩調を早め、考えに耽りながら、徐々にきつくなる勾配を登っていった。




 どうでもいい人生だった。生まれた時から、俺は無感動だったんだ。

 俺は生まれてから一度も、何かに熱中した事がない。幼少期の積み木遊びも、同級生との会話も、TVやゲーム、ギャンブルも何もかも、俺を楽しませてくれる事は無かった。無感動はいつも俺の背後に付いて回った。無感動への漠然とした不安。それだけが俺の人生を染め上げていた。

 きっとこれだけなら俺はただの厭世的な人間という評価を受けるだろう。格好つけて斜に構えた嫌みでありきたりな人間だと思われるかも知れない。だが、それだけで終わらないだけの理由があった。俺には悲しみの感情も無いのだ。

 小学校に通っていたある時、図画工作の時間で版画を制作する授業があった。各々が好きな形に彫刻刀で掘り込み、画用紙にぺたんと版画を刷る。皆思い思いの絵を頭に描き、仲の良い同士で見せ合い、茶化しあって教師にげんこつを喰らいながら彫刻に興じていた。

 俺は一人だった。一人で黙々と版木に彫刻刀を突き立てた。クラスメイトと話すのは苦痛ではなかった。ただ、必要に駆られなかったから話さなかった。

 彫っていたのは『ごん狐』のラストシーン、兵十が自ら仕留めたごんの前で茫然と立ち尽くす場面だ。選んだ理由は国語の授業で扱っていたから。幼い時分だったが、最低限命令や求められたことをこなすだけの処世術は身に付けていた。それは不安とセットになって着いてきたが…。


 ふと、すぐ傍の木から甲高い鳥の鳴き声が聞こえて我に返った。見ると、太い木の枝の先に不如帰(ほととぎす)が留まり、笛のような高い音色で激しく求愛の声を上げている。何故だか俺は、しばらくの間そこに立ち止まり、やがて未だ見ぬ恋人を求めて飛び立っていった不如帰の声を五感で感じていた。

 気付くと顔からは汗が流れ出していて、歩くと顎から雨漏りのように滴りTシャツに染みを作っていた。足も気だるい。何処かに休める場所は無いかと、気力を振り絞り山道を登って数分、道の端に置かれた岩を見付けた。きっと多くの登山客がここで一息つき、疲れた体を休めていったのだろう。大きさも置かれたその位置も、おあつらえ向きのように見えた。

 俺はすぐさま岩に飛び付くと、ひんやりとした岩の上でほっと息を漏らした。太陽は既に峠を越え、やや西へと傾いている。俺は昼食を取ることにした。

 お茶を半分ほど一気に流し込み、おにぎりをよく噛んで食べた。

 何となしに歯型のついた半分のおにぎりを見ていると、左手の傷が目に入った。あの時の傷だ。冷たい石の上、俺は再びあの時の意識へ戻っていった。


 工作室に埃が舞う。先ほど教師に叱られた男子二人が今度は追いかけっこを始めていた。怪我への配慮から烈火の如く怒声を張り上げる教師も、夢中になった子供の前では、悪戯心を盛り上げる障害でしか無かった。

 俺は版木を削っていた。横たわるごんの背中を彫り進め、首をくり抜く。

「ほら、早く取ってみろよ。ははははは!」

 二人の声が近付くのを聞きながら、耳の輪郭に刀を差しこんだ。

「お前いい加減にしろよ!返せっ!」

 繊維の流れに反して縦に彫るため、横向きに彫るのと同じようにはいかない。俺は一層刀を持つ手に力を込める。

「おっとあぶねえ」

 刀が滑り出すのと、追手が伸ばした手をよけようと無造作に手を動かしたのは同時だっただろうか。丁度動き出した右手に、後ろから版木が勢いよく当たった。

 俺は、親指の根元に深々と突き刺さった刀を、ただ眺めていた。確かに痛みはあった。しかしそれは辛くもなく、悲しくもなかった。刺さった彫刻刀の柄を持ち、ぐり、と回してみる。途端に血がドクドクと流れ出し、周囲からざわめきが起こった。痛みは増した、が、それだけだった。

 顔を上げると、真っ青な顔をした、俺の右手に版木を当てた彼と目が合った。彼はそこに突っ立ったまま、ずっと口をパクパクと何か動かしていた。俺は教師に保健室へ連れられるまで、彼の口を見つめていた。




 男はただ歩いた。岩に腰かけて引いた汗は再び滝のように流れ出し、何度もタオルで顔を拭う。足は鉛のように重く、時折地面を靴底が擦った。静かな森の中で、男の激しい息遣いだけが響いていた。男の耳には自分の呼吸音と、あの時聞いた不如帰の声だけがあった。恋人を求めて夢中になって泣き叫ぶ、孤独な渡り鳥……。

 日が落ちかけ、辺りがすっかり薄暗くなった頃、男は匂いの変化に気付いた。濃い緑の匂いに、微かに水気を含んだ湿っぽい土の匂いが混じり始めていた。男はそれに気付いた瞬間、はっと立ち止まると、すぐさま湖への道を急いだ。殆ど動かない足を、引き摺るように地面にこすりつける。男の耳に、風を切る音と自らの心臓の鼓動が混じる。最早汗は拭わなかった。

 道の少し上に、開けた空間が見えた。あれが、湖だ。そう確信すると、男は思わず走りだしていた。男は疲れを忘れ、無心になった。

 それまでの足取りが嘘のように、山道を一心不乱に駆け上り、うっと小さく声を上げて立ち止まる。男は、声にならない声を上げた。

 そこは、美しかった。視界全てに広がる湖は、波一つなく穏やかな顔を横たえ、まさに地平に沈もうとする夕陽が濃いオレンジの光を放っている。それは水面を、群立する木々を、濃紺色の空を、この世の全てを神々しい朱色に染め上げていた。

 男は号泣した。目から零れ落ちたオレンジ色の涙は、ひたすら足元に染みを作った。口をパクパクと開け、何かを言おうと息を吐きだしたが、声は出なかった。男には、この光景を声で汚すべきではないからだと思えた。やがて夕日が沈み、黒が世界を支配するまで、男はただこの光景を見逃すまいと目を見開き、涙を流していた。

 夜になって数分後、男はようやく湖畔へと歩きだした。水のすぐ際まで近寄り、靴を脱いできれいに揃え、置いた。リュックサックを横へ降ろし、中から紙を取り出す。「遺書」と書かれたそれをゆっくりと胸まで持ち上げ、広げる。どんなことを書いたか、どのように書いたか、男にはもうどうでもよかった。少しの間の後、黒い水面に紙吹雪が散った。

 男は靴下を脱いでリュックに入れ、靴をそのままに来た道を戻る。疲れは無かった。男の胸にはただ喜びがあった。音も、空気も、匂いも、感じる全てが喜びだった。

 男は山を降りると、コンビニでおにぎりを一つと、水を買った。その日の夕食は豪勢であった。

 

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