ヒト科ヒト属、後輩。
後輩が、職場を辞めた。
知らないうちに、気付いたら辞めていた。
知ったのは帰り際、トイレで後輩の部署のスタッフが小声でしていた会話を耳にしたからだ、
彼女が辞めたとおぼしき日から、半月がたっていた。
「……江木さん、思ったより長く持たなかったね」
「まぁーあのなりだし。若い子ってわかんないね、ちょっと嫌なことあったらすぐに辞めちゃうんだからさ」
「ホント最近の子って駄目だよね。私らが若い頃は…」
音姫を流す余裕もなく、思わず手で両耳をふさいだ。
聞きたくない。
それは私が昔、浴びせられていたであろう会話だから。
それは私が昔、逃げて逃げて逃げていた頃、正面から聞いていたであろう言葉だから。
後輩の部署の方々の声が小さくなったのを確認してから、こっそりトイレを出た。
江木ちゃんは、私がこの職場に入って最初、半年間いた部署の、後輩だった。
私が部署を変わるまで、ほんの3ヶ月程度だったが、私より年下で、私もわかる範囲でのアドバイスや指導らしきものをした、初めてのまともな後輩だった。
根暗でオタクっぽい私とはタイプが正反対の、少しばかりちゃらちゃらした、
見た目も中身も今どきの若いコって感じで、
だけど何事にも一生懸命で、何を言われても、耐えて耐えて謝って、それからきっちりやり遂げる後輩だった。
きっと彼女は彼女なりに、若いなりにいろいろと悩むところがあって、
両親くらい年齢が違う上司からの、大人の姿をした子供に理不尽なことばかり言われたり、
他の職場にいる同級生との、お給料の大きすぎるギャップに劣等感を抱いたり、
いくら耐えて耐えて耐える彼女でも、耐えすぎてパンクしてしまったのかもしれなかったり、
そんな彼女に、私は先輩として何かしてきた?
結局彼女と働いたのはほんの数ヶ月だけど、彼女の愚痴や悩みを聞けていた?
私は、気分だけ先輩になったつもりで、実際にはとっつきにくいただの厄介な人だったんじゃないの?
自分は辞める側の後輩、や、辞めていく先輩を見送る後輩、という立場しか経験したことがなかったので、
社会人三年目にして、今さらながら初体験だ。
そうか、こんなふうになんともいえない気分になるのか。
涙で流すことができるなら楽なのに、泣くほどには辛くない。
胃もたれというほど重たくはなく、喉につっかえるほど苦しいわけではなく、
だけど消化器官のどこかに、小さいけれどしぶといなにかが残っていて、
排出するまでにちょっと時間がかかりそうな、不消化な感じ。
自分のロッカーの鍵を開ける前に、150度向きを変える。
斜め後ろのロッカーは、やっぱり名前が外されていた。
着替えて、職場を出て、かばんから携帯電話を引っぱり出す。
彼女のことが気になったが、メールアドレスは知らない。
メールをするとは思っていなかったから。
今さらになって、建て前としてでもいいからアドレス交換しておけばよかったと、少しだけ後悔した。
連絡網の次の番号だったから電話番号だけは入れていたけど、そんなレベルのものは入っているだけで役に立たない、知人以下のアドレスだ。
あ、そうか、電話番号は入っているのか。
携帯電話のアドレス帳を開いたが、発信画面で手を止めた。
いまさら私が電話して何になるの。
辞めたのを知らないんじゃなくて、知りたくなかっただけなんじゃないの。
部署が違うことを加味しても、最近彼女の姿を見ていなかった、
彼女の部署の雰囲気がなんとなく変わった、
いつの間にかロッカーの名前も、タイムカードも消えていた、
そんなこと、視界の片隅では気付いていたはずなのに、誰が辞めたんだろう、最近どんどんスタッフ辞めていくなあ、この職場大丈夫かなあ、なんて自嘲気味に笑ってごまかして、
彼女が辞めたという発想まで至らなかった、
そんな私に、連絡する資格なんてどこにあるの。
自分が今の部署で忙しすぎてバタバタしすぎて気を遣えなかった、なんて言い訳にすぎない。
本当に人のことを気にする人は、気を遣うということを無意識にやってのける、
それこそ「おしごと」とか「先輩としてやるべきこと」なんて思わず。
自分のことを自分でお守りするのに精一杯、なんてただの言い訳だ。
今の私の部署で起きていたいざこざは、知らないうちに他の部署にも伝染していて、
知ってか知らずか、後輩にも負担をかけていたのだ。
きっとどこかで知っていて、でも知らないふりをしていたんだ。
情けなくて情けなくて、情けなすぎて涙が出そうになって、
だけどこの涙は、エゴの塊で、
鈍感で、きれいごとを望んで他を認めない、自分を憐れんでいるだけだと気付いて、
瞳をドライアイ防止程度に潤しただけで、流れることはなかった。
携帯を開いたまましばらく呆然としていた気がする。
気付いたら、涙のかわりに、着信音が流れていた。
携帯の画面を見ると、後輩からだった。
深呼吸してから、通話ボタンを押した。
「…もしもし。江木ちゃん?」
「先輩…」
江木ちゃんが鼻をすする音がする。
「先輩、あたし、辞めちゃいました、仕事」
高くてかわいらしくて、少しだけ甘えた声。
こんな声で泣かれたら、世の若い男性は思わず抱きしめてしまうんじゃないだろうか。
抱きしめるつもりはないけれど、心配はする。
だって、後輩だもの。
私が自分をかまっているうちに傷ついていた、後輩だもの。
「江木ちゃん…お疲れ様でした」
後輩は泣きながら、ぽつりぽつりと言葉を出す。
「ちょっと、その、いろいろ…あの、先輩に挨拶もせず、ごめんなさい。
いっぱい、いっぱい、お世話に、お世話になったのに」
「そんなことないよ、わざわざ連絡してくれてありがとう」
後輩は立派だと思った。
律儀で、前向きだ。
私ができない、去った場所の人への挨拶を、やってのけるんだから。
辞めた理由とか、辛かったこととか、そういったつまらないことを深く聞くつもりはない。
ただ、連絡をくれただけで十分だ。
後輩はぽつぽつと近況を話す。
当たり障りのない程度に、ぽつぽつと話す。
しばらくすると落ち着いたようで、すすり泣きもおさまってきた。
「……でもね先輩、あたし大丈夫なんです、
こないだ、高校が同じだった友達と話をしてたら、その子が自分の職場に来ないかって。
もう面接も受けて、来月から働くんですよ。
大丈夫です、友達は職場で二年目だから、そこの職場の酸いも甘いもそれなりにわかってるし、
わからないことがあったらなんでも聞いてって。
だからあたし、もう一回、がんばってみようかなって、思うんです」
急に、私と重なった。
おしゃれにも遊びにも明るくて元気いっぱいの江木ちゃんと、弱くて暗くて家に閉じこもりがちな私が、
おなじ、ヒト科ヒト属の人間に感じられた。
「江木ちゃん、あのね、約束してほしいことがあるんだ」
「…はい」
「そのお友達とのこと、大切にして。
友達のほうが先輩だから、劣等感を感じることもあるだろうし、
江木ちゃんもうちの職場でそれなりの経験を積んでるから、その子よりもできることがあって、
友達に対してイライラすることもあるかもしれない。
どれだけ仲良しでも、友達とそりが合わなくて嫌になることもあるかもだし、
そうでなくても仕事で辛いことがあって、また辞めたくなるかもしれない。
そしたら、どうしようもなくなる前に、壊れてしまう前に、
また辞めてもいい、辞めてもいいよ、
だけど、だけどね、約束してほしいんだ。
その友達と、正面から向き合って、話をしてほしいんだ。
わかり合えないところなんてたくさんたくさんあるだろうし、全部が全部、江木ちゃんの想いを伝えられないこともあると思う。
それでも、言いたいことがあったら言うんだよ。
言える範囲でいいから、絶対に絶対に、言うんだよ。
少なくとも今、江木ちゃんと友達は、仲がいいんだから、
逃げないで、本気で向き合うんだよ。
ケンカしてもなんでもいいから、言うんだよ。
いい?」
江木ちゃんは少し黙って、それから、
「…はい。
先輩、あたし、がんばります。
先輩みたいに、あたし、成長しますから」
そう言って、笑った。
江木ちゃんのこと応援してるからね、
辛くてもなんでもいいからいつでも連絡ちょうだいね、また会おうね、
と常套句を残して、私は電話を切った。
我ながら、ずいぶんと好き勝手なお願いをしてしまったものだ。
少々反省しつつ電話を切ると、職場の同期から着信が入っていた。
新卒で入った職場になじめず、体調を崩し、毎日泣いて泣いて、泣いた末に半年で職場を辞めた私に、
私と一緒の職場においでよと声をかけてくれた、
大切な大切な、大学の頃からの友人。
私より二ヶ月早く最初の職場を辞め、私より一ヶ月早く今の職場に入った、
私より七ヶ月多く、今の部署で奮闘していた、
今、一緒に戦っている、私の相棒。
イライラすることも、甘えて八つ当たりすることも、
彼女になんてわかりっこないだろう、と思って、無言のまま不機嫌になることも、
彼女のことぜんぶ嫌になることもたくさんたくさんあるけれど、
本気で私と向き合ってくれて、ケンカもしてバカ騒ぎもして冗談も言って、
辛いときも忙しいときも不安定なときも、支えあう、私の相棒。
着信履歴から電話をかけ直す。
常に3回コールで電話をとる仕事の早さは、学生時代に山ほど接客バイトを掛け持ちしていただけある。
「もしもし?あのさあ今大丈夫?ちょっと相談したいんだけどさ、明日の会議なんだけど…」
彼女のまくしたてるマシンガントークが、今日はどこか心地いい。