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水だ。水が喉を流れ落ちてくる。
僅かに粘り、塩味のある錆臭い水。
み、ず。みず。水。水。水!
「……っ!」
意識を取り戻したシュヴァインは喉に流れ込むその水が喉から全身に流れ込んで来るのが分かった。また、その水をアルトゥールが必死で口移しでシュヴァインに与えていることも。ゆっくりと震える腕を上げて、その頬に触れる。アルトゥールが目を見開き、喜びに瞳を潤ませる。
魔物が涙ぐむ。
そんな嘘のような光景を何か尊いものを見たようにシュヴァインは眺めた。
「シュヴァイン!目が覚めたか!」
「アル……トゥー……ル」
アルトゥールの真っ青な唇が真っ赤に濡れていた。血だ。水ではなかった。確かにこの鉄のような臭いと味は、血だ。
(どこで手に入れた……?)
一瞬そんな疑問が掠めたような気もしたが、そんなことはどうでも良い。携帯食を入れていた革袋に血は満たされているようだった。その口を傾けてそっとアルトゥールがシュヴァインへ血を与える。ほんの少しずつ、シュヴァインはその血を啜った。最後には喉を鳴らして全て飲み干してしまった。それだけしか出来ずに、シュヴァインは気を失った。
数刻後、シュヴァインは肉の焼ける良い香りで目を覚ました。枕元にはまた血がたっぷりと入った革袋が置かれている。喉がまた酷く乾いていた。
「アル……トゥール」
血が欲しくて声を出すと自分の声ではないような老いた声が聞こえた。声帯までが一気に年を取ったようだった。アルトゥールはこちらに背を向けて焚火の前で大きな獣の脚のようなものを焼いていた。綺麗に皮を剝がされた肉が焼ける端から薄く切り取って、足元の石の上に置いていく。
振り返ったアルトゥールの目元が濡れていたように見えたのは錯覚だったろうか。
「シュヴァイン!良かった……今度こそ目が覚めたか」
「ああ……お前のおかげだ」
背を起こしてくれとシュヴァインは頼んだ。アルトゥールは片腕ですっかり薄くなってしまったシュヴァインの肩を抱き身体を起こした。口元へ皮袋を運ぶ。緩く首を振り自分で飲むと言いかけたシュヴァインだったが、アルトゥールの真剣な眼差しに黙って口を開いた。一息つくと、アルトゥールはシュヴァインを再度横たわらせてすぐに焼いた肉を口元へ持ってきた。シュヴァインは改めて口の中に広がる血の味と香ばしい匂いを放つ焼肉について聞かずにはおれなかった。
「私でも食べられる獣がいたのか……助かった」
口を薄く開くと、カリカリにローストされた肉がその隙間に押し込まれる。じゅわりと油脂が甘く舌の上で蕩ける。シュヴァインは肉を噛み締めながら生きている実感が湧き上がるのを感じた。その肉は今までに食べたことのない肉だった。引き締まった身は鹿に似ているが、それよりもやや脂身が多い。
「ああ、俺たちが家畜として飼っている動物だ。この森で野生化した群れをたまたま見つけた」
「そうか……美味いものだな、魔物の食い物も」
「見た目があまりにグロテスクでな。残りは捌いて、近くの洞穴に埋めてきた。足りなくなったらまた取りに行く」
「それよりも乾燥させたら良い。その洞穴が風通しが良いなら……いや、待て。洞穴など近くにはなかった筈だ。それはお前が一番よく分かっている筈だ」
アルトゥールの何気ない言葉にシュヴァインは引っ掛かった。確かに、お互いが離れ離れにならない範囲で隅々まで探索したのだ。水や食料を求めて。近くに洞穴などなかった。
アルトゥールが少し目を逸らしてから仕方なくといった風情でシュヴァインを見つめ返した。
「禁忌を犯したんだ。俺の、一部を……お前に託して遠出した。俺の一部と俺自身は細い糸のようなもので繋がれていて、けっして離れることはない。それを命綱に遠くまで獣を狩りに出た。残念ながら森の外には出れないが……」
「そんなことを?お前の一部というのは、もしやこれのことか?」
シュヴァインは手に固く握り込んでいた小さく薄い石のようなものをそっとアルトゥールの前に出した。それは改めてよく見ると魚かなにかの鱗に見えた。サイズは親指の爪ほどの大きさだ。
「そうだ。それは俺の耳の後ろの鱗だ。俺の……心臓に繋がっている。もしその鱗を壊されたら俺の心臓も握り潰されてしまう。だから、本当は「人間」に預けてはいけないんだ」
儚い笑みを見せてアルトゥールは首を傾げた。しなやかな筋肉に覆われた腕がシュヴァインへと伸びてくる。上体へ覆い被さるようにして、今度こそ涙声でアルトゥールが告げた。
「生きてくれていてよかった。友よ……初めて得た、友よ。生きてくれ」
シュヴァインはどうして良いか分からずにただその告白を聞いた。自分に友などいたろうか。かつても、今も。妻も、恋人も、勿論子供さえ作らずにきた。友と呼べる相手さえ。
自然と涙が湧き上がった。気付けば細くなった腕で精一杯、アルトゥールの背を抱いていた。
乾いた土地には雨が良く染みる。
独り年老いたシュヴァインの身にはアルトゥールの誠実さと真っすぐな眼差しが良く染みた。
二人は種族を越えて友人となった。二人は仮の住まいである現在の場所に本格的な拠点を作ろうと思い始めていた。長期戦を覚悟したためだ。
森の中は奇々怪々だ。数歩と離れてしまえばお互いが森のどこにいるかも分からなくなる。だがそれには前兆があった。シュヴァインが森に入った時に感じたあの何とも言えない違和感だ。それを感じたなら引き返せば良い。
二人は最初の場所から見えた大きな巨木の洞をとりあえずの寝床と決めた。基本は夜、交代で眠るための洞だ。そこから斜めに伸びた木の枝を利用し、引っ掛け棒要領で簡単な屋根を作る。乾いた枝や落ち葉を敷き詰め、マントをそれぞれ引き裂いて丈夫なシーツを作った。簡易の寝所作りだ。まずはそこからだった。
昼間はシュヴァインが身体を養生しながら少しずつ拠点を仕上げる。アルトゥールは森を隅々まで調べて偶に獲物を仕留め、捌いて持ってくる。
交代で眠る夜も、二人はなかなか寝付かなかった。お互いにかなりの読書家だという共通点があったためだ。シュヴァインが夜の月の姫の物語を語れば、アルトゥールが業火の魔女の物語を語る。睡眠は削られて、いつしか二人してほんの数刻寝てしまうこともあった。
それは、シュヴァインが初めて送る、静かな日々であった。




