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「果ての森」は確かに迷いの森だった。
シュヴァインが踏み込んだのは確かに数歩だったはずだ。だが、いくら探しても森への出口は見つからなかった。
シュヴァインはアルトゥールと二人、野営をするしかなかった。自分を欺いた目の前の魔物を葬りたいと思う気持ちはあったが相手も相当の手練れだと分かっている。迂闊に手を出して逆に殺されてはかなわないし、目を離しては危険だから……とシュヴァインはアルトゥールと行動を共にしていた。
「それにしても、魔物は果ての森では迷わないという噂を聞いていたが、違うのか?」
「森には森の理がある。その理に則って道に分け入れば迷わない。だが、今回はあの手負いの竜を追い咄嗟に道を外れてしまった。だから、俺にも正しい道が分からない」
二人で始末した蛇の身を齧りながらアルトゥールは肩を竦める。アルトゥールはシュヴァインにも蛇を勧めたが魔物はアクが強く人間には食えないと知っているシュヴァインは固辞して、自分の携帯食である鹿の干し肉を口にしていた。
妙な気分だった。先ほどまで殺し合っていたはずの魔物軍の一員と、その弾き者とはいえ相当に力の強い者を相手に焚火を囲んで夕食を摂っている。アルトゥールといえばのんきそのものという風情で甲冑もすべて外して、首からつま先まで覆う黒い肌着のような姿で焚火の側に丸くなり寝転んでいた。
「しかし、食い物が無いというのは辛いな。……目の前に素晴らしく美味そうな食事はあるが、食ってしまっては話し相手がいなくなるしなぁ」
「悪食だな。腹が減ればこんなジジイでも喜んで食うとは」
悪態をつくほどにはシュヴァインも気を許していた。先ほどの「俺も同じだ」という告白が引っ掛かっていた。
「何を言ってるんだ。お前は本当に美味そうだぞ」
「……本気か?」
シュヴァインは鼻で笑う。もう五十八だ。平均寿命が七十に満たない人間の中では健康で、肉付きも良いとは思うが自分を獲物と置き換えた時に、老齢へ片脚突っ込んだ身を美味そうだとは到底思えなかった。
「おい、ジジイと言ったか?お前は人間にしては年寄りなのか?」
「いったい何を言っている」
煩い上にしつこい。シュヴァインはアルトゥールを軽く睨んだ。小隊の若者ならば皆が震えあがったであろうが、アルトゥールはその視線をものともせずに、急に身を起こし火を挟んでシュヴァインの向かいに胡坐をかいた。
「俺たち魔物はおそらくお前たち人間と違う方法でものを見ている。俺にはお前が生気に溢れた猛々しい、雄の見本のような肉体を持った人間に見えている。しかも、染まりやすい弱い心も持つ獲物だ」
「最後の付け加えは余計だな。私は残念ながら、人間で言えば初老の域だ。食っても筋張っていて、肉はむやみに厚い上に古い。美味くはないだろうさ」
「そうかなぁ。美味そうだがなぁ」
生のままの蛇の皮を剥ぎその身を食いながら、舌なめずりまでして見せる。その舌が炎に映えて青い切っ先が二股に別れているのをシュヴァインは見た。本体は蛇か竜だろうか。天と地ほども違うが、同種の形をしたものを食う精神が信じられなかった。
「そういう貴様はいくつだ。なんとも尊大な物言いを偶にするが」
「俺か?俺は、そうなぁ……およそで良いならば五百くらいか」
「五、ひゃく……?その成りでか?」
思いもよらぬ年齢にシュヴァインは思わずまじまじと目の前の青年を見つめた。魔物が長寿であるとは知っていたが。知っていたが、目の前の若者が既に五百念を生きたということには疑惑が残った。
「人間は短命な上、成人してから老いるまでが早いらしいな。魔物は、成人するのは三百歳くらいだが、成人してから若い姿のまま長く生きる。老いるのは死の一瞬だな」
「……それが本当なら、何とも羨ましい話だな」
なかなか人間が魔物に敵わないわけだ。その力、その魔法、そして不死に近い寿命と英知があれば増える一方だろう。戦力には困らない筈だ。ふと思い立ち序に問いかけてみる。
「それでか。偶に私を若造扱いするかに上からの物言いをするのは」
巨大な蛇を骨まで食らって、腹を満たしたらしいアルトゥールが不思議そうにこちらを見た。下品な食事を終えた後にもかかわらず、口元を拭ったその顔は一端の貴族のように美しい。
「お前たちは犬や猫を、いや、豚や牛といった家畜たちを人間と同等に扱うか?」
「どういう意味だ?」
「そのままだ。俺たち魔物にとっては人間は愛玩動物か食い物だ。野放しの家畜、というとややこしいか。人間にもいるだろう、ペットや家畜に名前を付けてこの子扱いするのが」
その言葉にシュヴァインの背中から冷たい怒りが湧き上がる。
「……なるほど?貴様は私たち人間と戦争をしながら、家畜どもが煩いなと思っているというわけか」
声の棘に気付かないわけはないだろうに、アルトゥールは悪戯な笑みさえ浮かべてシュヴァインを見返した。
「まぁ、今まではな」
「ほう。今は違うというわけか」
「ああ、俺はお前という人間を知った。こんなに瑞々しさと憎しみを宿した魂は初めて見る。地の底から這い出てきた意味もあろうというものだ」
「ふん。褒めているのか、貶しているのか分からんな」
「勿論、褒めているとも。魔物の視点だがなぁ」
楽し気に笑うアルトゥールの方こそ、貴族の女性に飼われている若い燕だと言われた方がしっくりくる。しかし不思議だった。魔物だというくせにいやに馴れ馴れしく、敵意のかけらも見せないこの青年のまえにいると、シュヴァインは自分までもが若い頃に戻ったかのような錯覚に陥った。気がつけば気を許してこうして談笑などしている始末だ。勿論、アルトゥールの言葉を借りるならば、シュヴァインを小ウサギか何かに見立てているのかもしれないが。
しかし、そんな気楽なやり取りも長くは続かなかった。
森は深く、動かず救援を待つ方が良いというのは二人とも同じ意見だった。特にアルトゥールは森の中へ入る時に特殊な道標をつけてきたから、一族の者がそれを見て必ず自分を探しに来るはずだと語った。その時に、こっそりシュヴァインを逃がすとも。シュヴァインも森に分け入る自分を見た者は多い筈だと返した。何とかして救助の手が伸びるだろうと。
だが、一日経ち、二日経ち、五日を過ぎても救援は双方来なかった。
シュヴァインの携帯食はすぐに底をついた。元々、野営地が目の前にある戦場だ。大量の食料を持ち運ぶ必要はない。そして、何よりも辛いのは水がないことだった。水さえあれば、人間はかなり長い間生きながらえられる。
森は始終じめついているのに、まったく雨は降らなかった。また見える範囲、聞こえる範囲に水源や川、湖がある様子はなかった。
シュヴァインは逆境には強い自信はあったが物理的な資源の枯渇にはどうする術もなかった。一度、どうにかして食えないかと竜や蛇の死骸を口にしたことがあったが、その血も肉もやはりどうしても飲み込めなかった。岩に貼り付く苔や僅かに湿る葉の裏側を舐めるしか水分を得る道はなかった。シュヴァインは見る見るやつれていった。アルトゥールは声をかけ励まし、何か食べれないかと様々な小さな魔物を捕まえてシュヴァインの前に持ってきた。だがどれも、まるで石や砂利のようにシュヴァインの喉を通らなかった。
そして二十四日目。
シュヴァインはとうとう指さえ上げられなくなった。
「──これを持ち、待っていろ」
薄い硬い何かをアルトゥールがシュヴァインに握らせる。頷く体力さえもうシュヴァインには残っていなかった。ただ森の中へ分け入るアルトゥールの背中が視界の端に映っていた。




