1-1 ドリアード領
記憶の中で、あの日の小さな私と、小さな彼がいる。
大丈夫
いつも そばにいるよ
***
少女の手の中で、淡い光が生まれる。
どこまでも続くような、深い深い森の奥。
木々に囲まれた中、ひっそりとある広場に、暖かな日差しがそっと差し込んでいた。
その中に一本だけ、銀色の葉を携えた大樹があり、葉同士がこすれてはシャラシャラと高い音を奏でた。
大樹の前には、ひとりの少女がいる。手を組み合わせ、祈る。すると、暖かな色をした光が彼女のまわりを舞い、彼女の白いワンピースをふわりと揺らした。
「ハマドリュアスの姉妹よ、我らを守り賜え――」
少女がそう唱えると、ポウ……と光が一層強くなった。
少女はうっすらと目を開けると、それからそっと、大樹の幹に触れた。すると、少女の手から光が大樹へと移り、上へと上っていく。枝には花が一輪だけ咲いており、その花が眩く光った。
魔力を、大樹――精霊の大樹へと送ったのだ。
それと同時に――少女の髪の毛の花が、ぽぽん! と数を増やして開花した。
少女の若草色の髪からは、ペンタスやキキョウのような形の、ピンク色の花がいくつも咲いていた。――少女は、ドリアードだった。
風が吹いて、長い髪と花がいっしょにふわりと揺れた。
コツ、じゃり、じゃり……と杖の音と足音をさせて、ひとりの老婆が近付いてきた。
ローブから覗く老婆の髪は松葉色で、やはり花を咲かせていた。
「よし、アイシャや。今日のお祈りもご苦労。精霊の大樹もずいぶんと力が溜まったようじゃ。これなら、一週間後の精霊祭の儀式も、無事に迎えられるじゃろうて――」
「お婆様っ!」
少女――アイシャ・クラネリアスの顔が、ぱっと明るくなる。厳かな空気から一転、精霊の大樹の前の祭壇を、軽快なジャンプで飛び降りた。
「もう今日は終わりよね! じゃ、いってきまーす!」
「待て! 儀式の練習は!」
「覚えてるって! だいじょーぶ!」
アイシャは、ぱちんとウインクをすると、ひらりと手を振り、走り出す。
後には、祭壇の前で光る大樹と、女王陛下が残された。
「はぁ。もうすぐ十六歳になるというのに、落ち着きのない……」
老婆は――女王陛下は呆れたように、ため息をつく。
「まったく、うちの姫様は――」
ここはヴェンアーラントの森。
私たちドリアードは、ほとんどがこの結界の張られた森の奥に住んでいる。
世界樹の在る大地の、大精霊の森の、姫巫女。
それが私だ。
森の中を進むと、やがて光の壁――結界の境界線が現れる。
精霊の大樹の祭壇は結界に覆われており、巫女の力を持つ王族にしか出入りの権限はない。
私は、そのまま壁へと突っ込む。フオンという音とともに結界から体を出した。
体感温度とかは、同じ。結界の中と外で、あんまり変わらない。
「おっ! アイシャ! 終わったのか!」
頭上から声がして、見上げる。
「キール! 待ってたの?」
「ああ!」
ひとりの少年が、木の上からザザッと枝葉の音を立てながら、軽い身のこなしで飛び降りてきた。
射干玉の髪、細身ながら鍛えられた体、腰には剣を携えている。――髪に花は咲いていない。彼は人間なのだ。
幼なじみのこの男・キールは、まぁ、護衛みたいなもん。
「よっと!」
キールは、私の隣に並んだ。
私が走るペースを落とさないので、キールもそのまま走り出す。
「なんか今日早かったな!」
「だって、もう半年も同じ事練習してるのよ!」
「でも本番まであと一週間じゃん」
「明日はやるわよ!」
精霊祭まで、あと七日。
私は姫巫女だから、祝詞を唱えたりしないといけないんだけど……まあ、今日は別よ!
「なに急いでんだ?」
「えー? 言わなきゃだめ?」
「わかった。腹が減って蜂の巣 襲いに行くんだろ!」
「私は熊か!」
ずびし! とチョップをいれる。
実際に、蜂蜜は好きだけれども!
「今日はねっ! 里に商人が来る日なんだものっ!」
「ああ、恋愛小説だっけ? あのイケメンに囲まれてる……」
「ちょっとっ」
何で知ってるのっ。っていうか、わざと口に出してるでしょっ。
私は、キールをぼこっと殴る。(軽くだ)
キールの口は、ぺらぺらと続ける。
「あの王子と第二王子と隣国の王子とその弟王子でハーレムをする……」
「……っ」
「姫様は王子様がお好きなことで」
かあっと顔が熱くなる。
好きだけどっ! 口に出されるのは恥ずかしいのよ!
ぼすっ!
私は、キールをもう一度殴る。
キールのニヤニヤした口は、まだそのままだ。
「いいじゃない! 私には、ない事なんだから!」
森の中の下り坂を駆け足で進むと、すぐに集落が見えた。私達の里だ。
集落の中には、いくつもの大木が生えており、幹に空いた樹洞には扉が取り付けられている。
これが私達の家だった。
里にいるのは、一部の人間以外は、全員ドリアードだ。
皆、緑色っぽい色の髪に、それぞれ花を咲かせている。
「あっ姫様だ! お勤めお疲れさま!」
「みんな!」
私が帰ったことに気がついて、里の子ども達が駆けてくる。
「姫様! 野菜が採れたよ!」
「桃の実も採れたよ!」
「わっ。おいしそうっ」
「姫様食べてーっ」
「ありがとっ」
桃の実を受け取ると、かぷりと齧りつく。
甘く熟した実はとろけるようで、
「ん~っ! 美味しい~っ!」
「たくさん食べていいよ!」
「よかったな! 熊にならなくてすんで!」
「まだ言うかっ」
私はドリアードの姫……だけど、里のみんなはそんなに畏まっていない。それ自体は別にいいのだけれども、この男は護衛のくせに、特に口が減らない。
里には畑や果樹園が多く、それが私達の主な収入源だった。
そのうち、大人達も近付いてきて、通りすがりに声を掛けてきた。
「キールくん、王都の正騎士試験に受かったんだって!? わしらはよう分からんが、十六歳で受かるなんてすごいらしいのぅ! 最年少叙任と聞いたぞ!」
「ありがとうございます!」
「なんでも、満場一致の合格だったそうじゃあないか。噂になっとったよ」
「お父さんの後を継ぐのかい? すごいなぁ」
「どもっす!」
ニコニコと会釈をするキール。
まぁ……さすがにね、その騎士試験だっけ? 受かったっていうのは知ってるけど。なんかちょっと、すごいらしいのよね。人間の制度はよく分かんないんだけど、まあなんかちょっと頑張っているらしい。……。
「アイシャ~!」
「むぐっ」
高い声で急に名前を呼ばれて、桃を喉に詰めそうになる。
振り返ると、これも幼なじみのマリィ・カリュアスだった。
「マリィ!」
「朝のお勤めはもう終わったんですかぁ? お疲れ様ですぅ~」
「まぁね! でももう魔力はすっからかん!」
「うふふ。でも、姫巫女さまのお役目ですからぁ~」
マリィは、深緑色の髪をぴょこんと揺らし、私の腕に抱きつく。マリィの髪にはスズランのような花が咲いていて、チリンとかわいい音がした。
「アイシャは毎日頑張っていて、すごいですぅ~」
「まぁね! 私しかいないし!」
「でもこいつ今日サボりだぞ」
「いや朝のお祈りはしてるから!」
キールが余計な口を挟むので、すかさず言い返す。
日課のお祈りと、儀式の練習は別!
毎日やることはやってるのよ。
マリィが、くすくすと笑った。
「え~? あ~。マリィ、なんとなく分かりましたよぉ~」
マリィは、私を見上げて愉快そうに言った。
「アイシャ~、商人を待ってるんでしょぉ~」
ぎく!
マリィってば、のんびりしてるのに、意外と鋭いのよね。
「まだ来てないみたいですけどぉ~……」
「も~……。マリィまで……」
私もいっしょになって笑おうとした、その時。
「……待って。通行手形が反応してる」
――結界に反応があった。ピリッとした空気の糸に、なにかが当たるような感覚。
誰かが外から、結界の中に入ってきたのだ。
私はそっと、耳を澄ませる。
――正規の通行手形の反応だ。
私はふぅと息を吐いた。
「正規の来客みたい」
「わぁ~。アイシャは相変わらず分かるんですねぇ」
「分かんない? こう……さ、木々がビィン……ってなるんだけど」
「マリィには分かんないですぅ~」
ドリアード領には結界が張ってあって、中に入るには『通行手形』と呼ばれる許可証が必要だ。
森へ入ることを許されている商人達も、これを持っている。
キールが、ぽんと私の肩を叩いた。
「行こうぜ! お待ちかねの品がきてるかもしんねーぞ?」
「……あんたは本当にうるさいわね……」
私とキールとマリィは連れ立って、里の入り口――門へと向かった。
ちょうど、荷馬車を引いた商人が、門をくぐるところだった。
フオン――と頭の中では音が鳴って、(これもみんなには聞こえないんだって)結界内に人が入ったことを知らせる。
「おじさーん!」
「おお、アイシャ様!」
ぶんぶんと振られたその手には、銀の葉の、通行手形。精霊の大樹で作られた、限られた人間しか持てない許可証だ。
私は、いそいそと近付く。
「あ、あのあのっ。アレありますか……っ?」
「ははは! あるとも!」
「やたっ!」
商人のおじさんは荷物をガサゴソと漁る。
やがて、
「はいこれ」
「きゃーっ! ありがとうございます!!」
「今回の新刊は、どこの街へいってもバカ売れなんだ。だけど、アイシャ様のために一部取っておいたよ」
「嬉しいですっ!」
待ちに待った『プリンス・ラビリンス』の新刊! 前回はセイレーン国の王子に迫られて終わったのよねっ! 麗しの長髪金髪王子様! 純愛・親愛・溺愛っ! あの続きがついにっ! きゃーっ!
キールがのぞき込んでくる。
「これが王子逆ハーレム小説か……」
「うるさいなぁっ。ああっ、この挿絵っ! なんて麗しいのっ! 金の髪の殿方なんて本当にいるのかしらっ」
私達は、緑・緑・黒! だもの。
「くすくす。夢くらい見てもいいじゃないですかぁ~。マリィたちはどのみち、ドリアード同士で結婚しますものねぇ~」
「……あ……うん」
私が頷くのが遅くて、なんだか変な空気になってしまった。
「あっ、お金よね! お金お金っ!」
私は、商人のおじさんへチャリン、とお金を払う。人間用のお金も、多少は持っているのよ。
「えーっとえーっと! あ、ねぇねぇ! この小瓶なぁに? 黒いお砂糖?」
空気を切り替えるために、明るく話を変える。
商人のおじさんは、すぐに返事をしてくれた。
「ああ! 東方のコショウでね。いいのが入ったんだ」
「コショウ~? う~ん、なんだか聞いたことがあるようなぁ……」
「よかったら味見をしておくれ」
「うん!」
「ちょいとお先に」
私の手のひらに出されたコショウへ、ひょい、とキールの手が伸びる。
そして、私より先に口にした。
「……まぁ、毒じゃなさそうだけど」
「売り物なんだから、そりゃそうでしょ!」
私も口へと放り込む。
「あっアイシャ。それってもしかしたらぁ、」
ぱくり。
…………っ。
「かっら~~~~い!!!!」
「え?」
辛い! 辛い! 辛い!
商人のおじさんは目を丸くしている。
「これはそんなに辛いやつじゃないはずだが……。普通のコショウで……」
何を言ってるの!
「けほっけほっ。けほっけほっ。こ、これは、からい……」
「はいこれ」
うめいていると、キールから瓢箪(水筒なのだ)を渡される。
私はキャップを手早く外すと、ごくごくと飲んだ。
「ああああ~~~……」
中身は――蜂蜜だ。
辛さは蜂蜜で中和するしか、ない。
「助かった~……ってちょっと! 味見してくれたんじゃなかったのー!」
「毒はなかった」
「辛いかどーかも教えてよ!!」
「一般的には辛くない」
「人間の一般は知らないわよ!! ここはドリアード領よーっ!!」
意味のない毒味係である。
マリィは苦笑いをしている。
「あははぁ……。や、やっぱりぃ……。コショウって、辛かった気がしたんですよぅ。マリィ、食べなくて良かったですぅ~」
ドリアードは、辛いもの(香辛料とかだ)は食べない。
「それにしても、アイシャは本当に蜂蜜が好きですねぇ~」
「うん! 三食蜂蜜でもイケるわよ!」
ぶいっとピースサイン。
まあ一般的には、ドリアードは甘い物だけ食べるってわけでもないけれど。(マリィが小さな声で「アイシャだけですぅ」と言った)
商人のおじさんは、ぽりぽりと頭を掻いた。
「ご、ごめんよアイシャ様。女王陛下に怒られるかな」
「まあ、だいじょーぶです。だいぶマシになったし!」
「た、たぶん人間が料理の味付けに使うものだったはずですぅ。だから食べても危害はない……はずですぅ~……」
私達は、揃って引き上げることにした。
最後にキールは、商人のおじさんを振り返って言った。
「おじさん、ドリアードの森では、香辛料は売れないと思いますよ」
ちゅーちゅーと蜂蜜を吸いながら、私達は里の中心部へと帰る。
中心部のやや北側には王宮(巨木が組み合わさっているのだ)があり、それに合わせて背の高い大木の民家があった。この中心部にある民家は、特に太い大木だ。
幹の中程に玄関扉があり、玄関扉の前には、三畳ほどの木製の足場がある。家と家の間は、吊り橋で繋がっている。床板は整形された長方形の板だったが、手すりは木や蔦で作られており、床板の固定には蔓植物が使われている。
端の家から、ハシゴを登る。
キールが先に上がって、私に手を貸してくれた。
最後にマリィが上る。
他の里人たちは、野菜や薬草を乾燥させたりして、のんびり過ごしているようだ。
王宮へ向かって、コトコトと木を鳴らして歩く。
「あ、蜂蜜なくなっちゃった」
「ん? もっと飲むか?」
「そんなに持ち歩いてるの!?」
すちゃっと笑顔で二本目を見せてくるキール。
しばらく悩んで、
「……………………今日はもう我慢するわ」
「飲めばいーのに」
「馬鹿ですねぇキールは! アイシャは太るのを気にしてるんですよぅ!」
「気にしてないから!!」
太ってないから!!
でも、1日分の栄養をもう摂取し終わった気がして。それでストップしようかなって。
そんなやりとりをしていると、
――ピリッと、かすかな、違和感。
張り詰めた空気が、揺れて。
肌がチリッとする。
先ほどまであんなに晴れていた空は、いつの間にか曇り。
鳥のガアガアと騒がしく鳴く声。
うららかな風の中に、ほんの少しの、新しい金属の匂い。
キィン――耳鳴りがする。――高い周波数を感じる。
私は、耳を澄ませた。
この反応は……。
「どうした」
「……西。里の外。――六人。いける?」
「オッケー」
非正規の反応。
通行手形に似せた、なにかで里の近くまで入ってきたんだわ!