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魚龍渓谷伝奇

鉄鱗港笑恋伝/てっらんこんしうりんわん

作者: 黒森 冬炎

 鉄鱗港(てっらんこん)は、(じょ)国の港湾要塞都市だ。昔から要塞だったわけじゃない。ここは元々海上貿易の拠点だったのだ。それがどうしてガチガチに護りを固めて、なんなら突撃上等なくらいの武装ぶりを見せるようになったのか。それは、ただ一人の少女が初恋に暴走しちゃったからなんである。


 ことの起こりは、退屈で死にそうになった鵲国の姫君が城を抜け出した事だった。歳の頃は十三、四。姓を(ふぁ)、名を()という。阿鱗(あらん)と呼ばれた幼い頃からお転婆で、当時まだ一介の皇子だった父を手こずらせていた。父は、せっかく苛烈な暗殺競争を生き延びて来たのに、この姫があまりにも荒唐なので、帝位争奪戦には一歩出遅れていた。


 最有力候補だった弟、南雀王(なんじゃーうぉん)花墨(ふぁーも)が、六年前に田舎で起きた叛逆事件に巻き込まれて命を散らした。その時、姉と妹は他国に嫁入り済みであり、兄は病弱で今にも死にそうだった。生き残っている兄弟で、帝位を継げるのは阿鱗の父だけだった。棚ぼた式に立太子され、三年前に先帝が病に倒れ、玉座につく運びとなった。


 自然、長子であった阿鱗は一皇女へと成り上がる。



 ある麗らかな春の昼下がり、公務の合間に鵲国皇帝が休憩をしていた。藤棚の下に誂えた円卓と籐椅子で、ゆったりと高級菓子を嗜んでいた。ちょうど盛りの美しい藤の花が、薄紫の花房を揺らす。


 そこへ柔らかな少女の声が響いて来た。深く温かみのある声なんだが、どうにも落ち着きがない。


(ふー)(わん)ー!旅に出とうございますう」

「姫よ、語尾を伸ばすでない、みっともない」

師父(しふー)から海というものの話を伺いましたあ」


 皇帝は聞こえないふりをした。勿論、姫君には通じない。


「十五になったら、ご領ー地をいただけるんですよねー?」


 皇帝は黙って茶杯を口に運ぶ。


「いい香りー!それ、東の渓谷で採れる貴重ーなお茶でございましょう?」


 姫はいちいち大袈裟な抑揚をつけ、所々歌うように伸ばす。語尾もよく伸びていた。皇帝はその口調に辟易しているのだ。


魚龍(ゆうろん)渓谷、でしたかしらー?」


 魚龍渓谷は、正確には鵲国ではない。国の東部の広大な山岳地帯にある渓谷で、古代民族の末裔が住む谷だったと言われている。五、六年前に、渓谷にある学問所が鵲国の謀叛人に加担して粛清された。


「もう手に入らなーいのですってねーえ」


 皇帝は後ろに控えていた公公(こんごん)を手招きする。公公とは宦官である。様々な役職について宮中を牛耳る勢力だ。皇帝の周辺にも数名配置されている。今呼ばれたのは、側近としていつも連れているうちの一人だ。


 皇帝に促され、公公は高級茶を注いで姫君に勧めた。


「んんー、いい香りですことー!」


 姫君は満足気に香りを楽しむ。


「けど、産地は惨劇に見舞われたのでございましょーう?」


 皇帝は溜め息をついた。


「そなたの叔父が惨死した事件であるぞ」

「うーん?八叔父上がお亡くなーりあすばしたのはー、魚龍渓谷ではござぁーませーんわよねぇー?」


 お転婆な姫君ではあるが、好奇心旺盛なため、豊富な知識を溜め込んでいる。そこもまた、父を手こずらせているのだ。


「書院の者は叔父の仇であるのだぞ」

「えー?目撃者はおりませーんのでしょーう?」

「ふん」


 父は面倒臭そうに鼻を鳴らして立ち上がった。


「姫よ、こんなところで油を売っておらず、琴の稽古でもしたらどうかな?父はもう仕事に行く」


 姫君からの答えも待たずに、皇帝はそそくさと立ち去ってしまった。


「んー、いい香りー!」


 無頓着な様子で、姫君は取り残された高級茶と高級菓子を楽しんだ。今嗜んでいた皇帝から下げ渡された物なので、毒の心配はない。


「それにしても、退屈ねぇー」



 姫君であるのに、阿鱗はどうしてこんなに暇そうなのか。それは彼女が優秀だからであった。お転婆姫というと怠惰な我儘娘を連想するかもしれない。しかし、この姫君は違う。多くのことをそつなくこなし、時間が余っているだけなのだ。


 藤棚の向こうから、護衛や侍女が走ってくる。息も絶え絶えで、よたよたとおぼつかない足取りだ。気ままに走り回る姫君を追いかけて来たのである。


「領地に海があると宜しうございましょーう?」


 お付きの人々の苦労を他所に、誰にともなく楽し気に言う姫君だった。



 その夜、姫君は地図を広げて難しい顔をしていた。横に立つ侍女は無になっている。また何かやってるくらいにしか思っていない。


「けっこう遠そうねえー?軽功(へんこん)で行けば、うーん、そうねえ、十日というところですかしらーあ?師父ならきっと、もっとお早いのでしょうけどー」


 姫君は侍女のほうを振り向いた。侍女は横目で姫君を見る。


「ね、そんなところであるなー?婉児(ゆんいー)?」

「ええ、左様でございましょうとも」

「左様でございますわよー」


 婉児の気のない返事を揶揄って、阿鱗は笑い混じりに真似をした。



 翌日の朝早く、婉児は護衛頭の冷鷹(らんいん)と二人で、姫君の部屋の前にいた。


「冷鷹、嫌な予感がしない?」


 昨夜の出来事を話してから、婉児は冷侍衛(らんしーわい)に同意を求めた。


「する」


 冷鷹はぶっきらぼうだが、はっきりと頷いた。


「旅の用意が必要かも知れないわよ」

「そうだな」


 婉児が朝の支度を手伝いに姫君の部屋へと入る。それを見届けた冷鷹は、部下にその場を任せて荷造りに去った。


 果たして二人の予想は的中した。姫君は朝食もそこそこに城を飛び出したんである。


「わああ、姫さま、お待ち下さいませー!」


 一群の護衛と侍女たちが気付いて追いかける。皇女宮の門では、門衛が待ち構えていた。数人の兵士たちが槍を差し出して交差させ、姫君の行手を阻む。姫はひらりと飛び上がり、交差した槍を踏み台にして皇女宮の門を軽々と飛び越えた。


「ああー!」


 嫌な顔を見せる婉児の腕を掴み、冷鷹も姫君の後を追う。他の護衛たちは取り残されてしまった。


「冷鷹、軽功教えてくれる?」

「うん」


 姫君の追跡には必須スキルだ、と二人は痛感したのである。



 皇宮の暗衛(たんわい)が数名後を追う。姫君の軽功は、皇帝子飼の秘密部隊である彼等でなければ追いつけないほどに上達していた。皇帝の対応が遅れている隙に、姫君はまんまと外へ逃げ出してしまった。


「せっかく頂く領地ですもの。視察をしてよーく考えないとなりませんわよねー」


 当時はまだ普通の城壁だった鉄鱗港の外壁を、阿鱗はふわりと飛び越えた。婉児を連れた冷鷹も華麗に越える。婉児が軽功の練習を始めてから、もう十日は立つ。民家の壁くらいなら越えられるようになった。だが、町の壁はまだ無理だ。冷鷹の力を借りて主である姫君についてゆく。



 無事港町に潜入した姫君御一行様。阿鱗は民間の武人といった出立ちだ。話し方にも多少は気をつける。皇族特有の話し方や態度をやめて、武人の言動を取るようにした。常日頃、だだっ広い皇宮を彷徨き回り、しまいには町中にまで進出している成果である。阿鱗は、あらゆる階級の立ち居振る舞いを身につけていた。


「これが塩の香りねー!」


 港を臨む高台で、姫君は晴れ晴れと両腕を広げた。眼下には交易船が停泊し、商人や港湾労働者たちが忙しく行き交っている。


「あっ」


 婉児が何かを察して眉根を寄せた。冷鷹も表情を硬くした。姫君が、港の様子を食い入るように見つめていたのだ。


「あの船は、この果てしなく広がる大海原を越えて、遠い異国に行くのよねえ」


 婉児は青褪めた。流石に海外まではお伴したくない。婉児には密航や密入国の罪が分からなかった。それでも、まずいことになるという予感はした。


「姫様、いけません!」


 主の行いを正すのも側近の仕事である。婉児は勇敢に姫君を諌めた。


「まだ何にも言ってないわよ」

「それでもダメです」

「酷いのね」


 阿鱗は知識豊富である。密航の罪は知っている。しかし彼女はまだ十三、四の子供なのだ。好奇心に勝てない時もある。


「酷くたってダメです」

「視察するだけよ」

「何処をですか?」


 婉児が必死に止める。冷鷹は腕を組んでその様子を眺めている。


「ふふっ、ちょっと行ってくるわねー」

「あっ、ダメです!どこいらっしゃるの!」

「婉児!」


 高台から港に向かって飛び降りる姫君を、婉児が焦って追いかけたのだ。冷鷹の顔から血の気が引いた。急いで自分も飛び降り、婉児抱き止める。一瞬甘酸っぱい雰囲気が漂うが、そんな場合ではない。二人は姫君に続いて、見知らぬ商船の上に降り立った。


「降りましょう!」


 婉児は泣きそうである。誠に気の毒なことだ。阿鱗は物陰に狙いを定めて降りたので、見咎められる事はなかった。


「船底の倉庫はどこかしら」

「なになさるおつもりですか」

「視察よ」


 視察の書類は当然ない。皇帝の命令でもないのに、交易船の視察をするなど狂気の沙汰だ。悪くすれば叛逆罪である。婉児も何となくはそのことを知っていた。それで、自分たち三人の首を守る為、なりふり構っていられなくなった。主人にがばっとしがみつく。


「えっ、婉児、何をするの?」

「降りてください!後生ですから!」


 小声とはいえ、そんなに騒いでいれば人も来る。揉める三人の目の前に、ぬっと抜き身が突き出された。



「きゃあっ」


 婉児は恐怖でますますしがみつく。


「婉児、危ない、離しなさい」


 阿鱗はするりと婉児の拘束から抜け出した。同時に飛び退って刃物から距離を取る。すると、物陰からその剣を握った少年が飛び出して来た。ポニーテールにした黒髪、暗衛の如きシンプルな黒い服。船の警備員だろうか。


「泥棒め!大人しくしろ!」


 頬肉が程よくついて鼻筋の通った美少年だ。停泊中とはいえ波に揺られた船の上で、少年剣士はふらつきもせずに立っている。


「危ないわね。刃物なんかしまいなさいよ」

「何を言うか、盗賊が!」


 少年は剣を構えて阿鱗に飛びかかってきた。冷鷹が素早く剣を抜く。阿鱗は婉児を庇って、そばにあった箱に飛び乗った。冷鷹に剣を払われた少年は、阿鱗を捕まえようと片腕を伸ばす。そこに冷鷹が斬りかかる。


梨花(れいふぁ)掃風(そうふぉん)!」


 少年は華麗な動きで冷鷹の剣を巻き込んだ。招式(しょうしき)の名を聞いて、冷鷹の手足が止まった。巻き取られて跳ね飛ばされた自分の剣を目で追いながら、冷鷹が膝をつく。


「え、何してるの?冷侍衛!」


 阿鱗が顰め面をする。


「冷鷹、ちょっと!どうしたのよ?」


 婉児がなじる。


「衛公子、ご無礼を」


 冷鷹は頭を下げた。


「私を知っているのかい?」


 少年剣士が驚いた顔をした。


「梨花剣と言えば、国公府梨花派の剣法、改めて拝見致しますれば、一子相伝の梨下月影歩(れいはーゆっえんぽ)


 そこまで聞いて、阿鱗は婉児の手首を掴んで船の外へと跳んだ。冷鷹も弾けるように立ち上がって後に続く。挨拶などしている暇はない。下手をすると姫君を見失ってしまう。暗衛は何処かから観ているのだろうが、自分の失態も皇帝に報告されてしまう。



「あっ、待てっ!」


 梨花剣の少年は盗賊を逃すものかと追いかける。


「待たなーい!」


 歌うような返事に、少年は不覚にもどきりとした。思春期なのだ。しかも脳筋なのだ。溌剌とした美少女が美しい声で歌うのを聞けば、鼓動が早まってもおかしくはない。仕方がない。


「くそっ、卑劣な」


 仕方がない事ではある。しかし阿鱗は卑劣ではない。わざと心を惑わせようとしたつもりはなかった。


「何ですって?」


 阿鱗が思わず立ち止まって振り向く。五月の陽射しが少女の白い顔を真珠のように輝かせた。少年の体温が上がった。


「くそっ、またしても!」


 見た目の上品さに似合わない荒っぽい物言いに、阿鱗もちょっとときめいた。だがすぐに気を取り直して抗議する。


「卑劣って何よ?」

「私を惑わせようとしても無駄だっ!」

「惑わせる?」


 阿鱗は本気で解らなかった。好奇心旺盛なので、恋に関する知識はある。だが経験は無かった。自分が思春期少年を惑わせているとは気がつかない。


「ええいっ、妖女!」


 少年は更に失礼な発言をした。同時に剣を真っ直ぐに構えて突っ込んで来る。冷鷹が剣を上に払い、阿鱗も腰の剣を抜いた。



「きゃあああ!」

「うわあああ」

「通報しろ!」

「逃げろ!」


 港は俄かにパニックになった。


「え、あ、しまった」


 梨花剣の少年が動きを止めた。すかさず阿鱗は軽功で大ジャンプをする。


衛公子(わいのわかさま)告辞(しつれいします)!」


 冷鷹は挨拶をして立ち去った。


「こらまて、泥棒!」


 少年は追跡を再開した。


「しつこいのねーえ!」

「逃げるな!」


 二人は人混みをすり抜け、荷物の箱を飛び越え、倉庫の屋根を走った。抱えられている婉児がぐったりとしている。


「おいっ、その子、気を失っているんじゃないか?」


 走りながら、少年が声を掛ける。言われて初めて阿鱗は婉児の様子に気づく。


「ああっ、ごめんなさい。婉児」


 阿鱗は、倉庫の屋根で立ち止まった。少年が厳しい声で宣告する。


「大人しく市舶司(しーぱくしー)まで来るんだな」

「えっ、お役所?」

「そうだ。泥棒なんだから、当然だろ」


 阿鱗は困惑した。


「さっきから何を言ってるの?泥棒なんかしてないわ」


 その時、阿鱗の腕の中にいた婉児がずるっと下がった。冷鷹が素早く受け止める。


「お見事」

「勿体無いお言葉です、若君」


 少年の気が逸れたと見て、阿鱗はまた逃げる体勢に入った。


「いい加減諦めろ」


 少年は滑るような足取りで阿鱗の正面に回り込む。


「嫌よ」

「何だと」

「そもそもなんで、大将軍のお坊ちゃんが真っ黒な格好して屋根なんか走っているのよ」

「君には関係ない」

「気になるじゃない」


 阿鱗の好奇心に火がついた。国公とは、鵲国軍総司令官のことである。御前会議にも出席する大将軍だ。衛大将軍は、梨花派という武門のトップでもある。一子相伝の技を仕込まれたこの少年は、跡取りの若君ということになる。そんな少年が、何故、首都から遠く離れた港町で警備員のような仕事をしているのだろうか。阿鱗は気になって仕方がなかった。



「もう帰りましょうよう」


 急に目を覚ました婉児が必死に訴えた。


「婉児」


 冷鷹が気遣わしそうに呼びかけた。


「帰ったほうがいいです」


 婉児は冷鷹の腕にしがみついて、やっと立っている状態だ。


「とりあえず屋根から降りたほうがいいんじゃないか?」


 少年剣士が心配そうに言った。


「優しいのね」


 阿鱗はふっと頬を緩めた。少年が頬を染めた。


「いや、普通だろ。その子、屋根から落ちそうじゃないか」

「うっ、そうね。とりあえず降りましょうか」

「帰りましょう」


 婉児は重ねて訴える。冷鷹も無言で頷いた。


「いや、帰さないよ」

「まあっ、なんて無礼な」


 阿鱗の憤りに、少年は苛立った。


「他人の船に忍び込んでおいて、そのまま帰れると思ってるのか?」

「それは悪かったわよ」


 阿鱗はとうとう謝った。どう足掻いても反論出来ない。全面的に少年が正しいのだ。まして婉児の体調まで悪くさせてしまった。押しの強い阿鱗でも、己の非を認めざるを得なかった。



 少年は、素直になった阿鱗を可愛いと感じた。


「くそ、妖女め」

「何ですって?変なこと言わないでよ」

「第一、国公府の跡取りと知っても、言葉を正さないとは怖いもの知らずだな」

「あ、お許しを」


 阿鱗は今、民間の武芸者という設定だ。高貴な人に対して無礼な振る舞いをしている状態なのだ。気の荒い相手なら、酷い暴力を受けても文句は言えない世の中である。


「まあいい。こっちもあんまり身分を明かしたくないからな」

「なによ、だったら脅すことないじゃないの」


 ぶつくさ文句を言いながら、阿鱗は大人しく倉庫の屋根から地上へと降りた。



「危ない!」


 地上に足をつけた瞬間、何処からか矢が飛んできたのだ。矢は少年の腕を掠めた。阿鱗は落ちた矢を咄嗟に片手で掴み、もう片方の手で少年の腕を引っ張った。驚きに目を見張る少年を背中に回して、皇帝の第一子が矢面に立つ。


「はああああ」


 衛少年は感嘆の吐息を漏らした。ニの矢、三の矢をマントで受け流し、阿鱗は倉庫の壁に沿って逃げる。立て続けに降り注ぐ矢の雨を掻い潜り、右に左に少年の背中を押しながら、阿鱗は倉庫の角を目指した。


 目の前で自分を庇う少女の素性を知らない。だが、その豪胆な姿に王者の風格を見た。彼の心臓は早鐘のように打つ。彼も大将軍の息子である。胸の奥に燃え盛る炎を感じた。


「私の戦女神様、私も貴女と並び立ちたい。轡を並べて栄光の道を進みたい」


 自分でも気付かないうちに、少年は声に出していた。


「何言いだすのよ!」


 唐突な崇拝に、阿鱗は呆れて勢いよく手を離した。ちょうど矢を避けるために軽くジャンプしたタイミングだった。衛少年は綺麗な弧を描いて、倉庫の陰に消えていった。



 婉児は冷鷹に抱えられて、阿鱗の隣を走っている。


「冷鷹!私なんか放っておいて!」


 姫様を守れ、と言外に含めるが、冷鷹は婉児を下すわけにはいかない。この状況を切り抜けるには、婉児の能力は未熟過ぎた。暗衛が手出しをしないということは、阿鱗と衛大将軍の息子だけで切り抜けられる範囲だということなのだ。この場で一番弱い婉児を抱えて走る、冷鷹の判断は正しかった。


「婉児、じっとしてなさい!」


 主人にぴしゃりと言われて、婉児はぐっと黙った。


衛公子(わいこんじー)!」


 走る勢いを殺さずに角を曲がり、阿鱗は少年に声を掛けた。


「大丈夫?」

「はいっ!女神様!」

「え、ちょっとやめてよ」


 角の向こうでは、剣の打ち合いが繰り広げられていた。覆面をした数人に飛びかかられた少年が、流麗な体捌きで凶刃を躱す。同時に降りしきる花びらを巻き上げるかのように、優美な仕草で剣を操った。


「では、なんとお呼びすれば?」


 少年は、憧れを込めた眼差しをチラリと阿鱗に投げて問う。正面の剣を弾きながら飛び上がり、横回転しながら右の覆面を右脚で蹴る。地に落ちる前に今度は左脚を使って、反対側から来る敵の腹に蹴りを喰らわす。


 後ろから来る敵との間に、阿鱗が滑り込んで斬り払った。相手の肩先に切り傷が出来た。返り血が阿鱗の鼻から頬へと斜めに水玉模様をつけた。凄みのあるその姿は、少年の心をますます熱く燃え立たせた。


好美呀(なんとまあ)!」


 溜め息と共に呟いて、少年は阿鱗と背中合わせに剣を構えた。阿鱗はふっと笑って、手に持つ剣を握り直した。


「阿鱗」


 敵を見据えたまま、阿鱗が名乗った。身分を隠している身の上だ。花珠の名は明かせない。だが、全くの偽名を教えたくはなかった。この華麗な剣士には、本名を知っておいて欲しかった。


「阿鱗!」


 少年は満面の笑みで名を呼んだ。


「私は衛梨月(わいれいゆー)だ!好きに呼んでくれ!」


 二人は同時に大地を蹴った。婉児を抱えた冷鷹も飛び上がる。


「そう?だったら梨月って呼ぶわ!綺麗な名前だもの、略してまうのは勿体無いわよ」

「私の名前を気に入ってくれるなんて!感激だ」


 少年が走る速度が増した。


「まあっ、大袈裟ね!」


 柔らかな声で笑う阿鱗を、梨月はうっとりと眺めた。



 倉庫の屋根を駆け抜けて、少年は住宅街へと足を踏み入れた。商人の家らしき贅沢な作りの建物を通り過ぎる。中には門衛が立つ家もある。しつこく着いて来た追手も、富豪たちの私兵を畏れてか姿を消した。


「この先に親戚の家があるんだ。婉児を休ませてあげたらいい」


 盗賊として捕えようとしていたことは、けろりと忘れているようだ。


「ありがとう。お言葉に甘えさせていただくわ」


 阿鱗も正直なところ疲れていた。安全な場所で休ませて貰えるのはありがたい。



 一息ついたところで、阿鱗は握りしめていた矢を改めて見た。全体的に黒い。羽は真っ黒である。よく見ると、矢筈の側面に恐ろしく細かい文字で何か書いてある。


「神鵲?」


 阿鱗は眉間に縦皺を寄せた。


「大将軍の跡取り息子が、なんで皇帝の暗衛に狙われたの?」

「阿鱗、君、なんで神鵲が皇帝の暗衛だって知ってるの?」


 梨月は警戒心を見せた。阿鱗は梨月の瞳を真っ直ぐに見返す。梨月はどぎまぎして目を逸らした。


「いいわ。話す」

「いけません!」

「何よ、一緒に矢の雨を潜り抜けた仲よ」


 婉児の牽制を阿鱗はせせら笑った。梨月の顔は上気している。目には靄がかかっているようだ。


「えっ、あ?梨月?」


 阿鱗の声に戸惑いが混ざる。梨月の身体がぐらりと傾く。


「毒です」


 冷鷹が述べた。


「わああっ、薬、解毒剤!」


 阿鱗が叫ぶと、何処からともなく家来たちが現れた。今まで人気がなかった家が一気に騒がしくなった。冷鷹の提供した解毒剤は、皇帝付き暗衛の使う毒に対応していた。彼は一皇女の護衛頭である。鵲国の慣例に従って、阿鱗はまだ肩書きがない。だが、皇帝の娘であることには変わりがないのだ。護衛頭には精鋭が任命されて当然だ。



 やがて目覚めた梨月は、阿鱗の身分を聞かされた。


「皇女殿下、度重なるご無礼をお赦し下さいませ」


 梨月は床に張り付くような姿勢を取った。阿鱗は急いで腕を支えて起き上がらせた。


「やめよ!梨月!阿鱗でいいのよ」

「しかし」

「何がしかしよ。私が阿鱗て名乗ったんだから、阿鱗なの!」

「ご尊名を、しかも貴き方のご幼名を」

「梨月!」


 狼狽える梨月を叱り飛ばし、暗衛の毒矢を指差した。毒矢は卓上に置かれている。


「これなんなの。何で暗衛に命を狙われてるのよ?」

「父は軍のトップで、民間の武力勢力にも顔が効きます。力をつけ過ぎたのです。だから跡取り息子を亡き者にしたいのです」

「父皇」


 阿鱗は呆れてそれ以上の言葉が出なかった。


「国とはそういう物ですよ」

「梨月は鉄鱗港に隠れてたの?」

「そうです」


 しばし沈黙が訪れた。


「ねえ、婉児、冷侍衛」


 沈黙を破った阿鱗は恐る恐る二人の顔を見た。二人とも厳しい表情だ。梨月は状況が把握できない。


「あー、やっぱり?」


 お伴の二人は頷いた。



 そこで阿鱗は梨月のほうへと向き直り、白状した。


「ごめんなさい。私が海を見たくて、皇宮を抜け出したりしなかったら、こんな事にはならなかったわ」

「勿体無い!謝らないでください」

「そんなこと言わないでよ。轡を並べて進みたいんでしょう?勿体無いだなて」


 阿鱗は寂しそうに言った。梨月は思わず阿鱗の手を取ろうとした。だが、伸ばしかけた腕を止め、開いた指を握り込んで拳を作った。腕は力なく膝の上に落ちた。


「私が暗衛を引き連れてきちゃったのよ。私の護衛として着いてきて、偶然梨月を見つけたんだと思うわ」

「落ち込まないでください。殿下のせいではございません」


 畏まる梨月に、阿鱗は涙を浮かべて懇願した。


「梨月!もう阿鱗と梨月ではいられないの?どうしてもそんな堅苦しい言葉遣いしか出来ない?」


 阿鱗の悲痛な声に梨月の心が揺れる。背中を預けて覆面の刺客と戦った場面が甦る。毒矢の雨に立ち向かう豪胆な姿が目に浮かぶ。


「私の戦女神」


 梨月は呟いた。


「私の」


 梨月は思春期の脳筋である。女神の身分を知り必死に抑えた情熱の豪炎を、そう長く消しておくことは出来ない。


「私の阿鱗!泣かないで!」


 梨月は阿鱗を胸にかき抱く。阿鱗は驚いて身を振り解いた。


「ご無礼を」


 ふたたび平身低頭する梨月に、阿鱗は自分の気持ちを伝えた。


「そうじゃないの、驚いただけよ」

「ごめん」


 梨月はほっとして笑った。


「いいのよ」


 阿鱗も笑った。



 鉄鱗港の隠れ家に泊めてもらった阿鱗一行は、港湾都市らしい海産物をご馳走になった。首都に川はあるが海から遠く、魚の種類も限られている。阿鱗は、貝や魚、海藻の変化に富んだ食卓に箸が止まらなかった。


 食後は、潮騒の聞こえる屋根の上で薬湯を呑んだ。海に昇る月を眺めて、星空の下で語らえば、自ずと心は近づいた。


「十六になったら、薬湯じゃなくてお酒を呑もうよ。我が家の梨花酒は良い香りだよ。私も呑むのが楽しみなんだ」

「そうね、楽しみだわ」


 二人はまだ十五にもなっていない。だが、この先もずっと共に歩むつもりになっていた。


「そうだ、端午祭というのがあるのでしょう?」

「よく知ってるね」

「もうすぐよね?」

「そうだね。一緒に行く?少し遠いけど」


 端午祭は、首都を通って流れ下る燕辰江(いんさんこん)と、件の魚龍渓谷から流れてくる魚龍川が合流する辺りで行われる。港からは馬なら二日、軽功を使える二人なら一日半もあれば充分である。



 次の日も、また次の日も、そして端午祭へと向かう旅路でも、刺客は襲って来た。


「しつこいわね」

「解毒剤の作り方を教わったから、だいぶ安心になったよ」

「このままじゃ、また隠れ家を探すことになるわね」

「鉄鱗港には父の交易船もあるし、なるべくなら離れたくないなあ」

「だったら、港をもっと安全な隠れ家にしましょうよ」

「どうやって?」



 二人は、端午香嚢と呼ばれる端午祭名物の香袋を売る屋台の前に立っていた。この地には、香袋に伝説がある。三角形のころんとした香袋は、家族や友達同士で健康と幸福を願って送り合う。


 思春期男女にとって、祭の主役はもう一つの形だ。二千年近く前の恋人たちの伝説である。この地の乙女が、魚龍渓谷に住む古代民族の若君と恋をした。若君は鳶の形をした紙の凧を飛ばす研究に勤しんでいた。その成功を願って、その年、乙女は若者に贈る香袋を、凧の形にしたのだという。


 阿鱗は水色の香袋を手に取った。梨月の胸に期待が高まる。その時から、水色は梨月の大好きな色になった。


「この色は五月の川みたいね」


 それは凧の形をしていた。阿鱗は婉児から小銭を受け取り、手ずから支払った。梨月は食い入るようにその様子を見ていた。


「はい、あげるわ」

「うん、ありがとう!」

「ねえ、意味分かってる?」

「分かってる!知ってるよ」

「本当に?」


 この地の乙女たちは、意中の殿方に凧の形をした香袋を贈るのだ。色は職業を表していて、伝説にあやかって意中の人の仕事がうまく行くように、との願いが込められているのだ。


 水色は水に関わる仕事全般である。漁師、海運業、護岸工事をする人、港湾関係者、井戸掘り職人、遊覧船や、舫と呼ばれる航行しないが船の形をした水上施設の経営者などである。阿鱗は、港を住処とする梨月にこの色を選んだ。だが、理由はそれだけではない。


「交易船を継ぐからでしょう?」

「ほら、やっぱり分かってない」


 阿鱗はくすくす笑った。梨月は笑われているのに嬉しそうだ。



「十五になったら肩書きと領地をいただくの」

「皇女様だもんなあ。公主殿下になるんだね」

「そうよ。何処を頂くか、もう決めてあるのよ」

「どこ?」

「何処だと思う?」


 阿鱗は、梨月がさっそく腰帯に下げている水色の香袋を突いた。


「鉄鱗港?」


 梨月の顔がぱああっと輝いた。


「そうよ。それだけじゃないわよ」

「まだあるの?」

「ねえ、轡を並べて進みたいって言ったわよね?」


 梨月はごくりと唾を飲み込んだ。


「うん、言った」

「私の駙馬(ふま)になってよ」


 駙馬とは皇女の夫である。会議で承認される必要があり、誰かが勝手に決める事は出来ない。


「うん!選ばれるように頑張るよ!」

「そのためには、まず生き残らないとね?」


 港の安全と話が繋がった。


「まずは鉄鱗港を領地にいただいて、刺客を追い払えるだけの鉄壁の護りを固めるのよ」


 夫を手に入れる為に闘う相手は皇帝である。なにしろ、夫候補に送られてくる刺客は、皇帝子飼の暗衛なのだ。梨月はぞくりとした。口には出さないが、阿鱗はたった今、叛逆者となることを宣言したも同然なのだ。


「梨月、二人の未来を必ず護りましょうね」

「阿鱗!私の戦女神様!共に未来を護りましょう」

「殿下、わたくしどもは平穏な生活を諦める覚悟が出来ておりません」


 婉児は抵抗を試みる。冷鷹も無言で頷き、婉児に同意した。阿鱗と梨月が出会ってから、まだ一週間程度なのである。大事な主人が皇帝を敵に回して守り抜くほどの相手なのか、疑っても当然だ。



 そんな話をしている間にも、毒針だの匕首だのが飛んでくる。梨月は懐から取り出した玉笛に内功を込めて暗器を弾く。その度に、遠くでうめき声が聞こえた。数日の間に、梨月の実力は飛躍的に進歩していた。恋する武人の成せる技である。


「返してあげたんだから、感謝して貰わないとね」


 刺客は、隣に皇女がいてもお構いなしである。梨月と何日も行動を共にしている阿鱗も、既に抹殺対象のようだ。


「身の程知らずもいいところよね」

「そうだね」


 こうして、鉄鱗港は要塞化への道を歩み始めたのであった。

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― 新着の感想 ―
中華風の世界を舞台に全編に渡って展開されるアクションシーンが目にも鮮やかですね。 大将軍の息子と皇女殿下。 高貴な立場にある二人の少年少女が互いにそれとは知らずに出会い、交流を深めるというのが良いです…
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