2 ダリア
『僕がね、妻となる者に求める条件は、健気であること、お淑やかであることなんだ。でもさ、君は』
婚約者が鼻で笑った。
『でも、君はなんというか……高飛車で悪辣って感じだ。良妻というより悪妻になる未来しかないように思えるんだよ。はぁ』
自分に酔っているような……本当にわざとらしいため息を婚約者は披露したのよ。
このあたりで、すでの準備万端だったわ。
ギュッと右手に力を込めて。
『つまり、今の君は僕に相応しくない。もう少し、僕をたてるように慎ましっ』
大きく振りかぶってーの
バッチコーン
扇子で思いっきり張り倒したわ。
『っぐほっ』
『つまり、扇子程度で張り倒されるお前など、私に相応しくないってことね! オーッホッホッホ』
泣いてなどなるものか。
顎を突き出し高笑う。
下を向いたらいけないわ、こぼれ落ちてしまうじゃないの、涙が。
『こんっのっ、暴力女!!』
雑魚が喚いたわ。
耳障りだこと。
『婚約破棄だ!!』
『上等よ!!』
売り言葉に買い言葉ではなくってよ。
この程度の男から買うものなんてひとっつもないのだから。
『慰謝料を請求させてもらう!』
腫らした頬を手で押さえる男に、わざとらしくため息をくれてやった。
『ええ、ご自由に。乙女の扇子さえ捌けぬ青二才の異名を手にしたいのならね。もしくは、乙女の扇子が当たった程度で倒れる軟弱男の称号が得られるのではなくって? オーッホッホッホ』
ええ、もちろん高飛車で悪辣に高笑いつきで言い放ったわ。
集目の中での出来事よ。
ヒューと口笛が吹く。
口笛の主は誰なのかと、思わず向いた。
それが、アレンとの出会いだったわ。
「ホッヘン家? え? ええぇぇっ!? あのホッヘン家!?」
屋敷に戻ってから、父上と母上から口笛の主が誰だったのかを知らされた。
「ああ、あの幽霊伯爵を継ぐ男だそうだ」
幽霊伯爵、ホッヘン家は社交界でそう呼ばれているの。
三代前に没落し、一家離散した伯爵家。
爵位返上の手続きを踏まず、爵位だけが宙ぶらりんに存在する幽霊伯爵家なのだ。
本来ならば、誰かしらの血筋が据えられるものだが、ホッヘン家を継げる者はいなかった。
血筋は辛うじて居たのだが、すぐさま襲爵できない者ばかりで、あれやこれやと時間だけが過ぎ、王家も王子誕生の慶事やらで対応をスパッと忘れちゃってね、気づいたときには幽霊伯爵が爆誕していたって話。
廃爵手続きしたくても、署名できる血筋の代役さえわからなくなっちゃってたから。
「では、あの方がホッヘン家の血筋だと?」
「かなりの遠縁だが、確実な血筋だ。祖先が保管していた襲爵を打診する書面と、ホッヘン家と繋がる家系図があって、それらが正当なものだと証明された。この国の生まれではない。社交界では新顔になる」
「道理で、知らない顔だったのね」
「そんなことより……ダリアよ、婚約破棄、コホン、婚約解消となるが、本当にいいのか?」
今頃、兄上が婚約者の侯爵家で婚約解消の手続き書面に署名をいただいていることだろう。
フンと鼻で笑う。笑っちゃうわよ。あんな器の小さい男なんて願い下げ。
「あれに嫁ぐぐらいなら、幽霊伯爵家に嫁いだ方がまだましよ! オーッホッホッホ」
「そうか、それは確かに良い考えだな。打診してみよう」
「ちょ、ちょっと、父上、言葉の綾ですってば」
バタバタ
何やら廊下が騒がしい。
皆が訝しげに扉に向いた。
「失礼致します!! ホッヘン家ご当主様より、ご訪問の知らせが届きました」
家令が慌てている。
「何!?」
「ご本人様直々の知らせでして!」
「はあっ!?」
家令の後ろからひょっこりと現れるは、あの口笛の主。
「カッツ侯爵家ご息女ダリア嬢に婚約の打診に伺いました」
一拍の静けさが流れた。
噂をすればなんとやら。
皆、ポッカーン状態である。
口笛の主が家令の横をすり抜け、父上や母上さえ通り過ぎ、私に一直線。
「ダリア嬢、どうか私アレンと婚約していただけませんか?」
片膝をつき、顔を見上げたアレンがハッとした。
「あっ、やっぱり婚約はなしで」
ヒューン
バビューン
ゴオォォー
ブリザードゥが吹き荒れるぅ。
……てな具合の極寒の雰囲気ってなものよ。
へえ? 顔を見上げてーの、前言撤回ねえ。
おふざけが過ぎましてよ。
と、右手は口よりも先に動いていた。
アレンがその手を視界に留めながらも、ニヤッと挑戦的に笑っている。
「婚約はすっ飛ばし、すぐに結婚したく乞います。どうか、私の手をお取りください、ダリア嬢」
大きく振りかぶってーの
バチッ
ガシッ
「乙女の扇子は捌くのではなく、掴み取るものかと」
私の振り下ろした扇子は
バチッ
とアレンの掌で止められ
ガシッ
と掴まれていた。
負けじと扇子を振り解こうとするけれど、アレンは離さない。
それどころか、立ち上がったアレンに扇子ごと引っ張られよろけてしまい、支えられるように手を取られてしまったの。
「ありがとう、手を取ってくれて」
「ちっがーうっ!」
「え? やっぱり、婚約期間は必要かな」
「それも、ちっがあぁぁうっ!」
「じゃあ、やっぱり、あれだよね? 言うかあ、恥ずかしいけれど」
「はあぁん!?」
「一目惚れ」
「え?」
「夜会のあなたに、気高き大輪の華に、心射貫かれた」
「……何よ、何言っちゃってるのよ」
「だから、告白。本当は、婚約よりも結婚よりも先に告げる言葉」
「ば、馬鹿じゃないの!」
「そう、恋に溺れた馬鹿。誰よりも早くあなたの視界に入りたくて、来訪の手順も、打診の手順もすっ飛ばして特攻するほど、大輪ダリアに惹かれたお馬鹿さんですが、何か?」
「なっ!?」
「私、ホッヘン家当主アレン、再度乞います」
アレンがバッと片膝になった。
私の手を離さぬままに。
「どうか、恋に溺れた私を救っていただけませんか?」
ここにきて、眉尻を下げ、不安げに見上げてくるなんて……卑怯よ。
さっきまでの勢いはどこに消えたってのよ!?
「きょ、今日会ったばかりで返答なんて」
「では、明日も会いましょう。デートにお誘いしても?」
小さくコテンと頭を傾げている。
そんな縋るような瞳を向けないでよ。
そういう顔に弱いのよぉぉ。
「駄目、かな?」
何、そのくりゅりゅんとしたお目々の上目遣い。情けない顔しちゃって……。
「せめて、私から扇子を贈らせてほしい。あの男を張り倒して皮脂の付着した扇子など、あなたの手に持たせたくはないから」
「ッ、し、仕方ないわね。オーホッホッホ。よろしくってよ」
扇子を離して高笑う。
もちろん、口元に添えた手の角度は完璧よ。
「良かった。じゃあ、遠慮なく」
「へ?」
バキ
バッキバキッ
アレンの手に渡っていた扇子がバッキされた。
でも、二つに割れたというのは間違いよ。
だって、粉々寸前までバッキバキ……それも笑み付きで。
パンパンと手を払ってーの
バラッバラッ
と、床には扇子だった何かが広がった。
「デートの次は、結婚でいいですよね?」
「ちっがあぁぁうっ!!」
「まあまあまあ、ダリア。まずはデートだ」
「そうそうそう、楽しみね、明日が」
父上、母上、なぜにそんなニッコニコなの?
二人して圧をかけているのね。
アレンにではなくって、私に。
そりゃあ、あんな公の夜会で、集目の中でやらかしたのだもの、次の婚約が手こずるだろうからって、もうっ!
「カッツ侯、夫人、このような失礼な特攻を寛大にお受けいただき、ありがとうございます」
「ハハハ、夜会後に間髪入れずの特攻、その英断力に度胸、目上の私たちよりダリアに一直線だったのを見せつけられたら、そりゃあねえ?」と父上。
「お恥ずかしい限りです」
「フフフ、ダリアのダリアたる素に惹かれ、乞うたのだもの。末永くよろしくね。ダリアがダリアのままで過ごせるように」と母上。
「もちろんです。俯かず咲くダリアに、健気さや慎ましさを求めるなど、愚の骨頂」
アレンと視線が絡む。
何よ、良いこと言っちゃって。
ちょっと、ちょこっと、少しだけ、見直してあげなくもないわ。
スンと鼻を啜る。
べ、別に潤んでなどいないわ。アレンの言葉が嬉しかったわけじゃなくってよ。
当然のことだもの。
「そうよ、私はダリア! オーッホッホッホ」
翌日。
デート日和の穏やかな晴れ。
「さあ、行こう」
出された手に手を乗せる。
流れるように、肘に促されると思いきや。
ギュッと。
ニギッと。
繋がれた。
「ちょ、ちょっと、なぜ!?」
手を振り解こうとブンブンするのだけれど、昨日の如く離れない。
「エスコートなら、肘を出してよ!」
「それじゃあ、今日のデートの意味がない」
「は?」
「この手に馴染む扇子を贈るのだから、手を握って確認しないといけないでしょ?」
もう、唖然。
何それ、アレンにご都合な思考。
いえ、……最初からそのつもりだったのだわ!
だって、悪戯が成功したみたいに、今日の瞳は愉しげだもの。
昨日といい、今日といい、この男の策にまんまと嵌まっているみたいじゃないの。
悔しいぃぃ。
「この私ダリアを、掌の上で転がそうなんて、百年早いわよ!」
「そっか、私の掌は百年先までダリアに予約されているのか。うん、いいな」
「ちっがあぁぁうっ」
ああん、もうっ、これじゃあまた昨日の二の舞いになってしまうわ。
「いいわ。私ダリアの手を取れる栄誉を与えましょう。ただし、私の満足する扇子を贈れなければ、二度とアレンの手は取らないから。おわかり?」
ツンと澄まして言ったわ。
「私の方こそ、望むところです、我が姫。この賭けに勝ったなら、私は一生ダリアの手をエスコートしますから。お覚悟できますか?」
繋いだ手を上げて、アレンが私の手の甲に唇を落とした。
ニヤッと笑ってる。
「どうします? 今なら賭けを止められますが」
「望むところよ!」
あっ、思わず言い返しちゃった……。
ん? でも、この賭けって、絶対的に私が有利よね。気に入った扇子でも気にくわないって言えばいいから。
……その先は?
アレンの手を取らないってことになる。
「我が姫の望むがままに」
その言葉に、ハッと気づく。
私に委ねられたんだ。
扇子を拒めば、アレンの手を取らない。
扇子を掴めば、アレンの手を取る。
つまり、この賭けは、アレンの乞い(恋)に応えることなのね。断るか、受けるのかと。
「今度こそ、さあ、行こう」
何よ、なぜ、そんな優しい顔で見つめるの。
ズルい人。
昨日、今日のたった二日で、私をこうまで翻弄させるなんて。
悔しいわ、惹かれちゃってる。
アレンとのやり取り……今日で終わりだなんて、思えなくなっているのだもの。
「心に嘘をつかぬと誓うわ。私の手に馴染む扇子を必ず贈って」
「はい、必ず。それでこそ、気高きダリアだ」
私の手にはあの日の扇子。
誂えてもらった花園で、仲間たちが待っているわ。
「ねえ、アレン」
「なんだい、ダリア」
あの日から、ずっと変わらずアレンのエスコート。
「一応、社交よ。肘でないとおかしいわ」
「ハハハ、一生ダリアの手をエスコートするとの誓いを破れないから。メッロメロンのダリアとの誓いだし」
「もうっ」
ブンブンと振り解こうとするけれど、全然駄目。あの日から、ずぅーっと解けない。
「ほら、皆、生温い視線で出迎えてくれている。社交復帰の洗礼は通過儀礼だよ?」
わかっているわよ。
アレンは絶対手を離さないって。
だって、アレンだし。
「せいぜい、皆から批判の眼差しを受けてくださいましね」
ギュッと。
ニギッと。
仕掛けたわ。
いつも翻弄される私ではなくってよ。
フンと見上げると、アレンが照れたように笑っている。
「フフフ、私、夫を骨抜きにする悪妻ですの、オーッホッホッホ」