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10-1・ モリットⅡ

10・ モリットⅡ


 幾つも幾つも連なっていく灌木の丘を、一つずつ越えていく。

 乳白の霧と緑碧の丘のエリ島を、横切るように進んでゆく。灰色の空の下に、霧は濃くなり薄くなりこもっている。その霧の中を彼はずっと、ずっと旅を続けてゆく。

 長い道のりの果て、リートムは薄霧の中に現れた。灌木の濃緑色の真ん中、リートムの街の全景が白いヴェールを纏ったかのように視界の中に現れたのだ。

「――リートムだ」

 普段の鋭い表情が変じ、愛おしむ眼になっている。その眼のままにずっと、長く街を見つめ続けている。

 リートム。

 これまでにずっと、自分が全身全霊を捧げてきた街。そしてこれからは、自分が命運を定めることになる街。

「久しぶりだわ。十五年振りだわ。覚えていたよりは大きな街ね。

 これがお前の物になるのね、ディエジ」

 甲高い声に、ディエジの顔が気難しさを強める。だが横に馬を並べる母親は、そんなことに気づくものか。小娘のように感情を高ぶらせ、満面の笑みになっている。

「神の思し召しは素晴らしいの一言だわ。お前に対して、お前の力量に相応しい物を賜って下さったのだから」

「リートムは、俺の物じゃない」

「何言ってるのよ。お前の物よ。神の御前にまごう事なく正当によ、だからここまで来たんじゃないっ」

 母親は大声で発し続け、それを息子は聞き流し続けている。思っている。

 リートムは自分の物ではない。リートムは、アーサフの物だ。神はそう定めた。

“嫌だ、お前が王になってくれ、ディエジ”

 だからあの時、アーサフを殴った。そしてアーサフは泣きながら王座に就き、就いた後も泣き、悩み、疲れ、それでも王位にあり続け、その果てに今――消えた。

“お前の方が相応しいんだ、お前が王になってくれ、ディエジ”

 あの時、自分が受け入れていれば、アーサフの運命は変わっていた。

 自分が、アーサフの運命を変えてしまった。自分に責任がある。だから、アーサフが懸命に護ろうとしたリートムを引き継き、護らなければならない。

「ディエジ! 聞いてるのっ」

「――。聞いてる」

 その母子の周囲には、総勢三十人を超す大人数の同行者達がいる。元よりショーティア城に仕えていた廷臣達以外にも、今回コノ王が派遣してきた兵士達も多数いる。彼らもまた街を見ながら、近々に新リートム王となる男を無事に護衛しきった事に安堵し、無駄話をしている。

 マナーハン訛りのそれら会話を、ディエジは意識した。今さらながら、警備という名ではるばる派遣されてきた彼らの存在に、コノ王の何かしらの画策を意識した。

「……。別に、急に気を変えて、ショーティアに戻ったりしない。勿論、出し抜いて何かしら奇抜な動きに出たりなどしない。なぜなら、例え傀儡でも、それでも俺がリートムの王になるからだ」

「何か言った? ディエジ? 傀儡って何の事?」

 コノ王の意向ならば、気にするな。逆に今は、利用しろ。そしていつか、自らの手で払拭しろ。リートムはアーサフの物だ。コノ王にも誰にも渡さない。

「行こう」

 馬の腹を蹴った。

 ――

 不規則に揺れる馬の一歩ごと、リートムの全景は大きくなる。城壁上に垂れるリートムの青十字旗、その隣に黒羽のマナーハンの旗印が、着々と浮かび上がってくる。そして街の門・聖マル城門の前に、数十人が集まり、自分を出迎えているを見い出す。

「マクラリ!」

 その中に旧知の老卿を見出した瞬間、ディエジは思わず感激で叫んでしまった。馬から飛び降りて走り寄ってしまった。

「久し振りだな。ディエジ」

 マクラリ卿は以前と何一つ変わらない、落ち着きの態として顔だ。ディエジはこらえきれずに、相手の肩を抱き締めてしまった。

「良かったっ、貴方も無事だったんだ、マクラリ! 会いたかった、修道院以来だ、本当に会いたかったっ。ずっと……会いたかった!」

「私もだ。天上の神は偉大なり。お互いに無事に再会出来て良かった。私以外にも、かつての家臣達は、ほぼ無事だ。皆、何とか身代金を支払い終えて、無事に帰還を遂げている」

「アーサフは死んだのか」

 いきなり訊ねた。

 周囲には、旧王家に仕えていた者達、新たにマナーハンから派遣された者達、それに街の住民達などが多数居る。全員が自分に注目しているというのに、それでもディエジは構わず、真っ向から続ける。

「ただの噂なんだろう? 忌々しい噂だけで、本当のところはまだ解らないんだろう?

俺はずっとバリマックの獄につながれていて、全く何も分からなかった。何が起こっていたのかを知ったのは、やっとそこから逃げ出して自領に戻った後だ。俺は信じていない。アーサフが死んだなんて、適当な噂だろう?」

「判らない」

「隠すなっ。アーサフは今どこにいるんだ」

「なぜ隠す必要がある」

「人目なんかどうでもいい、今ここで真実を言えよっ。アーサフは生きているんだろう? どこにいるんだ!」

 強い力で腕を掴んでくる手を、マクラリはゆっくりと振りほどいてから言った。

「アーサフ王は、おそらく亡くなった」

「貴方までそんな事を言うとはなっ」

「確認は取れていないが、ほぼ間違いは無い」

「確認が取れるまでは、納得しない。アーサフは生きていると、俺は信じているっ」

 薄い色の霧の中、取り囲んでいる群衆が聞いている中に、ディエジの声が大きく響いてしまった。

 マクラリ卿はこの件について、それ以上言及したくないのだろう、相手を連れながら歩み出してしまった。

「行こう。お前が戻ると聞いて、私も自領からリートムへ戻って来た。王城の方でも、皆が楽しみにして準備をしている。街の住民も楽しみにしている」

「俺が帰ることを街の人間は知っているのか? ならば戻って来た理由も?」

「知っているも何も」

 言いながら聖マル門をくぐり抜け、街の中へと入った時だ。

 声が響いた。

「リートムの新王、ショーティアのディエジ!」

「リートムの、ガルドフ家の新王、ディエジ!」

 門の内側の聖マル広場には、圧倒的な大群衆が詰めかけていた。その眼が全て、自分を見ていた。熱狂を込めて自分を見つめ、叫んできたのだ。

「……」

 圧に気取られ、ディエジは言葉を失う。いや、圧だけでは無い。それはうっすらとした恐怖だ。自分が、否が応もなく巨大なものを背負わされたと、自分の命運が完全に変わったという現実を、大群衆の期待と熱狂の眼の中に自覚させられた。

“嫌だ、ディエジっ。そんな責任を押し付けないでくれ!”

 あの時に友が感じたであろう背筋が冷える感覚を、やっとディエジは理解したのだ。

「ディエジ。気づいているか」

 動揺を見られるのは嫌だ。意識的に冷静の顔を作る。

「何の事だ?」

「彼らはガルドフ家の名を叫んでいる」

 ガルドフの新王! ガルドフ家のディエジ!

「バリマック族のカジョウが来た当初、そしてそのバリマックを駆逐するべくマナーハン勢が来た当初、彼らは特段に不満を覚えなかったそうだ。

 だが、コノ王の事実上の支配が確定していくにつれて、反発を示し出した。皆がコノ王に強引な介入してきたことに気づいたようだ。と同時に、やはり長らく親しんだガルドフという王名が必要と、再確認したようだ」

「……」

「つまり皆が、ガルドフの血を引くお前が帰還し、新王となることに心より期待している」

「……。いや。そうだろうか」

 声が、強張ってしまう。どう繕っても動揺は隠しきれないが、それでも言う。

「そうでは無いんじゃないだろうか。皆が求めているのは、ガルドフ家の血筋でもなく、勿論俺でもなく、……アーサフ本人ではないのだろうか」

「――」

「アーサフが在位していた数年間、リートムには特段な際立った繁栄や発展が有った訳ではない。だがその分、混乱もなかった。ごく当たり前に、当たり前の日常が続いていた。

 今、彼らは、その当たり前を求めているんじゃないだろうか。ただ、ごく普通で平穏だった時間が、それが一番求められいて……、だから、アーサフの時代が戻る事を、求めているんじゃないだろうか。

 だから……つまり……。別に俺が望まれている訳でなく……」

「――」

「……。でも、少なくとも俺は、アーサフの代理を務める義務がある。つまり、この人達全員の為に王の義務を務めないとならない。何としてアーサフが宗主であるべきリートムを護らなければならないと解っているから――、でも――、だから……」

 この男にしては珍しく、酷く歯切れが悪い物言いだった。つまり、恐れているんだな、と老卿は見抜いた。勿論、それについては何も言わないが。

「王城へ行こう」

 衆目の中、ディエジは固い顔で広場の中へと歩み出した。熱烈の歓迎の声と視線もまた自分についてくることに、激しい緊張が内蔵を締めるのを自覚した。

 目指す旧ガルドフ王城にはさらに多くの人が、そしてさらに重たい困難が待ち構えているとは、解っていた。


         ・           ・            ・


 ゆっくりと、階段を上がってゆく。

 慣れた道のりだ。十三歳で王城に出仕した時以来、数えきれない回数にわたって踏み続けた階段だ。

こんな時だというのに、記憶は簡単によみがえる。無数の記憶――笑いながら、苛立ちながら、怒鳴りながら独りで、もしくは共と並んで石段を踏みしめた時の風景が、鮮明な色彩を伴って心象によみがえる。

 もう過去は無い。消えた。今は、現実だ。

 険しい階段を上階まで登り切り、記憶よりずっと長いと感じる通廊を進む。その途中ふと、左手を見やった。かつてアーサフが使っていた部屋の扉が、なぜか開け放たれていた。今は使う者がいないのか、家具も装飾も持ち出されていた。何も無いがらんとした空間だけが広がり、記憶が過去になった事を告げていた。

 そして、この隣だ。

 目的の部屋だ。――アーサフの妻の部屋だ。

 今、その部屋の前では、珍しい光景が展開していた。四~五人の女達が一塊になりながら立ち尽くしていたのだ。

「ショーティアのディエジ様ですか?」

 一人の声に、全員が振り向く。一斉に膝を曲げて敬意を表す。こんな態を取られたのは初めてだ。こそばゆい。

「……。ここで何をしているんだ?」

「奥方様に部屋から追い出されました」

 一番歳若の侍女がすかさず答え、即座に叱咤を喰らう。隣の侍女が言い直した。

「いえ。奥方様は今朝からずっと塞ぎの虫に捕らわれてしまいまして……。今は少し御独りになられた方が良いだろうと思って、私達は部屋を空けました」

「俺が来ると聞いたからか?」

「――」

 互いに目配せをし合うだけで、誰も答えない。

 生涯において気まずさというものを知らなかったディエジが、今、初めてそれを実感した。と同時に、今から己が果たす義務にあらためて重たさを覚え、喉の奥が絞まった。

「王妃は、中から鍵をかけてしまったのか? 開ける事は出来るのか?」

「はい。合鍵ならば有りますので、開けることは出来ます」

「開けてくれ」

 彼女たちが顔を見合わせた躊躇したのは一瞬だ。この人の命には従っておかないと。これから、自分達の主君になるのだから。

 一人が慌ただしく鍵を持ち運び、扉の鍵を開け始める。ガチャリという冷たい金属音が鈍く響いて消えた。ディエジは強く息を吐いた。やるべき義務を果たす、それだけだ。扉の把手を掴み、ゆっくり押し開けた。

 瞬間、身を避ける!

 体のすぐ右脇の壁に当たった真鍮の水差しは、床に落ち鈍い音を立てた。急いで振り向いた視界の中で、彼女は今度は杯を握った。投げつけようと腕を振り上げた。

「奥方様!」

 侍女達の叫びと同時、杯は投げつけられ、また床に落ちて大きな音を響かせた。

「神の御前の恥知らず!」

 彼女は激しい叫び声を発した。

「よく来られたわね! まさか貴方が承諾するなんて思わなかったっ、アーサフ様の親友だった貴方が、こんな嫌らしい手段で王座を奪うなんて!」

「――」

 ディエジは答えない。彼女の言葉が真実だとの認識は自分にこそあった。だが。

 侍女達に出て行くように命じる。二人きりになり、部屋が静寂になった。

 自分の妻となる女宗主の方へ、主君である親友の妻へ、三歩進み出た。

「こんな下品な手段を――私と婚姻してまで、そんな事をしてまでアーサフ様の王座を横取りたいの? なぜそこまでの卑怯が出来るの!

 その顔は何? 少しは自分の恥に気づいているつもり? 一番アーサフ様の信頼を得ていたのに!」

イドルの顔が、怒りに満ちている。

 記憶と違う。記憶の中の彼女は、ただ素直で、愛らしくて、大人しいだけの少女だった。それなのに今、目の前に立つ少女はを剥き出している。

「答えなさい。アーサフ様の国を奪うのはどんな気持ちなの? 答えてっ」

 さらに二歩進んだ。

 アーサフの妻。

 アーサフがずっと愛した妻。その救出を渇望し、為に自滅へと進むことになった妻。そして今、その女性はアーサフの国の宗主となっている。

「聞いているの? アーサフ様の国を奪う恥知らず!」

 そうだ。アーサフの国だ。だから。

「アーサフの国だから、俺が引き継ぐ。他の誰にも渡す訳にはいかない」

 イドルの怒りに震える唇が、大きく呪詛を唱えた。いきなり新たな夫に向かって踏み出すと右腕を振り上げ、だが腕は即座に相手に掴まれた。

「放して! そんな言い訳――! そんな理屈――っ、

 元を正せば全て貴方が悪いのよ! 貴方がアーサフ様を止めなかったからこんなことに! なぜアーサフ様を独りで帰還させたのっ? なぜアーサフ様を引き留めて護ってくれなかったのよ!」

 言葉が、ディエジを刺した。

“あの時”

 もう何百回目だ。霧の中のアーサフの後ろ背を思い出す。あの時、もし自分があの背中を力づくに止めていれば、そうしていれば、今この場はどう変わっていたのだろう。自分とアーサフと彼女の現実は、どう変わっていたのだろう。

「貴方が代わりに死ねば良かったのよ!」

「――」

「アーサフ様ではなく貴方が死んでいれば! リートムも、誰も――私も苦しむ事が無かったのに!」

「……。そうだな。酷い言葉だが、そうだな」

 今、何を感じれば良いのか、判らなかった。今自分は怒るべきなのか、哀しむべきなのか、それとも笑うのが正しいのか。

 一つ解ったのは、こんな酷い言葉を吐く程に、ここまで大きく変貌する程に、この少女もまた苦しんだという事だった。最愛の夫を失って、それでも現実の中に立ち続ける為に、変わらざるを得なかったという事だった。

 それにもう一つ。

「リートムはアーサフ様だけの物よ。あの方が帰るまでは、私がリートムを護るから」

驚いた事に、二人共が同じ想いを抱いていた。

「父上にも関わらせない。貴方にも関わらせない。貴方を認めない。新王とも。夫とも」

同じものを、同じ想いの許に護ろうとしていた。不思議な事に。そんな事が有るなんて。

「……」

 ディエジはただ、固い表情のまま、相手の怒りを見据えてしまう。相手に対する感情の選択が出来ない。出来ないまま、そのまま言い切った。

「分かった。認めてもらわなくていい。

 それでも俺は貴方と婚姻を結びリートム王となる。国を護る。俺もまた、アーサフの為に」

「認めない! 汚らわしい策謀者っ、簒奪者っ。出て行って!」

 その通りに背を向けた。去っていくその背に向けて、彼女は延々と罵声をぶつけ続けるが、それももう聞き取らない。

 もう良い。彼女の激怒と侮蔑なら、どうでも良い。彼女は彼女で好きにやれ。自分はやるべき事をやるから。

 そして通廊へ出た途端、今度は侍女達の視線にさらされた。どこか責め立てるような、もしくは憐れむような視線を向けてくる。

 ディエジは命じた。

「奥方から目を離すな」

「はい?」

「奥方をこの城から連れ出そうとする者が現れるかもしれない。

いや。それ以上に、奥方自身が勝手に、妙な動きをするかもしれない。不用意に客人と接見させるな。決して目を離すな」

 女達が何とももやついた表情をさらす中、

「すでにマナーハンのコノ王から同じ事を命じられています」

また一番歳若の侍女が出しゃばった。

「奥方様からは絶対に目の離すなと、とっくにコノ王から命じられています。神の御前に恐ろしいことですが、イドル様が自害を試みたりするのではと、心配だからと」

「それは無いな。彼女は決して自害などしない」

 そう言って初めて僅かに口許を上げた。苦笑をした。

 通廊の外からは、賑やかな人声が大きく聞こえてくる。新たな宗主の入城で、王城は新たな道をたどり始めた。


               ・      ・      ・


「街が見えてきたぞ」

 その声に、アーサフの全身が反応した。身を乗り出し、思わず発してしまった。

「止まってくれ。一度皆、止まってくれっ」

 小街道の脇、アーサフは馬車から降りる。薄く透き通った霧越しに、前方を見据える。

 周囲は、暗緑色に染まった灌木の丘が連なっていた。海の様に広がる一面の緑碧色の遥かに、リートムの全景が浮かんでいた。

 リートム――。

 叫ぶ事や泣く事はない。ただ、背筋の辺りに熱い感触が走ったのは感じた。

 緩い風に霧がゆっくり流されてゆく中だった。自分が産まれて育ち、自分が統治することになり、自分が命運の全てを捧げることになった街を、長く、長く見続けた。

「もう良いでしょう?」

 リアが、馬を寄せて横に来ていた。

「時間が惜しいから。早く行きましょう」

「……。その台詞」

「何?」

 思い出した。そう。あの時。

 紆余曲折の果て、やっとリートムへとたどり着いた時、カラスのモリットもまた同じ事を言った。

“早く行きましょう”。

「何のこと?」

 そしてさらに前。

 やはり自分は、この場所からリートムを見た。

 たった一人だった。一夜にわたり馬を走らせ疲労し、困憊し、それでも早く、早くと憑りつかれたようにこの場にやって来た。強大な力が己の命運を変えた事を実感しながら、この場で、独りで、街を見た。

 あの時から、どれ程の時間が流れたのだろうか。その時間の流れに、自分は何かを変えられたのだろうか。

「市壁の周りに、多くの荷馬車と天幕が集まっている。報告の通りだ。かなり賑わっている様子だ」

 後方からキクライのミコノス卿が声掛けた。

「さすがは、マナーハン王国をエリ島最大の勢力にまでした男だ。リートムについても、入手した以上は何としても保持すべく、力づくで為政を執っている様子だ。

 今回の難事も、何が在っても乗り越えてゆく心づもりだろう」

「――」

「聞いてられるか。アーサフ殿」

「聞いている」

 ……

 聞いていた。

 低地の森でアーサフが必死に体力を取り戻している間、ミコノスは何人もの郎党達をリートムに派遣し、最新の情報を集め続けていた。その報告を逐一、アーサフは聞いていた。ようやく、初めてアーサフは、自分の国の現状を知ることが出来た。つまり、

 リートムではすでに、コノ王の救軍によってバリマック族は駆逐された事。

 バリマック軍に捕らえられていたリートムの旧臣達も皆、解放された事。

 しかしコノ王の後押しでイドル王妃が宗主座に据えられことで、住民達はコノ王の実効支配に気づき出した事。不満を訴え出し、再び世情が不安に傾き出した事。

「その世情の不安に対し、コノ王は新たな策を講じたようです」 

 ミコノス卿は、そう前置きをした。確か、薄暗さの目立つ夕方の頃合いだった。

「かなり興味深い、如何にもあの王らしい狡知な対策に思えます」

 暗い雲が空を流れ、冷えた風が途切れずに抜けて、それでなくても薄暗い低地の森が一層に暗くなっていた。ミコノスの館の全体も、普段にも増して重苦しい色合いに映る中、その門前で、淡々と続けたのだ。

「彼は、旧ガルドフ家の血縁者を探し出したようです。この者をイドル王妃と婚姻させて、共同統治者に据えることで、臣民の不満を取り除く策としました」

「――」

「その者は、かつて貴方が騙った、ショーティア湖の領主の、ディエジという豪族です」

「――」

 その名が、感情の全てを圧した。

(ディエジは生きていた!)

 体を覆う感情が強すぎ、息苦しさを覚える。胸が苦しく、ミコノスが続ける報告が良く聞き取れない。見る見る薄暗さを増す館の輪郭線ばかりが浮かび上がって見えた。

 ディエジは生きていた。とにかく今、ディエジは生きている。

 そしてコノ王の敷いた策に則り、『リートムの安定と繁栄の未来の為』、『もっとも平和的で、調和を呼ぶ施策の為』、イドルとの婚姻に承諾して、リートムへと帰還している。

 ……

「気になっているんでしょう? 自分の妻と自分の友の事が」

 リートムの街を見たまま、リアが冷ややかに声掛けてきた。

「貴方の妻の新しい夫になるのは、貴方の友人である家臣なんでしょう。皮肉ね」

「……。いや。違う」

 完全な図星へも、静かに応えられた。感情に流されるのはもう止めた。いや。違う。

「この状況だ。二人とも私が死んだものと誤解しているはずだ」

「そう? でもコノ王を始め、誰も貴方の消息を調べてないみたいよ。それでも貴方の妻と親友は婚姻に同意した訳?」

「私が死んだ誤解のままに、何かしらの確信に至ったのだろう。さもなければ、彼らは婚姻を了承しない」

「そう?」

 信じているから。

 イドルは、彼女は、泣くことしか出来ない。父王に強いられれば泣いて従ってしまうかもしれない。

 だがディエジは、彼は、どんな局面でも自分を護る。俗な権力志向などに惑わされ、自分を裏切ったりはしない。ディエジにかぎっては。いや。違う。

 それですら、構わない。例え権力を欲した結果としてイドルとの婚姻を望んだとしても、今は構わない。

 ディエジが、生きていてくれた。その一つだけで、未来はまた変わる。

 冷えた強い風が、灌木の丘を抜けた。枝先が大きく揺らいで鳴った。

「行こう」

 アーサフは言った。

「ええ」

 リアは返した。




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