9-2・ リア
アーサフには、納屋の外の様子は分からない。
明り取りの窓は高い位置にあり、木々の枝葉越しの小さな空しか見えない。一つだけの木製の扉には勿論、外から鍵を下されている。
それでも今日は、久し振りに好天になっているのが分かる。射し込む木立越しの陽射しが、少しずつ傾いてゆくのが分かる。そろそろ午後も深い頃合いだと分かる。つまりそろそろ彼女がやって来る時間だと分かる。
その通り、錠前を開ける固い金属音が響いた。
扉を押し開いて、彼女は姿を現した。いつもの通り、簡素な食事を乗せた盆を持ち、いつもの通り、感情を表さない冷めた表情だった。でも整った顔付だった。
「今日は。いつも有難う。今夜は久し振りに良い天気なんだね」
いつもの通り、こんな状況でも挨拶の言葉をかけてみる。
「――」
しかし彼女は返さない。素っ気ない表情は変わらない。これもいつもの通り。
いつもの通り、横たわったままのアーサフの横に近づく。背中を起こそうとしたのだが、
「大丈夫。自分で出来る」
アーサフは自ら上体を起こした。彼女は、意外な顔をした。
「食事も、自分でとれる」
自ら粗末なスープの鉢を取ると、匙ですくい喉に流し込む。さらにパンをちぎって食べてゆく。無言で、真剣な表情で食べ続ける。
「……」
昨日までから変わり、捕囚が急に、妙に元気付いている様を、彼女はじっと見続ける。パンの最後の一片で鉢をこすって一粒も残すことなく全て丁寧に食べ終え、大きく息を突いた時、初めて、淡と口を開いた。
「今日になって、急に体力が回復したって訳?」
「違う。そういう事ではない」
「どういう事?」
「この数日、目が覚めている時にはずっとここで歩いたり、小走ってみたり、とにかく体を動かせるようにしていた。少しでも早く体力を回復して動けるようにと」
「――。逃げたいと思っているのね」
「そうだ」
彼女はもう、それ以上聞かなかった。いつもの通りの素っ気ない態で食事の盆を手に取り、立ち上がろうとする。
その腕を掴んだ。
「一緒に行こう」
思いもかけない力の感触に、端正の顔が真っ直ぐに見返してくる。
「随分強く引っ張れるのね」
「このくらいの力なら出せる。多分もう、少しなら走る事も出来る」
「本気で逃げ出す気?」
「逃げる。とにかく一刻も早く逃げなければならない。何としても。
ずっと好天が来るのを待っていた。今日、陽が落ちたら、星明りを利用して私は逃げる。奴らには偽りの素性を言う羽目になった。だから嘘がばれない内に逃げる」
「貴方は誰なの?」
「私はリートム小王、ガルドフ家のアーサフ」
聞いた瞬間に、彼女の顔色が大きく変わった。冷めた顔が大きく驚愕を示した。
「……。本当に?」
「本当だ。だから何としても奴らに素性がばれる前に、ここから逃げなければならない」
「でも、いくら何でも逃げ切れる程には体力は戻っていないでしょう?」
「その通りだが、それでもすぐに逃げないと、もっと悪い状況に追い込まれる。
奴らにはショーティア領の豪族と、言ってしまった。だから奴らがショーティアまで行って真偽の確認を済ませて戻る前までに、絶対に逃げないとならない。とにかく早く、夜陰に紛れてこの森から逃げ切るしかない。
貴方に頼みたい。奴らの馬を二頭、盗む出すことは出来ないか?」
「二頭?」
「貴方も一緒に逃げるんだ。馬には乗れるだろう? 森から抜ける道は分かるか?」
「無理よ」
「怖い気持ちは分かるが、無理と言っていては何も出来ない。もし失敗して奴らに追いつかれてしまった時には、貴方のことは、私が拉致して連れ出したと言う。貴方に迷惑はかけない」
「無理よ。駄目。逃げられない。私は行かない」
「……そうか。ならば無理強いはしない。だが、頼む。馬はなんとかならないか?」
「……」
「それでも、私はやらない訳にはいかないんだ。この数カ月間、私の上には余りにも多くの事態が起こった。事態に、翻弄され続けて来た。だがもう、流されるだけは嫌だ。私は自分がすべきことをして、自ら先へと進みたいんだ」
「……」
目の前、彼女は無言になった。
ちょうど午後の濃い陽射しが窓越しに射し込む場だった。陽を受けて、彼女のすっきりと整った顔立ちが一層に映えていた。
「馬が無理ならば、せめて武器となる短剣を一本、それに食べ物は手に入らないだろうか?
――やはり、一緒に行くことは無理なのだろうか?」
「……」
黒色の眼が、感情が複雑に入り組んでいる内面を示している。こんな時なのに、その眼を美しいと感じる。見据えたままアーサフはじっと待つ。その間にも陽は静かに、確実に傾いてゆき、逃げるべき時は迫っている。
窓の外から、鳥の甲高い声が響いた。さらに腕を引き、彼女を近づけた。最後にもう一度懇願しようとした時、
「貴方は逃げられないわ」
言った。その口調が低い?
「――なぜ?」
「だって私が逃がさないから」
途端、みぞおちに衝撃が走る。女は信じられない俊敏でアーサフを殴った。続けざまに脇腹も打たれ、アーサフは思わず体を曲げ苦悶する。
「ここまで体力を戻していたなんて危なかった。飛んでもない獲物だったのね。すぐに縛らないと」
弾かれたように立ち上がり納屋の扉に向かう。素早く開ける。
その時、短い悲鳴を上げた。アーサフが投げた水差し瓶が肩にぶつかった。彼は即座立ち上がり追いかけ、腕を伸ばす。扉が閉じ切られる直前、左の手首を挟んでそれを阻止した。
「なぜだ――貴方がっ」
女が必死で外から扉を押す。挟まれた手首が猛烈に圧迫され、激しい痛みとなる。それを無視しアーサフは体全体で扉を押し開ける。
「なぜなんだっ」
アーサフが勝った。扉は大きく外に開いた。相手が即座に走り出そうとするのを、アーサフは背中から抱きついて捕えた。
「答えてくれっ、どうして! 貴方も捕囚では無かったのかっ」
「放せ!」
赤く線の刻まれた手首に女が噛みつき、思わず悲鳴を上げた。だがそれでもアーサフは放さない。体重をかけて女に覆いかぶさり、引きずる。たった今まで閉じ込められていた納屋へ彼女を押し入れる。扉を締め錠を下ろすや即座、走り出した!
「誰かっ! 誰か――捕囚に逃げられたっ、捕囚はリートム王よ! 誰か――早く追いかけてっ、捕まえて!」
女が納屋から叫ぶ。それを背に、アーサフは走る。何も考えずに、全力で走り続ける。追剝の家から、森から逃げることだけを考えて走る。
「誰か来て! 早くっ、早く! 奴を捕まえて! 早くここに来て、納屋よ! 奴は右手の方へ走っていった、捕まえてっ、誰か!」
「何が起こったんだっ」
叫びに、男の声が混ざった。ついに誰かが納屋に駆けつけらしい。
一瞬だけ振り返った視界に、数人の男達が納屋の前に立ち女と共に騒いでいるのが遠く見えた。その目が一斉に、こちらの方向を見ている。神様、もう気づかれたのか!
「馬を準備してっ、絶対に逃がさないで!」
瞬時に判断する。この状況では無理だ。走っても逃げ切れない。ならば身を隠す場所を探せ。今すぐっ、今すぐ!
アーサフは大きく右折する。馬が入り込めない程木々が密生している方向を目指す。どこでも良いから、隠れられる場所を探せ。間もなく陽が落ちる。暗くなる。そうなれば何とか逃げ切れるかも知れない。
その頃には早くも息が切れ、胸が熱くなる。息が熱くて、苦しい。脚を動かすのが辛い。それでも走らなければならない。それが今できる全てだ。
「西の方向よっ、西の斜面の方へ逃げた!」
「あっちは下草が茂っているぞっ、一度馬を迂回させろ!」
「小川の手前へ追い詰めろ!」
追手の叫びが聞こえ続ける。喉が熱い。肺が痛い。脚は動くことを拒否している。それでも脚を動かす。もう陽光は夕方の濃い黄色を帯びている。もうすぐ陽が落ちる。神様、早く。早く、隠れる場所を――そして日没を、早く!
瞬間、視界の隅に盛り上がった地面が映った。考える間もない、即座にその陰に滑り込む。と言うより、そこに潜り込まざるを得ない。体力の限界だ。
僅かに窪んだその場で身を縮め、焼けそうな呼吸を押さえ込みながら、アーサフは今日何度目かの、そして最後となる祈りを神に捧げる。
神よ。お願い致します。今は、逃がして下さい。
私にはまだやるべき責務があります。リートムの再建という、王としての責務があります。リートムを護るという義務、亡くなった家臣の、ディエジの無念に報いるという責務があり、だからまだ死ねません。その後ならば、いつでもお望みの時に魂を捧げます。だから今はどうか私への試練を御見逃し下さい。私を逃がして下さい。陽を沈めて下さい。神様!
熱い呼吸と早い鼓動の中、祈り続け――
待ち続け――
しかし。伏せた身を僅かに起こしたアーサフの耳はとらえた。
犬の吠え声だ。犬が連れて来た。神に、自分の願いを聴く耳は無かった。
「この辺りに居るはずだ、探せっ」
「犬が騒いだらすぐに放てっ」
犬がいては、隠れても意味はない。勝ち目はもう無い。だがそれでもアーサフは最後の抵抗を試みる。窪地の中、動かない体にそれでも力を入れる。姿勢を整える。呼吸を整える。
神様、それでも私は走ります。御加護を!
アーサフは窪地から飛び出した。
「あそこにいたぞ!」
叫びと同時、一斉に声が上がる。犬が吠える。アーサフは走る。
走れ。何処でもいいからとにかく走れ。息の続く限り走れ。逃げ切れ!
が。
唐突、アーサフは両脚を止めた。
もんどり打って転びそうになるのを、なんとか堪えた。蒼ざめた顔で振り返った。
かなりの距離を置いているというのに、しかし彼女の姿ははっきりと捕えることが出来た。片膝を地面に付き、低く構えた姿勢を見事に安定させ、確実に弩弓を打ち終えた直後の姿。
そしてアーサフの目の前、僅か一歩先の地面には、深く突き刺さった矢がまだその尾羽を揺らしていた。
「次は背中を貫くわよ!」
彼女の手はもう、次の矢が握られていた。
(終わりだ――)
そう思った途端、押さえ込んでいた苦痛が、全身に一気に襲い掛かった。立っているのすら耐えがたかったが、でも倒れ込むのは嫌だ、そんな無様を見せるの嫌だ。
正面から、犬、女、そして男達が迫って来る。男達の中には、例の首領もいる。このまま、この場において殺されて終わるのだろうか。ならば。
(神よ、承知致しました――)
後はただ見苦しくない最期を。リートムの王として。
立ち続けるアーサフの前で、彼らは止まった。金色じみた夕光の中、呼吸四回分の張り詰めた静寂の後、首領が低い声で言った。
「リートム小王、ガルドフ家のアーサフなのか?」
そうだ。だから、見苦しくない最期を。
「そうだ」
「リートム王はバリマック族に捕えられて殺されたと聞いたぞ。本当に貴様はアーサフ王なのか?」
「本当だ」
首領が露骨に顔色を変えている。アーサフは息を深く吸い、足に力をいれた。力のほとんど無い全身の姿勢を保ちながら二歩、前に出た。
「聞いて欲しい。捕えられて殺される前に、真実を伝えておきたい。私の国・リートムについての真実だ」
「何を言いたい」
「リートムへのバリマック族の侵攻についてだ。あれは、バリマック族の単独の行動ではない。マナーハンのコノ王が陰謀を画策して起こした事態だ」
首領の冷徹の顔も、さらに背後の男達も、全員が驚愕を隠しきれない顔となった。無言になり、夢中で見据えてくる。
「元々コノ王は、リートム領の奪取に野心を抱いていた。だからまず、私の許へ娘を嫁がせた。娘をリートム王家に婚姻付けた上で私を殺害し、王国を継承させる計画だったのだ。
その為に、バリマックの長・カジョウと提携した。彼にリートムを侵攻させ、その後にリートム救済の旗印の許にバリマック軍勢を駆逐し、そして娘を念願のリートム新王位に就ける算段だった。――これが、真実だ。コノ王の策謀だ」
「……」
「私を殺すなり売り渡すなりするつもりならば、好きにしろ。もう抵抗はしない。
だが、真実までは葬らないで欲しい。この事実だけは、必ず世に伝えて欲しい」
「その真実を、どうやって知り得た?」
「……。色々とあった」
一瞬だけ、皮膚の下にひりつく記憶が走った。カラスの顔それに幾つかの想いが浮かびかけて消えた。
追剝達の皆が、真剣な眼でアーサフを見入っている。日没前の、金色の木漏れ日の許で、空気が異様に張り詰めている。場違いな程に異様に。
「これは真実だ。諸聖人の御名において。これを、世に知らしめて欲しい。ただ、それだけを願う。お前達に、心より頼む」
最後にもう一度宣し、そして請願する。
「私は、神の御定めに従う。どうかリートムの真実を打ち捨てないで欲しい。私を信じて欲しい」
「信じる」
え?
あっさり答えた首領は、凄まじく真剣な眼だ。
「信じる。なぜなら我々も同じだ」
「――。どういう意味だ……?」
「同じ体験だ。我々の国も、マナーハンのコノ王の画策を受けた」
「――」
「一年ほど前。我等の王城は、王族内の後継問題で、豪族間の意見が割れていた。そんな時期に、ある僻地の村がバリマック族の襲撃を受け、我らの王は即座に駆け付けたのだが、その途上、完璧な待ち伏せに遭い、落命されてしまった。
王城内はいよいよ混乱をきたしたのだが、結局新たに王位に就いたのは、マナーハンのコノ王と親密であった王子の方だった。この時からコノ王も確実に介入の度を増し、いまや国は、マナーハンの事実上の属領のような様相にされてしまった」
「……」
「今思えば、コノ王は当初から、長く長く時間をかけて、我が国への介入の策謀を敷いていたのだろう」
「貴方は誰だ?」
首領の全身が突然、流れるように動き出す。片膝を曲げ、身を低くし、深く頭を垂れた。
「キクライ国の豪族・ユーナーン家のミコノスです。初めてお目通りをします。リートムの国王陛下」
これに、後方の牢等の男達も連なる。緩い風が抜け木立が揺れる森の中、全員がアーサフに対して敬意を表したのであった。
アーサフは黙した。
黙したまま、夢中で、必死で、そして素早く、この意外に満ちた大きな展開に賭ける。何としてもこの機を掴まないと。だから。
「私達は、手を結ぶことが出来そうだ」
立っているのが精一杯の中、しかし自らも信じられない程に威厳を含んだ声を発したのだ。
「私には今、果たさなければならない責務がある。
私は、失ったリートムの王権を取り戻し、混乱しているだろう内政を平定させなければならない。その為に、もしも可能であれば貴方に助力を頼みたい。
キクライ国のミコノス卿。答えてくれ。今の貴方の立場は、この森に亡命しているという事なのか?」
「はい。その通りです。親マナーハンを公言する新王に対し、亡き王への忠義の許に自国の独立を貫くべきと訴えた私は、為にコノ王より謂れのない断罪を受けました。自領を剝奪された上で追放令を受けた次第です」
「そうであるのならば、もしも私の復権がかなった暁には、今度は私が貴方の地位と名誉の回復の為に尽力したい。私がリートムの王へと復位すれば、それが可能になる」
「……」
金色の夕光の中、ミコノスの顔が歪んでいる。黙している。彼もまた、己の感慨に打たれている事を示してる。
「……。自領を奪われ、不名誉を負わされ、私はずっと屈辱と憤怒の中にありました。それでも、私は機を待ちました。盗賊まがいにまで身を落としても、機を待ち続けました。今、ようやくその機が訪れたようです。
感謝を致します。神に。そして貴方様に。リートムのアーサフ王」
機が来たのだ。ミコノスにも。
「私を信用し、私に従事してくれるのだな」
「はい。神の御名において。謹んで」
夕方の風と夕刻の光が、深い樫の森を抜ける中だ。ついにアーサフは勝った。絶望の連続となった時間の果て、今、初めて己の力で命運に勝利を納めた。
感謝をします。神よ。
「ミコノス卿。リートムの現状について、何か情報はあるか?」
「はい。幾つか知り得ています。
今現在はコノ王の娘である王妃が形式上の宗主となっていますが、これに領民は不満を抱き始めている様です。狡猾なコノ王ですから、この状況に何らかの対策を執ると思われますが。今のところは、これ以上は何も」
「もう少し詳しい情報が欲しい。偵察を送ることは出来るか」
「可能です。今すぐに私の郎党をリートムへ送りましょう。マナーハンの方へは、すでに密偵を潜入させており、随時に連絡が入る様になっております」
「感謝する」
「アーサフ殿。リートムの情報が入るまでにはいささか時間がかかります。その間は、貴方は充分に休んで体力を回復された方が良い。さすがに今の貴方は顔色も酷いし、背筋が揺れている」
「そうだな。確かに少し休みたい。貴方の館に戻らせてくれないか。
心より感謝をする。有り難う」
心より感謝をします。今、ここで。有り難うございます。神よ。
今度こそ、感情に流されずに現実に向き合います。一つの国の宗主として。――
ふと左手を見た。
彼女が、自分を見ていた。夕刻の金色の空気の中で見る顔は、室内で見た時より一層に印象深く映えていた。
ゆっくりと彼女へと、嫌味ではなく純粋な気持ちから訊ねた。
「貴方は、私を騙していたんだな。ここから出られないと。この森の中に捕えられていると私に言った。嘘だった」
「嘘じゃないわ。丸一年、この森から一歩も出ることが出来ないのだから」
「貴方は誰だ」
「私の父は、ユーナーン家のミコノス」
「……彼の娘だったのか。だから貴方も、気強い質なんだな」
「私はただ、一刻も早く父に領地を回復して欲しいだけ。生まれ育った地に帰りたい、それだけ」
表情は冷たく、親しみが無い、親しみが無い分しかし、強い意志を写す。そしてその意志は信用できる、と、なぜか見入る自分に思わせる。
「取り敢えず貴方は寝て。早く体力を戻して。私の望みを叶えるのに、貴方が欠かせなくなった訳だから」
「有り難う」
「貴方はもう、私にとっての同志だから」
「貴方の名前は?」
「リア」
やっと同志を得たという安堵が加わり、いまにも眠りたがる思考の中。金の色味を強める空気の中。リアという響きは妙に鮮やかな印象に響いた。