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9ー1・ リア

9・ リア


 長い時間の果てに思えた。薄い、霧越しの薄い光の中にいるような感触も。


 体の底の深い場所から、様々な物が浮かんで来る。

 ……霧 ……街の全景 ……渦巻く水、水音 ……眠れぬ夜、冷えた床の感触 ……泣く少女 ……「だって面白いから」 ……奴は笑って、ニッコリと笑って ……嘘だ、嘘だ、嘘だろう? ディエジ?

「起きて」

 嫌だ。

 このまま寝ていたい。もう嫌だから。このまま、色の無い、音の無い、感覚の無い、感情も思考も無い世界に居させてくれ。頼むからもう自分を苛まないでくれ。現実を見せないでくれ。

「起きて。早く」

 頬を叩かれている。困難と苦痛が待っている場へ戻されてゆく。嫌なのに。もう、本当に嫌なのに。なのに誰が――

 誰?

 女性だ。冷たい、美しい顔だ。

「起こすわよ」

 横たえていた体に、力が加えられる。止めてくれ、起きるなら自分で起きる、と言おうとしたが、声がかすれて出なかった。それ以前に体にほとんど力が入らず、ろくに動かす事が出来なかった。

 粗末な敷布の上、されるがまま背を起こされた。ここはどこだろう? 静かで暖かい。良い匂いがする。と、匂いを感じた途端、いきなり体が凄まじい渇望を示した。

「まず一口よ」

 目の前、若い女は湯気の立つスープの椀を突き出し、口に押し当ててきた。

「ゆっくり飲んで。慌てても飲めないわよ」

 内臓をえぐるような空腹感に責められているのに、上手く飲めない。むせた挙句に咳に苦痛を覚える。

「だからゆっくりって言ったでしょう」

 たった一杯のスープを飲むのに、酷い苦労と時間を強いられた。やっと飲み終えて空腹を満たした途端、全身は今度は眠りを欲する。だが必死で堪える。自分が置かれている場所を、懸命に見る。

 小さな部屋だ。先刻までのような牢では無い。何もないがらんとした空間には、明るい光と清浄な空気が満ちている。納屋か何かなのだろうか?

 そして若い女性の顔が、間近から自分を見ていた。

 すっと、冷ややかな目鼻立ちの女性だ。表情もまた硬くて、無機質だ。それでも明らかに美形と思わせる女性だ。

「痛む所はある?」

「――。いや」

 やっと、かすれた声を発する。

「水の瓶が手元にあるわ。そのくらいなら自分で飲めるでしょう?」

「貴方は、誰だ?」

 喉に精一杯の力を込めて言う。訊かずにはいられない。この得体の知れない追剝の巣で、何が起きているのだろう? この人は誰なのだろう?

「貴方も、捕えられたのか? 出られないのか?」

 僅かに表情が変わった。さらに冷たさを帯びた。

「そうね。ここから出られない。ずっと」

「ずっと?」

「もう一年以上ここから出られない。閉じ込められて」

「……。可哀想に」

 こんな状況なのに素直に同情を覚えて口にした。

 相手が再び自分の体を寝かせようと伸ばした手を一度、遮った。その代わりに、こちらから彼女の手に触れ、何とか力を込めて握った。

「体力が戻ったら、走れるようになったら、私はすぐに逃げないといけない。その時には、一緒に逃げよう」

「――」

「貴方の名前は?」

「言えない。禁じられてるから」

「私の名前は――いや、これも言わない方が良い。今は互いのことを知らない方が、関わりを持たない方が良い。

 教えてくれ。私はいつ、この部屋に運ばれた?」

「さっき。朝方。今は昼過ぎ」

「さっき……」

 まだ霧のかかっている思考を、何とか動かそうとする。今の自分の立場を急いで、何とか確認しようとする。

 あの追剝の首領は、自分の事をショーティア領主のディエジだと思っている。そちらへ身代金を要求しに行く。

 ショーティア城にいるディエジの身内は、即座に支払いに応じるのか? もしすでにディエジの死を知っているとしたら? その時点で自分の嘘がばれるのか? そして嘘が、自分の身分がばれた場合、どう殺される? だからその前に、何とか逃げる手段をっ。

 考えなければならないことが、幾らでもある。なのに、アーサフの体は当然のように眠りへと引きずられていく。駄目なのに。寝ては駄目なのに。考えないと……、だから、

 駄目だ……寝ては、駄目だ……

 目の前では彼女が立ち上がったのが見える。

「私は貴方の世話を命じられたから。だから死なれては困るの。今はもう寝て」

 素っ気ない口調が、薄れてゆく感覚の中に聞こえた。高い上背と引き締まった体躯を見、それが端正な顔を一層に引き立てていると、漠然と思った。

 その頃にはもう、眠気に抵抗を続けることが出来なくなっていた。くすんだ、静かな昼の光の中で眠りに落ちていった。

 

           ・           ・          ・


 リートムの街の空は、今日も重たい無彩に淀んでいった。

 数か月前にバリマック族の急襲を受けて以来、街は、嵐のような激動にさらされた。その果てに大きく変わり、活気と賑わいを示すようになっていた。

 毎日外地から多くの人々が押し寄せ、多くの物資が運ばれ、大きな声を張り上げながら慌ただしく動き回っていた。市場も大路も王城も朝から晩まで、騒々しい盛況を示すようになっていた。

 だが彼女だけは、変わっていなかった。

 ――

 王妃・イドルは、何も変わらない。

 今日も同じだ。ガルドフ王城の最上階にある自室から、ただ外を見ている。

 窓の下には、城門が見える。そこでは今日も朝から、引っ切り無しに人と荷車が行き交っている。王城の臣下や使用人達や、街の馴染みの商人や住民達や、それに外地からの顔も多行き交っている。

 マナーハンから来ている顔も、多く見える。そして彼女は、気付いている。

 マナーハン人の増えるにつれて、街の住民達の不満も高まってゆくのに、気付いている。不満はとっくに不満の段階を超え、反発へと近づいてきていることに、彼女もまた確実に気付いている。

“リートムを奪うマナーハン女、卑怯な女はマナーハンへ帰れっ”

“リートムの王家はガルドフ家だけだ、泥棒女は出ていけっ”

 街中では、酷い言葉が自分に向けられているらしい。でも確かに、その通りだ。自分が『女宗主』という称号を得ているなんて、おかしい。だってリートムの正当な王であり宗主でありえるのは、自分の夫だけなのに。

 ――夫。

 救えなかった。救えたのに。

 あの時。最愛の夫を、残酷に傷つけ、そして失った。

“なぜ何も言ってくれなかったんだ、せめて一言でも言ってくれていれば……!”

 あの時にもし、この人は自分の兄だと、兄が今ここに居るのはおかしい、何かが仕組まれていると一言だけでも発していれば、命運は変わっていたのに。

 自分は、ずっと後悔し続けるのだろうか? 後悔を繰り返しながら毎日、ただ窓から外を見降ろし続けるのだろうか? 毎日毎日、自分を責め続けて、でも何をしてよいのか解らなくて。だからこうやってずっと、ずっと、ずっと窓から下を見続けて……。

(――嫌だ)

 ふと、そう思った。

「奥方様。下では何か起こっています?」

 室内には、何人もの女達がいた。全て自分付きの侍女達だった。一国の女宗主という身分に相応しくと、父王がマナーハン本国から送ってきた、きらびやかな服装の女達だ。

「なんだか賑やかな声が響いてますね。何が見えます? 誰かの来訪ですか? マナーハンからの使者ではないかしら?」

 最年長の侍女が如才ない態で話題を振ってゆく。

「きっと御父上からの使者ですよ。違います?」

「分らないわ」

「きっと今日も、マナーハンから何かしらの連絡が来ますよ。だってコノ王様は貴方様の事を心から心配なさっていますもの。贈り物も添えてお手紙を送って下さってますよ」

 振り向こうともしない女主人の背中に、それでも声を掛ける。彼女は、イドルが幼い時から、側仕えていた。誰の言葉も素直に聞く、素直に笑う、本当に少女らしい、姫君らしい姿を、良く覚えていた。勿論、恥じらいながらも嬉しそうに嫁いでいった姿も、良く覚えていた。

 今回リートムに派遣されるにあたり、コノ王からはしつこい程に念を押された。

 ――イドル妃の周囲が落ち着かないので、常に側にいるように。

 ――イドル妃が酷い気鬱に陥っているので、充分に慰めるように。

 ――イドル妃が酷い気鬱の果てに無謀な行動を起こさないよう、監視するように。

 この心配通り、確かに姫は笑う事を失っていた。塞いだ暗い顔だけだった。その顔で窓辺に座り、後ろ背を見せるだけの存在になっていた。

(でも、それも当然よね。だって嫁いですぐに蛮族に城を襲われ、夫を殺され、自身も囚われるという大変な目に遭ったのだから。その挙句に女宗主という大変な地位に就いたのだから。気鬱になるのも当然よね)

「マクラリ卿はまだ自領にいるの?」

 後ろ背のまま、女主人は訊ねてきた。

「卿に登城の予定はないの?」

「リートムの豪族のマクラリ卿ですか? 私どもは何も聞いていませんが」

「そう」

「その卿に、何かの御用があったのですか? 御相談事でしたら、マナーハンから派遣された相談役が今、城内にいますよ。呼びましょうか?」

「いいわ」

「奥方様っていっつもリートムの人ばっかり頼りにするんですね。マナーハンの人を頼りにすれば良いのに。コノ王様を頼りにするのが一番良いのに」

 一番年若の小間使いが、無邪気に発した瞬間、外に向けられていたイドルの顔が歪んだ。

(だから――)

 詰まるような息を、灰色の外界に吐いた。

(こんなのは、もう嫌)

 振り返る。室内の侍女達に言った。

「みんな、部屋から出て行って」

「? 奥方様? どうかなさいました?」

「早く出て行って」

「……いえ、でも。貴方を独りにすることは出来ません……」

「私を独りにしては駄目と言われているの? 父上にそう命じられたの?」

「いえ……はい、それもありますけれど、でも、心配ですし――」

「イドル宗主様、どうしたんですか? 何をそんなに怒っているのですか? まさか御父上のコノ王様が御嫌いなのですか?」

 再び年若の小間使いが無神経に発した時だ。

(こんなのもう嫌ですっ。神様)

 イドルの声と顔が、初めて苛立ちを示したのだ。

「私は自分の感情を出してはいけないの? それも許されないの?」

「なんの事ですか? 私はそんなこと思ってません」

「私は囚人じゃないわよ、監視しないで、出て行ってっ」

「奥方様、私達――」

「出ていってって言ったのっ、聞こえなかったの? 今すぐ出ていって!」

 初めて見る女主人の剣幕に、侍女達は唖然とする。女主人に何が起きたのか解らず、当惑顔のまま年配の侍女がなだめようとした時だ。

「失礼を致します。イドル陛下」

 部屋の扉口に、マナーハン人の取次役が現れた。

「お邪魔をして申し訳ありません。たった今本国のコノ王よりの使者が登城しました。奥方様へのお目通りを申し出ています」

「嫌です!」

 即座、苛立ちのままにイドルは怒鳴った。

「私は嫌っ。誰か別の人と会ってもらって」

「ですが。奥方様との直接の接見を強く申し出ています。今すぐに、二人だけで接見したいとの事です」

「嫌だと言ったわよ! 聞こえなかったの?」

「ですが――。その者は、自分の名前を伝えれば、きっと奥方様はすぐにお目通りを許して下さるだろうと言っていました」

「え?」

「モリットとの名前だそうです」

 イドルが顔色を変えた。苛立ちの上に、さらに大きな感情が加わった。


 現れた者は、前回会った時とは全く異なる出で立ちになっていた。

 上質の旅装外套と長靴に身を包み、高価な飾り剣を腰に差している。伸びかけの髪はきちんと束ねられ、顔や手の汚れも洗い落とされている。

 そして左手の人差し指には、正規の使者である事を示すマナーハン王国の紋を印した指輪をはめていたのだが、

「やあ。久しぶり、イドル」

 にっこり笑った顔は、以前の通りだった。まごうことなくコソ泥の、カラスのモリットだった。

「……」

 イドルの表情が震えている。細い指先もまた、僅かに震えている。かつての無垢気さからは程遠い、激しい否定の表情になっているが、妹のそんな様子など気にしない。モリットは早々に長椅子に座ってしまった。室内に控えていた侍女達に、気安く訊ねた。

「今、マナーハンから駆け付けたところで、さすがに疲れた。何か飲物を貰える?」

「いいからっ。飲物なんていいからっ。貴方達はすぐに部屋から出ていって!」

 いきなりの大声に、室内にいた侍女達は戸惑う。突然やってきた見知らぬ若い使者の馴れ馴れしい態度以上もおかしいし、それ以上に、先程から女主人の態が一変している事がおかしい。おかし過ぎる。

「出て行ってっ、早く! 早くして!」

 しかし慌ただしく追い出され、部屋の扉は固く閉ざされてしまった。

 兄妹は、二人きりになった。兄は妹の怒りの視線に、真っ向からさらされた。

「……。イリュード」

「モリットだよ。まだ当分は。この名前を結構気に入っているんだ」

「――」

「何か飲物をくれよ。すごく喉が渇いているんだ。

 そう言えば、あの夜、アーサフ王がここに戻ってきた件については、ずっと皆に黙っているんだね。良い判断だと思うよ」

 その時、唐突にイドルは兄に近づいた。座っている兄の頬を打った。

「――へえ。怒鳴るだけじゃなく、人を殴ることも出来るんだね」

「何をしに来たのっ」

「驚いたよ。昔からずっと、大人しいだけの気性だと思ってたよ。いつも周囲の言う事を素直に聞いて。だから、目の前で自分の夫が破滅しても、何もしないで泣いてるだけだと思ってたのに」

 凍り付いたように口を引き締める。次の瞬間、反射の様に再び兄を打った。叫んだ。

「全て貴方が悪いんじゃないっ、貴方のせいなのに!」

「そう? 俺のせいなの? だったらあの時、すぐに俺の素性をアーサフ王に言えばよかったのに」

「……あの時は――だって突然に貴方が――驚いてしまって……っ」

「何にせよ、俺が自分の兄だって、その一言だけを言っていればね。アーサフ王の運命自体は変わらなかっただろうけど、でも、少なくとも、妻に裏切られたという傷は負わずに済んだのにね。まあ、今さら何を言ってもどうにもならないけれど」

 にっこりと、モリットは笑った。

 そしてイドルは、全くの正論に言葉が出なくなった。

 後悔しても後悔しても後悔しきれない、あの時時から、世界は変わった。自分を取り巻いていた暖かく柔らかい世界は消え、代わりに現実が現れた。自分で考え、悩み、苦しみ、怒りと共に叫ぶという世界に生きることを強いられてしまった。

 屈託なく座り続ける兄が、さらに現実を突き付ける。

「マナーハンのコノ王から、父上からの伝言」

「……。嫌。聞きたくない」

「聞きなよ。驚くよ。

 ショーティアのディエジ卿の無事が確認された。今、こちらへ向かって来ている」

 その瞬間、イドルの心象には、夫の横にいつも並んでいた長身の家臣が描かれた。

「あの人が? だったらアーサフ様は? だってあの人はいつもアーサフ様と一緒にいたから、アーサフ様の方は?」

「いない。どこかに消えた。死んだかは知らないけど、もう見つからない。貴方も分かってるだろう?」

「――」

 解っている。認めたく無くてもいずれ、現実は自分を覆い尽くす。もう一度あの夫と地上で相まみえる事はないんだろう。そう認めざるを得ない。

 その時ふと、小さな考えが頭をかすめた。

“貴方がアーサフ様を殺したの?”

 さすがに口に出すことは出来なかったが。

「それでね。コノ王からの命令を預かっている。

 ディエジ卿が戻ったら婚姻を結ぶようにだって」

「――。え?」

「リートムの宗主権は引き続き、貴方が掌握する予定。新郎やこっちの宮廷から何を言われようと譲渡せず、貴方が引き続きリートムの女宗主。その上で、ディエジ卿と結婚しろだって」

「――」

 長い沈黙になった。

 イドルは長く無言で兄を見続け、それから低い声で言った。

「嫌よ」

「と言われても困る」

「言っている意味が解からない」

「言った通りだよ」

「私はアーサフ様の妻なのに、アーサフ様が生きているって信じているのに、再婚なんて出来るわけ無いじゃないっ」

「だから言っただろう? 残念だけどもう死んでるよ。貴方だって本心ではそう思ってるんだろう?」

「……」

「コノ王の言う通りにしてくれよ。どうせ貴方はコノ王には逆らえないよ」

「なぜ? なぜ逆らえないって言うの? なぜなの? 私は嫌よ。もう父上には従うのは嫌!」

 言い切った。

 当然のように言い切ったことに、自らも驚き、怖くて指先が震えた。だが泣いては無い。食い入るように兄を見てはいるけれど、泣かない。

 あの時、泣いてしまった。そのせいで大切なものを全て失ってしまった。だからもう泣かない。悔やみきれない後悔を負って苛まれるのは、もう嫌だ。

「もう……嫌だから……っ」

 薄灰色の空には、薄日が射している。

 窓の外からは、賑やかな人声や物事が響き聞こえている。大きく変わっていく彼女の内面などとは全く関わりなく、旧ガルドフ王城は大きな活気に満ちている。

「本当に、変わったね。イドル」

 長い沈黙を破り、モリットは怒りを貫く妹に笑みかける。

「そんな風に不満をぶつけるなんて、初めて見たよ。随分変わった。まさか、父上に反発するなんてね」

「貴方は全然変わってない。イリュード」

「モリットだよ」

「父上の命じたことになら何にでも従っている。周りの人達を傷付けて、それどころか神に反する事までして――、イリュード」

「モリット」

「そこまでして、父上に従い続けて、それって貴方には正しい事なの?」

「――」

「子供の頃から一度も人前に出ることを許してもらえず、王子の身分なのに存在を忘れられて、陰にばかり立たされて、酷い事ばかりやらされて、そうやってずっと生きてる。

 それって正しいの? この先もずっとそのままなの? イリュード?」

 イリュードの顔から、笑みが消えた。

 固い真顔となった。ゆっくりと立ち上がると、ゆっくりの四歩で妹の前に立った。

「父上に決められたままなの? 私は嫌。もう嫌。でも貴方はそれが嫌ではないのね」

 と。兄が右手を動かした。妹の首にそっと手を当てた。

「イリュード?」

 首を掴んだ手に、僅かに力が入った。そのまま、恐ろしく真剣な眼のまま妹を見続ける。豊かなはずの眼の色が消え、冷え切っている。イドルの喉がほんの少し、詰まり出す。

「イリュード、止めて」

 ふっと、手は外された。

「怒ったの?」

「――」

 答えない。無言になった室内では、空気が淀んでいる。窓の外、往来が生み出す賑やかな物音が、妙に浮き上がって響く。兄が自分を見ている。

 怒っているのではないの? 違うの? もしかして、哀しんでいるの? イリュード?

 そう訊こうとしたのだが、

「と言うことだから」

 兄の顔がまたニコリと笑った。

「ディエジ卿が戻ったらすぐに正式に婚約を発表して、それから挙式という流れで。おめでとう、イドル」

「……言ったわよ。もう父上の言う通りにはしない。もし無理強いをしたら、父上と貴方がやってきた事を、リートムの領民に知らせるわよ」

「そう? 好きにすれば良いよ」

「もう後悔したくない。貴方のようにはなりたくない」

「ならば頑張ってね。どんなことを仕出かしてくれるのか楽しみにしているよ。

 ディエジ卿は良い人だよ。見た目と口調は少し怖いけど、話していると良い人だってすぐに判るから。いい伴侶になるよ。貴方は幸せになれるよ」

「嫌だから」

「じゃあ。俺は一度マナーハンに帰るから。厨房によって果実水を貰ってく。――またね」

 そのまま扉へ向かってゆく背中に向かい、イドルは最も恐ろしい言葉をぶつけた。

「神に呪われるがいい、父上も貴方も」

 立ち止まり、びっくりした目で振り返った。それから笑み、

「本当に、変わったね。イドル」

 弾むような足であっと言う間に、部屋から出ていった。


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