8-2・ ディエジⅡ
連なる灌木の丘は、今日も乳色の霧に覆われている。そこを歩く者に、冷えて湿った空気の感触を押し付けてくる。
しかし今、ディエジとモリットは寒さなど全く感じていなかった。それどころか、うっすらと汗をかいていた。歩くというよりはほとんど駆け足に近い歩みで、彼らは延々と丘陵の上を進み続けていた。
「まだですか?」
モリットの口調には、もう疲れた、もううんざりとの実感がこもっていた。
「また着かないんですか? だったら少し休みませんか?」
この数日間、歩き通しだ。今朝も灰色の空が明るくなるや即座、ずっと歩き続けていた。疲れは溜まりに溜まっていた。たった今も小高くそびえる丘陵の斜面を、やっとの思いで登っていた。
「休まないんですか? 答えて下さいよ。今日の昼には着くって言いましたよね。もうとっくに昼を回ってる頃ですが、まだなんですか? 答えて下さいよっ」
「もう直ぐだ」
前を歩むディエジは、背中を向けたまま答えた。
「俺が覚えてるだけでも、もう十回は言ってますよ、“もう直ぐだ”」
「お前が何度も訊くからだ」
「でも、まだなんですよね。今日は霧も深いのに、それなのにまだ休みなしで歩くんですか?」
「もう直ぐだ」
「今度こそ本当なんですね、本当にもう直ぐなんですねっ」
「――。もう、直ぐだ」
そう言って、前方から振り返った。
小高い丘の頂に、ディエジは立ち止まっている。その顔が笑っているのをモリットは見る。初めて見る笑顔だ。
やっと追いついて隣に立った瞬間、吹き抜ける風を感じた。斜面のこちら側では西風が強く抜けて、まさに霧が押し出されているところだった。乳色に閉ざされていた視界が少しずつ開けて出しているところだった。
消えてゆく霧の中に、灰色の水面が見え始めている。水面は少しずつ少しずつ、絨毯を広げるように大きくなってゆく。上空から微かだけ差し込んできた光を受けて、水面は鈍い青色に光り始めている。
その様をモリットは目を丸くして見つめ、そして、
「大きい」
思わず発した。
消える霧に、世界は大きく広がった。視界の右から左の全て占めて、巨大な湖面が姿を現したのだ。さらに一番右の端には、湖を見下ろす断崖も現れた。その急斜面に、一つの重々しい城がへばりついている。
見つめているディエジの顔が、笑んでいる。笑い、大きな安堵を示している。
彼は今、ようやく解放されたのだ。歩いている間ずっと彼を縛り続けてきた追手への警戒感から。再びあの奇異な獄に繋がれるのではという恐怖感から、逃げ切れたのだ。
「大きな湖ですね。それに城も大きい。あれが貴方の生まれ故郷なんですか?」
モリットが城と湖を見ながらはしゃぐように声掛ける。
「凄いや。あの城からだったら、湖を全て見下ろせますね。ほら、あの高い場所にあるテラスに誰かが居ますよ」
「湖も街道も見透せる場だ。見張りが立ってるんだろう」
「そうかな? どうも女性みたいですよ? ほら、綺麗な赤色の服だ、灰色の中だから赤い色が凄く目立ちます」
「だとしたら、カティアだ」
「カティアって誰です?」
「久しぶりだ。全然変わってない。カティア」
だからカティアって誰ですか? とさらにモリットが訊ねかける一呼吸前、ディエジは前方の斜面へ走りだした。湖からの風をまともに受けながら、自分の生まれた場・安全が確保された場へと急ぎ走り下ってゆく。
目指す城の方でも、領主の帰還に気づいたらしい。閉ざされていた城門が慌ただしい様で開けられてゆく。そこから何人もの従臣やら使用人やらが飛び出してくる。全くの突然の、久々の城主の帰城を出迎えようとする。その中を、
「ディエジ!」
鮮やかな赤の服の裾が泥で濡れるのも気にするものか。彼女もまた城門から飛び出して来た。高い上背と派手やかな美貌の持ち主だ。
「ただいま」
ディエジがついに生まれ育った城の門に達した瞬間、彼女のたっぷりと化粧をほどこした顔は有らん限りの感激をしめし、
「この呪われた馬鹿が!」
真っ向からディエジの頬を平手で打ったのだ。怒鳴ったのだ。
「何をしていたの! なぜすぐに連絡をよこさなかったの! リートムが急襲されてアーサフ王が死んだっていう噂ばかりが流れてきて、なのに何で早くここに戻ってこなかったのよ! どれ程心配した思っているの、この大馬鹿が!」
怒りのまま、夢中で相手を抱きしめたのだ。
遅れて到着したモリットは、知りたくて仕方ない早口で訊ねた。
「ディエジさん、こちらの綺麗な人はどなたですか?」
「俺の母親だ」
え? 本当に? と言いたげに振り向いたカラスを、母親の方も睨む。
「お前こそ誰よ。――ディエジ、お前の連れなの? この薄汚いガキは」
「モリットだ。今回帰城するに当たって、色々と世話になった」
「世話になったって、違うでしょう?」
「何が?」
「貴方の方が世話をしたんでしょ? このガキもその巡礼の仲間なの?」
「巡礼って、何の話だよ」
「城に来たのよ。昨日、突然。
貴方に大変な世話になった、追剝に襲われているところを貴方に助けられて命拾いしたっていう巡礼の男よ。そんな事している暇があるなら、何でさっさと戻ってこないの? リートムの落城以来どこで何をしているのかと私がどれだけ心配――」
「待てよ。俺は巡礼なんて助けていない。人違いだ」
「そんなはず無いわ。西の街道筋でショーティアの若い領主殿に助けられたと言ってきたのだから。つい先日よ」
「聖地巡礼者がこの辺の街道を通るはずないだろう? リートム辺りなら、聖者リートに祈願する巡礼を見るが。どういう事だ?」
「そんな事、知らないわよ」
「確かに、すごく妙な話ですね」
モリットが図々しく口を挟み、それをカディアが怖い目で睨みつけた時だ。ついに彼らの頭上で空は耐え切れなくなった。冷たい雨粒がゆっくりと降り始めた。
「こんな話はどうでもいいわ、ディエジ。中に入りましょう。
全く……リートムがバリマック族に奪われたって聞いてからずっとずっと心配してたのに……何の知らせも送ってこない馬鹿ときたら……。
誰かっ。すぐに厨房へ走りなさい。今すぐに裏庭の豚を一匹潰して焼くように。あとパンは充分にあるのか見て。足りなかったらすぐに焼くのよ。急がせるのよ。
ディエジ。話したいことが山ほどあるわ、早く城に入って」
息子より十四歳年上の、そして実年齢より遥かに若作りのカティアが、背の高い息子の肩に腕をかけ、共に城門へと向かっていく。周りの使用人達もまた、嬉しそうに若い領主に付き従って、城門をくぐってゆく。その一番後ろにカラスのモリットも付いて、中へ入ってゆく。
……ショーティアのディエジは今、帰還した。
彼の焦燥と絶望の時間は、過去になった。次に現れたのは、新しい現実だった。
・ ・ ・
領主の帰還から、数刻後。
太陽は重い雲の向こうに隠れたままだった。そのまま、ゆっくりと、ショーティア湖の水平線へと落ちてゆこうとしていた。
久々に領主を迎えての夕宴の準備に、誰もが忙しいのだろう。城内の人々は食堂や厨房や貯蔵庫の方に集まり、他の場にはほとんど居なくなった。湖を見晴らせる西のテラスからも、そこから崖を下って湖畔へと繋がる長い石段からも、人の姿は無くなっていた。
そして湖では、普段なら多く見かける水鳥も消えている。静まり返っている。まとわりつくような細かい雨と、時折に抜ける風だけとなっている。
その静けさを破ったのは、モリットだった。
「ディエジさん――っ」
モリットが雨で滑りやすい石の急階段を、慎重に一歩ずつ下りて来た。
「ディエジさん、何を見ているんですか、ディエジさんっ」
ディエジは振り向かなかった。
彼は独り、湖岸へと下る階段の半ばにいた。すり減った石段の一つに腰かけたまま湖を、その向こうを見据えていた。
ちょうど低く垂れこめた雨雲の下から、太陽が現れたところだった。湖の水平線に間近い太陽から夕光が差し込み、灰雲と霧雨の世界を色で染め出したところだった。
ディエジの顔もまた、真正面から光を受けていた。
固く引き締まった顔が雨に濡れ、濡れたまま金色の光を受けていた。その容貌は確かに、威風を感じさせた。確かに高潔の印象で、王としての力強さを感じさせるものだった。ようやく横までたどり着いたモリットは、その時素直にそう思った。
「雨に濡れてますよ。こんな所で何を見ているんですか?」
ディエジは振り向かない。湖の向こうに落ちてゆく金の陽を見続ける。霧雨と、夕光と、僅かな風を受けている。
長い静寂になった。それから、言った。
「まだ、死んだと決まったものでもない」
「アーサフ様の事ですか?」
「俺も長く捕えられて、行方知れずと見なされていた。だから、奴も俺と同じような目に合っているという事だってある。奴が死んだというのは、噂だけだ。誰も本当の消息を知らない」
夕陽を見たまま、噛み締めるようにゆっくりと言う。
先ほど彼は、自分が捕えられていた間の世情について、母親と家臣から話を聞いた。
……バリマックに征服されたリートムは、マナーハン軍勢の力で解放された事。その際、首領のカジョウも戦死した事。
……リートムは事実上、マナーハンのコノ王の為政下に入った事。
……それに対してリートム住民達が不満を示し始めている事。この不満を減ずるために、コノ王はイドル王妃をリートムの女宗主と定めたが、それでも不満は続いている事。
……バリマックの捕虜となっていたマクラリ卿を始めとするかつての旧臣達は、コノ王の助力もあり無事に解放されて、帰還した事。
だが。
……アーサフ王だけが帰還しなかった事。おそらく彼だけは、バリマック兵の手に落ちて、真っ先に殺害されたのだろうとの噂が流れている事。
金の陽が、湖面へ近づいてゆく。ディエジが湖と雨と夕陽を見ながら、呟く。
「あの時。止めることは出来た」
「あの時って、いつですか?」
「アーサフが独りでリートムに戻ると言った時」
モリットがじっと見る。霧雨と夕光を受ける相手の表情は硬く、厳しい。美しい。
「奴が出立するのを、止める事は出来た。殴って押さえつけて止めることは出来た。でも、それをやっては、アーサフの意思を頭から否定することになる。
ずっと王としての自分を認めらなくて悩み続けてきた奴の意思を真っ向から、完全に押し潰すことになる」
深い霧の中。潰れかけた僧院の一室。深い霧の中。潰れかけた僧院の一室。アーサフの泣き出しそうなまでに頑なな顔を、二人ともが思い出していた。途方も無く遠い彼方の時間を、覚えていた。
陽が水平線に近づいてゆく。灰色の湖面の一部に光を落とし、そこだけを金色の帯に染めてゆく。それをディエジは見続ける。
「それに。それよりずっと前にも――。あの時も――出来た。
出来たんだ。止める事が。奴があんなに望んでいたのに」
「いつの何の事です?」
「奴が王になる時だ。奴は、嫌がった。泣いて言った。『王になりたくない』と。『代わりにお前が王になってくれ』と、泣きながら頼んできたんだ、あの時。
だが俺は拒否した」
「なぜ?」
「なぜなら、王座に就く者として、奴が正統だから。まして、まるで奴の動揺に付け込んで王座を横どる様な振舞いだけは、そんな事は絶対にしたくなかった。どうかんがえても、卑怯じみていると思えた。だから、奴にそのまま王座を強いてしまった。だが――」
「――」
「それは――間違いだったのかも知れない」
「――」
「王位に就いた後、奴は自分の力量に悩み続け、苦しみ続けることになった。
結果として俺が強いた事が、奴を追い詰めてしまったのかも知れない。その果てに、単独でリートムへ戻るなんていう無謀を言い出すまでの、ぎりぎりの場へと歩ませてしまったのかも知れない」
「――」
「あの時俺は、奴の望む通り、王位を受けていれば良かったのだろうか」
「で。貴方はその時、リートム王に成りたかったんですか?」
はっと、ディエジが振り向いた。元から鋭い顔が格段と厳しくなり、真っ向からモリットを睨んだ。
「なんでそんな怖い顔になるんですか? 正直なところ、その時貴方は王になりたいって思ったんでしょう?」
「黙れっ、貴様に何が解るんだ!」
完璧に突かれて、怒鳴る。永くずっと消化しきれずに残されてきた感情を思い返し、混乱のまま怒る。
“ディエジ、お前が代わりに王になってくれ”
あの時自分は、王座を受けたかったのか?
自分が王になることを受けていれば、自分達は別の運命をたどっていたのか? 奴はもっと穏やかな運命をたどれたのか? 行方をくらまし生死も判らない状況に陥ることは無かったのか? そして。だから。
あの時。――自分は王になりたかったのか?
夕陽の円球が、金に染まった湖水へ接した。
緩い風が抜けている。霧雨の雫が舞い、静謐の時間がゆっくりと進んでゆく。
長らく続いたその時間を破ったのはまたモリットの、場違いに呑気な顔と声だった。
「あ。そうだ、忘れてた。貴方を探しに来たんです。
カティア夫人が呼んでましたよ。今すぐに急いで来いって。なんか、貴方と急いで話をしたいっていうどっかからの使者が来たみたいです」
言われてディエジは振り向いた。視界の後ろ手はるか上方、断崖にへばりつくように張り出している西のテラスから、母親が霧雨を受けながら必死の形相でこちらを見下ろしていた。
「ディエジ! 早く来て、とにかく急いでっ、早く急いで!」
興奮した大声で呼んだのだ。
大股の早足でディエジが客間に入った瞬間だ。
「お前ときたら――っ」
紅潮した頬と見開かれた眼という高揚を剥き出して、カティアは息子に抱きついた。
「やっぱりお前は私の子よっ、間違いなく!」
「……。何事だよ?」
当惑のまま、室内を見る。
当城で一番贅をつぎ込んだ客間には、これ見よがしに大判の綴織り布が掛けられている。大きな暖炉にも存分に火が焚かれ、暖かく乾いた空気を送り出している。その暖炉の前に今、旅装の男が一人、堅苦しい様で立っていた。
この男が使者か? 一人きりで衛士も付けずに? ということは密使か?
「貴方が使者か?」
「そうよ! 神にかけてお前にとって飛んでもなく重要な件よっ、今すぐに――
お前、何で付いて来てるのよ、出ていきなさいよっ」
ちゃっかり一緒に付いて来ていたモリットだが、ここまでとなった。いかにも残念そうな顔をさらしたものの、部屋から追い立てられる。そして部屋の扉を押し閉めた途端、彼女はさらに甲高い声となった。
「ディエジ! この方が誰か判る? マナーハンからの使者よっ、コノ王からの急使の方なのよっ」
「アーサフが見つかったのか!」
「いいえ。違います」
密使は、低く落ち着いた声を発した。
「初めまして。ショーティア領のディエジ殿。
今回の来訪は、ガルドフ家のアーサフ王の行方についてではありません。貴方様自身にかかわる件です」
「驚かないで、ディエジ。貴方ったらコノ王――」
「カティア、黙ってくれ。直接聞く」
「でも貴方は絶対に驚くから、だって――」
「カティア!」
やっと黙る。この機を読み、密使は報告を始めた。
「ショーティアのディエジ殿。貴方様に宛てたマナーハンのコノ王陛下よりの伝達を承っております。
コノ王につきましては、貴方様のリートムへの帰還を要望しています。その上で、王よりの要請を受諾して欲しいとの事です」
「要請って何を?」
「現リートム宗主であるイドル陛下と婚姻を結び、リートム王として登位して頂きたいと」
……? 何を?
呼吸一つ分の間に、てディエジの頭に三つの心象が通り過ぎた。
リートムの王城。少女じみたイドル妃の顔。そして、アーサフ。
「何を……」
アーサフの姿が過る。最後に見た時の。霧の向こう側へと消えるアーサフの姿。
「何を言っているんだ……、アーサフが……アーサフはどうなる?」
「ガルドフ家のアーサフ王におかれては、無念ではありますが、すでに神の御国に旅立たれましたでしょう」
「違う。まだ判らない。噂だけで、まだアーサフが死んだとは断定できない」
「アーサフ王がバリマックと思しき兵士達によって捕縛されたとの報告につきましては、噂ではなく事実です。実際、つい先日ですが、北の国境でアーサフ王らしき遺体が発見されたとの報告がありました」
「嘘だっ。有り得ない」
「現在コノ王が人を派遣し、件の遺体を捜索しています。あの御方の死が確定するのはもう、時間の問題でしょう」
「嘘だ――!」
動揺を丸出して怒鳴った。しかし母親は構うものか。
「神様ありがとうございます! これでお前はリートム王よ!」
「カティア、止めろっ」
「なぜよ? 貴方も神に感謝しなさいっ。今日は生涯の最高の日じゃない、お前がついに王になるのよ!」
「止めろ!」
噛み締めるような苦渋の顔を、密使に向ける。
「なぜ、俺がリートムの王になるんだ?」
「これから述べる事は内実となりますが、御説明致します、ショーティアのディエジ殿。
聞き及んでいられると思いますが、リートムにおいては現在、イドル妃が事実上の宗主として執政なられておりますが、現実には、父君であるコノ王が代理として為政を負われて、国情の安定を図っておられます。
しかし、残念ながらリートム領民は、この現状況にかなり強い不満を覚えている様子です。このまま不満を残し続けてしまった場合、やがては領内に政情不穏を招く危険を孕みかねません。
コノ王におかれましては、この現状の打開のために、旧ガルドフ王家の血縁者があらためて王座に就くことが最善と判断をされました」
「だとしたらイドル妃は関係ないだろう? なぜ結婚しなければならない?」
「有り体に申しましょう。
バリマック族の襲来そして撃退という一連の混乱を経た果て、結果的にではありますがコノ王は事実上、リートムへの執政を掌握することになりました。それをみすみす手放す心づもりは、お持ちではありません。
自身の姫が宗主権を持ち続けることが、第一義です。その上で、人々の不満解消のために旧ガルドフ家血縁者を縁付けようという意向です」
“お前にもガルドフの血は流れている、お前の方が相応しいっ”
「そうですね。コノ王にとっても意外だったのは、ガルドフ家のアーサフ王が、ここまで領民の敬愛と信頼を集めていたということでした」
“僕は王なんて器ではない。お前の方が力量があるんだから、代わりに王になってくれ!”
「さもなければコノ王も、ガルドフ家の血族である貴方を求めることはなかったでしょう。コノ王が直接にリートムを併合されていたでしょう。
忌憚なしに、内情をお伝えしました。お解り頂けましたか? ショーティアのディエジ殿」
“お前が代わりに王になってくれ! それが一番良いからっ、
頼むからっ、ディエジ!”
――あの時。
もう自分を偽れない。
確かに自分は、アーサフに王座に登ることを強いた。でも、それなのに。でも。確かにあの時、一瞬だけ、心の中で思ったのだ。思ってしまったのだ。
“自分が王になりたい!”
そう思ってしまったんだ。
「だから元々アーサフなんかではなく、お前が王になるべきだったのよっ」
丸きりこちらの内心を見たかのよう、母親はまた喚く。
「お前は私からガルドフ家の血を引いているのよ。もしお前の父親が生きていたら、我が家こそがよほど王城で権力を持てたものを、早くに死んだばっかりに……。
そうよ、先王が死んだ時だって、もしあの人が生きていたらお前の王座を後押しする豪族は幾らでもいたのよ。だってアーサフなんかよりお前の方がよほど相応しい力量を持っているんだから。あんな大人しいだけの子供よりお前の方が、よっぽどっ」
「止めろっ」
「国には強い王が居た方が良いのよ。天上の神もそれを望まれてるのよ。だからお前が嫌がったって、王座の方がお前の許にやって来るのよ。お前はそういう命運の許に生まれたのよっ」
「止めろって言っているっ」
怒鳴り返すが、眉は歪み、言葉を詰まっててしまう。
ちらちらと揺れる暖炉の光の許、使者は淡々と続けた。
「ショーティアのディエジ殿。コノ王の要請を受諾頂けますか」
「勿論よ! 勿論よね、ディエジっ。何してるの? 早く受け取りなさい! お前がリートム王なのよ、ディエジ!」
答えない。
「ディエジ、早く! なぜ答えないの!」
答えない。濁った当惑をさらしたまま、窓の方を見る。
大きく開けられた窓の外には、湖が広がっている。先程まで見ていた水平線は、とっくに光を失い、闇になっている。陽を追うように湖面に落ちかけている宵の明星が、ぽつりと光っている。
必死に言葉を選び、ディエジは言った。
「もし俺がリートム王になる場合、イドル妃との結婚が条件になるのか?」
「はい。ただ今述べた通り、コノ王の意向は、イドル王妃が宗主としての地位を維持することです。これが必須です」
「だったら俺は、形だけの王という事か?」
「はい」
「はっきり言うな」
「それでも貴方は王妃と共に、正当なリートム国王の地位に就きます。それでも何か御不満をお持ちですか?」
「不満なんて無いわ! そうよね? 貴方は王になるの。だって貴方はそういう星の許に生まれたのだから、ディエジ!」
母親が息子の肩を掴み引っ張った。その手を、露骨な嫌悪をもって振り払うや、いきなり、無言で歩み出した。部屋から退出していった。
「ディエジ!」
「返答は後でする」
「何を怒ってるの、待ちなさいっ。逃げる気なの? 命運からは逃げられないわよ!」
追いかけたが、息子はさっさと通廊の奥に去っていった。彼女は苛立ちの限りをこめて、叫び上げたのだ。
「大馬鹿者!」
と、通廊の右隅にモリットが立っていた。きらきらと目を輝かせながら、近づいてくる。
「奥方様、どうしたんですか? 今、ディエジさんがかなり怒りながら抜けてったけど、何かあったのですか?」
途端、振り向いたカディアの顔は怒りを剥く。いきなり目障りな小僧の頬を、
「さっさと消えろっ」
打った。息子を追いかけ、さっさと通廊へと進んでいってしまった。
八つ当たりを受けたモリットは、だが、頬の痛みなど気にするものか。心底から面白そうに、口許を引き上げた。
「天上におられる絶対者様。そして、マナーハンのコノ王陛下――」
独り、嬉しそうにそう呟いた。
三日後。
たっぷりと飲み、食い、眠り、城中の人々とお喋りし、約束の礼金を受け取ったカラスのモリットは、極上の笑顔を見せながらショーティア城から去っていった。
乳じみた白霧が湖を隠し、世界が無彩に覆われている朝だった。