7-1・ アーサフⅡ
7・ アーサフⅡ
霧は、乳の様に重かった。
エリ島の内陸地では今朝もまた、見渡す限りに白い霧が淀んでいた。霧が世界を重たく閉じ込めていた。
アーサフは歩いていた。
独り歩いていた。昨日と同じく。
その前の日と同じく。この何日間と全く同じく、独りで歩いていた。
立ち止まる事には、恐怖に似た感覚があった。背中の側から、追いかけてくるものが居る気がした。それが現実なのか妄想なのかは判らない。何が追いかけてくるのかも解らない。自分を殺したいと狙う者は、いるのだろうか? それはバリマックだろうか? マナーハンだろうか?
……違う。
今、自分を追いかけて追い立てるのは、悔恨だ。
歯ぎしりをしたいほどの悔しさだ。
何も出来なかった。モリットの掌の上で転がされ、弄ばれ、嘲笑され続け、挙句に全てを奪われ、失った。
軍勢。王国。妻。そして、親友の命。全てを失った――。
荒れた泥道を歩む足が、止まった。
涙は出ない。泣くことの無意味さはとっくに学んだ。その代わりにやるべき事は、足を前に歩む事だった。今は、失われた自分の国・リートムを離れて、行くべき場所に行くだけだった。かつての廷臣達の行方を尋ねて、しかし何ら成果を上げられず、それでも各地を歩き続ける事だった。それだけが今の自分に出来る事だった。
……
夜明けからの霧が、なかなか消えない。
昨日からたどっているこの西への小街道に、人の姿はほとんど無い。音もない。色彩も無い。灌木の中を泥道が続くだけで、単調に静まり返っている。
それが変わり出したと気付いたのは、朝も終わりかけた頃合いだった。
気づいた。霧の中にぽつりぽつりと、旅人が行きかい始めたのだ。その理由が分かったのは、さらに半刻ほどを歩いた後だった。
霧の視界の前方だ。そこに、小振りの建物――旅籠宿が現れた。
近づくにつれて、寂れた街道沿いだというのに、思いの外に人の出入りが多いのが分かる。何人もの人々が、慌ただしく扉の周りを動いたり喋ったりしている。
(気をつけろ。顔を見られないように)
アーサフは帽子を目深に引く。身を緊張で引き締める。
と同時に、安堵も覚える。ここで一度、目的地への行程を確認できる。そしてもう一つ。昨日来ずっと覚えていた空腹を、ようやく終わらせることが出来る。
(気をつけろ。絶対に注意を引くな。人に顔を見られるな)
人や馬車のいる建物の正面ではなく、その右の、貧相なリンゴの樹の方を目指した。木に紐を張って、洗濯物を干している中年の女の許へと向かっていったのだが、
「何、あんた?」
目があった瞬間、いきなり早口と鋭い眼をぶつけられた。
「客なの? 何の用よ」
(気をつけろ。自然にふるまえ)
「パンを買いたい。それと干肉を」
「金は持ってるんだろうね?」
「持っている。これだけ」
懐から小銭を出して見せるや、女はいきなり態度を変え、愛想良く笑った。
「見るからに腹が減ってる顔ね。まずは中で何か食べていきなさいよ。今朝は豆入りのスープよ。美味しいわよ。ほら、ここにいても良い匂いがするでしょう?」
言われた途端、その通り鼻は温かな香りをとらえ、抑えていた空腹が一気に体を締めつけた。
「いや。いい。パンと干肉だけ買って、すぐに行く」
「あ、そう。本当にそれだけでいいのね。その小銭の分だけね」
また無愛想に戻ると、女はさっさと建物の中に向かう。間を置かずに戻って来た時、持ってきたパンと干し肉の少なさに、思わずアーサフの顔が歪んでしまった。
「何よ。何か文句があるの? だったらもっと金を払いなよ」
「……いや。これ以上は払えない。有難う。
済まないが、西のショーティア湖までは、ここからどのくらいかかるか教えてくれないか?」
「あそこの湖までなら、十日よ」
「え? そんなにかかるのか?」
「街道を十日よ」
「そんなはずは――。昨日聞いた話では、この辺りからならばあと五~六日もあれば十分に到着できるという話だった」
「なら森を突っ切れば?」
不機嫌顔のまま、顎で右を指した。
気づくと、そちらの方向はようやく霧が薄れだしていた。急な斜面を下った向こうに、低地の広がりが見通せた。広々と展開するその低地は、エリ島の典型である灌木の植生では無く、背の高い樹々が深く茂った黒い森となっていた。
「この森を横切れば、ショーティア湖までの近道になるのか?」
洗濯干しに戻り、見向きもせず女は言う。
「野宿も構わないで早足で歩けば五日で行ける。だけど、止めた方が良い」
「なぜ?」
「追剥が出るから」
「追剥? どういう種の追剝なんだ? 詳しく教えてくれ」
「知らない」
「何人ぐらいの規模の追剝なんだ? どの程度の悪質さなのか? かつて被害に会った人数はどのくらい――」
「うるさいねぇ、知らないっていったじゃないっ。用が終わったならさっさと行っちゃいなよ!」
何が不機嫌なんだか、怒鳴り顔で最後の布を干し終えるとあっという間、人が出入りする建物へと戻ってしまった。
吹き始めた緩い風に、洗濯物が揺れている。
霧は薄れ出し、視界が広がっていく。右手の低地には少しだけ薄日が射し込み出し、黒い色合いの森がどこまでも連なっているのが見透せる。
行程の長短……。追剝の危険……。残りの金と食料……。
アーサフの迷いは、思いの外に短かった。
追剝に遭ったとして、取られるような物は持ち合わせていない。先祖伝来の緑碧石の指輪も、銀の細工彫りの護符も、いつか戻る事を神に誓いながら街道の始まりの樫の大木の根元に埋めた。
加えて、手持ちの最後の金も今、ほぼ消えた。身に着ける財は、このパンと干肉だけになった。たった一人のみすぼらしい、何も持たない旅人に、敢えて追剝が狙いをつけるだろうか。
一刻も早くたどり着かなければ。ショーティア湖へ。そしてそちらへ身を寄せねば。そして。
「伝えなければ」
口から洩らしたと同時、また身を切るような苦い感情が這い上がって内臓を締め付けた。
「ショーティア湖の、その東岸にあるという城にたどり着き、伝えなければ。そこの女城主に伝えなければ」
“貴方の息子が天に召されました”と。
私の愚かな無謀と失態のせいで、さらに私と血縁であったがゆえに、貴方の息子が真っ先に殺されてしまったと伝えて、詫びなければ――。
「お前、邪魔だ、どけっ」
体の真横を、荷馬車が勢いよく走り抜けた。アーサフを現実に戻した。
ディエジは死んだ。泣いても喚いても、現実は変わらない。だから今自分に出来るのは、進むことだ。
進む。あらためて現実に立ち向かう為に、今からショーティア湖へ行く。
「あんた、どこへ行くんだ? 街道はこっちだぞっ」
背中の方から、今まさに旅籠を出立しようとする男が声をかけてきた。
「道を間違えてるぞ、いいのか?」
「有難う」
一度だけ振り返り、アーサフは応えた。
そして足は先方の斜面へ、斜面の向こう側に広がる黒い低地の森へと進み出した。
・ ・ ・
ふとした瞬間に頭を支配するように浮かび上がってくるのは、いつも同じ。
『御無事で。お帰りを待っています』
そう言って抱き締めた、遠い感触。
『貴方がリートムの王様?』
屈託のない笑顔で、楽しそうに、嬉しそうに、面白そうに自分の道筋を曲げていった。その果てに今、自分は森の中を独り、無言で歩いている。
……
低地の森の中は、鬱蒼とした樹々に覆われていた。すでに昼も進んでいる頃合いだが、高い枝葉によって空の様子が良く掴めない。薄暗い世界に、時間も読みにくい。
霧が消えても、空気に冷えた湿気が残っている。風は無い。薄暗さと肌寒さに、アーサフは何となく落ち着かない、チリチリとした不安感を覚えている。いや。
不安感ならばこの数カ月の間、いつも自分を覆っていた。散り散りとなった臣下達の行方を求めて各地を歩き続けてる間、ずっと神経を苛んでいた。ほとんど情報を得られない結果に、全身を締め付けられて来た。
「そうだ。恐れていた。何も有益な情報を得られないことに。それに、
逃げていた――」
歩きながら独り、敢えて声にして発する。
「ディエジの死を、彼の家族に伝える事から、逃げていた。
でも、それは私が、やらなくてはならない事だ」
声はこもるように音の無い森に響く。
「その上で、道筋を変えないと。歩き回ってもほとんど情報を得られない今、方針を変えて、一度ショーティア城に身を置かせてもらわないと。一旦、拠点を作らないと。
恐れるな、とにかく今は歩け。食べ物もすぐに底を突く。最も優先されることは、一刻も早くショーティアへ行く事だ。だから、歩け」
空腹を覚えているが、先ほど買ったパンと干肉には、まだ手を付けていない。どうやらこの森を抜けるまでは、食物を調達できるところは無さそうだ。何があるか分からないから、ギリギリまで残しておく。
「早く森を抜けろ。早くショーティアへ。やらなければならないことならば、幾らでもあるのだから」
森の中に人けは全く無く、もう道と呼ぶのも難しい荒れた小道だけがあるだけだ。その上を早足で歩む。放っておくとすぐに頭を支配しそうになる兄妹の姿を振り切り、歩く。歩き続けてゆく。そして――
ふと、気付いた。
無音だ。
賑やかだった鳥の鳴き声が、いつの間にか消えていることに気付き、一度足を止める。背中がピリつく感覚が、急速に増してゆく。嫌な、不穏な予感を覚える。
「急いで森を抜けろ」
歩みを再開する。薄暗さと無音の中、早く歩いた方が良いと本能が覚える。
「急げ。一刻も早く森を抜けろ。早く。私にはやるべき――」
ポキリ
はっと振り向いた。冷えた、湿った風を敏感に受け止めた。警戒を万全に今の物音を探ろうとし――、
ポキリ
枯れ枝を踏む音だ。右の方向、確かに誰かがいる! 追剥かっ。
「さあ。早く行こう」
追剝なのかっ。落ち着け。
「早く歩け。もうすぐこの先で、皆が待っているはずだ。こちらが遅いから、探しにもう近くまで来ているかもしれない」
わざとらしい大声を発して歩き続ける。
落ち着け。万一追剝が襲ってきても、反撃はするな。そのまま身を任せた方が良い。さすがにこんな僻地の追剝が、自分の素性を知っているはずはない。盗られて困る物なら、食べ物ぐらいだ。もし食べ物を盗られたら、木の実を拾って食い繋いで旅程を進めれば良い。ひもじいが、何とかはなるはずだ。とにかく、取り敢えず、追剝にしてもこちらの命を奪っても利は無いはずだ。
歩く足は速まってゆく。石が転がる荒れた小道のまま、どんどん森の奥へ進んでゆく。落ち着け。下手に走るな。このまま気づいていないふりをしていろ。だが、
――今度こそ、はっきり聞こえた!
今度こそ判った。違う、追剝じゃない、今の音は、獣の唸り声だ。素早く見まわした視界の右側遠くで、下藪が動いた。黒い獣の輪郭があった。
(狼だ!)
反射的、アーサフは地面を蹴る。と同時、静寂を破り狼が吠え、走り出した!
狼では逃げ切れない。逃げ切れる訳がない。だからよじ登れる樹を探せ。とにかくそのため全力で走れ。
突然、狼は彼の左側に迫った。足は大きく踏みとどまり、右へ向かう。小道を外れ、やみくもに森の中に逃げ込む。登れる場所を夢中で求める。
と、狼は今度は右に来た。自分も方向を変え、目の前の樹にぶつかりかけたものを、寸前で避ける。
(逃げ切れないから! だから早く、登れる樹を早く!)
すぐに息は切れ、心臓は痛みだす。立ち止まったら最後だ。どこでもいい、どこでもいいから、早く、
(登れる樹――早く! ――あった!)
左手の低い位置に、太い枝を張らせている樹があった。あれを目指せ。あれに登って足場を固め、狼が跳躍してきたところを狙って短剣で――
次の瞬間に起こったことを、アーサフは全く理解できなかった。
(狼ではない)
それだけは解かった。それ以外は全く解らなかった。自分の体は、完全に地面に倒されていた。太く重い縄で編まれた網が体にのしかかり、地面に完全に抑えつけていた。全く身動きが取れなくなっていた。
「何が起こって――っ」
そう叫んだ瞬間、脇腹に衝撃が走った。息が詰まる程の激痛にうめきが喉を突いた。
「何がっ……誰だ!」
「誰だ」
必死に首を振り上げた時、視界が捕えたのは自分を見降ろしている男だった。
「追剝なのかっ」
途端、二度目の衝撃が腹の同じ場所に走った。再び男に蹴られたのだ。
「こっちが訊いている。誰だ。何者だ」
次に走った苦痛は、右肩だった。男がゆっくり右肩を踏みにじってきた。その表情に感情が無い。丸きり、アーサフを人として見ていない。丸きり、文字通り、落し網の罠にかかった獲物としか見ていない。
「早く言え。それともここで食い殺さるか」
男の横では、巨大な黒犬もまたアーサフをのぞき込んでくる。狼と見間違えたのはこれか。この良く訓練された犬に追われて、自分はまんまと落し網の罠の下へと追い込まれたのか。
じりじりと時間をかけて、肩は踏みにじられてゆく。痛みにアーサフの顔が歪む。
「……踏むのは、止めてくれ――」
どう答えればいい? 追剝なのか、この男?
「森を抜けた西の地に住む知人を訪問するために、旅をしていただけだ。とにかく……頼む、踏むのは止めてくれ」
「下手な嘘は止めろ。ただの旅人が危険を冒してこの森に入ってくるか」
「私はここが危険な場とは知らなかった。近道になると聞いただけだ。迂闊だった。本当に知らなかっただけだ」
「その言葉遣いからすると、豪族の身分だな。どこの国の者だ」
「違う。誤解だ、私は違う」
「さもなければ密使か密偵か? どこの国だ」
「違う、だから誤解――」
その時、男の足が肩から喉に動いた。いきなり喉を踏みつけてきた。たちどころにアーサフの息が止められた。
(息が――止めろ!)
「白々しい嘘が通用すると思うな。少し見てればすぐ判るんだよ。見た目。歩き方。それに言葉遣い。今までどれ程の人数を見極めてきたと思ってるんだよ。掌を見ただけでも判る。ただの農民や商人では無い。豪族だ。」
喉が熱い、苦しい。必死で身をねじらせてもがくが、重い網と男の右足が完全にそれを阻止する。息が出来ない。
「早く言え。名前は? 目的地は? 任務は何だ? どこの小王に仕えている?」
息が出来ない。苦しい。物を考えられない。その中で漠然と分かったのは、この男の罠と策は完璧だという事だ。――この男、ただの追剝じゃない!
「言えっ」
言えない。真実は言えない。喉が閉まって息が出来ない。苦しい。目が霞んでくる。目の前の男の顔が霞んでくる。どうすれば良い? 考えろ。
「早く言え!」
考えられない。息が出来ない。犬が顔を近づけてくる。ハアハア呼吸する息音も、口の中の赤い色も、だんだん意識できなくなってゆく。犬の背後では男の輪郭も、黒い森の背景に混ざってゆく。
息が出来ない。アーサフは意識が遠のいてゆくのを自覚する。