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6・ アーサフ

6・ アーサフ


 隙間からの冷たい風に、燭台の光が揺れている。

 音の無い室内、アーサフは自分がいつになく冷静なのを自覚する。凄まじく動転してもおかしくない状況に、しかし静かな、落ち着き払った口調で繰り返す。

「誰だ。貴様は」

 もうモリットは笑わない。同じく冷静に返した。

「王様。今はこのまま俺をカラスとしておいた方が、俺達とイドルにとってよっぽど良いと思います。このまますぐに逃げましょう」

 正論だ。でも。

 今、真実を知らなければ、また相手に主導されてしまうと解かる。今しか機が無いと解かる。今、掌握しないとまた現実が途方も無い方向へ進むと解かる。

「イドル」

 びくりと妻は息を飲んだ。

「お前に訊く。どうしてイリュードというモリットが名乗ったもう一つの名を知っていたんだ?」

「――、いえ、私は……」

「名前だけじゃない。顔も知っていたな? 最初からモリットを見知っていた。カジョウもだ。

 答えてくれ。私はリートムの王だ。今回のお前の救出も、今後のリートムも、全て私が責任を負わないとならない。私の知らない現実は何なんだ?」

「……。私は、何も……解かりません」

「イドルっ、なぜ嘘をつくんだ? 言ってくれっ」

 怒鳴り声に強張る。思わず夫から逃げようとするのを、アーサフは腕を掴んで阻止した。

「言え! すでにカジョウを殺してしまった。現実は大きく動いてしまったんだ。私は知りたいっ、そうしないと未来を作れない!」

「ごめんなさい、でも……どうすれば良いのか、私には解らなくて――」

「どういう意味だ? 言えっ」

「放して下さいっ、お願いですっ」

「言えっ、イドル!」

「イドルに聞いても無駄だから」

 目を疑った。

 夫の手を振り切ったイドルが、モリットの許へ走ったのだ。モリットに――神よ――抱きついたのだ。

空気が冷たい。自分の喉を突いた声は、勝手に小声になってしまう。

「……。何が、起きているんだ?」

「分からない?」

「何が……?」

「俺たちは結構似てるらしいから、もしかしたら貴方は勘づくかもと思ったけど」

 分らない方が良い。頭の隅がそう告げた。だが知らないといけないから、凝視する。静寂と夜気の中、二人を見る。そして。

(ああ……)

 体の芯が、冷えていくのを感じる。

「……思い出した。マナーハンのコノ王には、息子が二人いた……」

 頭のどこかが絶対者の御名を想い、声に出さず唱えてしまう。

「上の王子には私も会った。顔を見知っている。

 だが、残念ながら下の王子については、生まれつき病弱で人前に出られないとかで……、公にもほとんど知られていなくて……。私も顔を見ていない。名前すら聞いていない」

「イリュードですよ。王様」

「そうなのか。イリュード。

 ……つまり、貴様は最初に私と会った時、本当の名前を名乗っていた訳だ」

「そうです。で、どうですか? 俺達はやっぱり似ていますか、義理の弟殿?」

 揺れる光の中、二つの顔が並んで自分を見ている。丸味を帯びた顎の線とか、高めの頬骨とか、くせを残す柔らかな髪質とか。よく見れば、どれも似ているじゃないか。いや、そんなものより。何より。

 ――あの眼。

 常に周囲を受け入れる眼。自分が受け入れられることを当然とする眼。良く肯定を示し、だから見る者を深く印象付ける眼。

 そっくりじゃないか。この兄と妹は。

「……だからか……。最初に会った時――最初から、なぜか印象に残って……、それに――。

 思い出した、あの川。溺れた時――意識を失くす寸前に、なぜか感じた。あの時、貴様とイドルが重なったんだ。確かに」

「そうなんですか? でもすぐに貴方は眠りこけてしまった。すっかり忘れてしまったんですね。残念でしたね」

「残念……?」

 怒るべきか? それとも嗤うべきか? 何一つ気づかなかった自分に。

 もっと混乱していいはずなのに、しかし驚くほど静かにアーサフは核心へ進んだ。

「なぜ貴様が、マナーハンの王子が、泥棒を名乗って私に接近した?」

「長い話になりますよ。後にする訳にはいきませんか? 繰り返しますが、今なら楽にここから脱出出来ます。その方が良い」

「今ここで話せ。今すぐ」

「分かりました」

 義兄は、妹が何かを口走ろうとするのを笑顔で制する。床に倒れている死者を跨がないよう大きく回って、部屋の最奥の壁際まで進む。そこに切り抜かれている窓から、まずは一度、雲が割れて月が現れだした空を、その下の城外をうかがう。

「王様が最初にバリマック急襲の報を受け取ったのは、満月の日でしたよね」

「そうだ。野営で。日没の時刻」

「マナーハンのコノ王も、その夜の内に、同じ急報を受け取りました。リートムに置いていた密偵からです。

 あ。どうぞ椅子にかけて聞いて下さい。“奥方様”もどうぞ」

と告げられたイドルの困惑の顔に、兄はにっこりと笑んだ。

「自分の娘が城内に取り残された、閉じ込められたと聞いて、コノ王は驚き、そして怒りました。すぐ様、救出の策に取り掛かりました」

「それは王としても父親としても当然だろう?」

「と言うか、カジョウに出し抜かれたことが許せなかったんですよ」

「――。何の事だ?」

「ああ、済みません。順序が逆でしたね。

 今回、海賊のバリマック族が内陸のリートムへと侵攻した理由は、コノ王です。王がカジョウを誘導して、リートム侵攻を実行させました」

「……。え?」

 意味を取れない。待ってくれと思考が叫ぶ。どうして? 何が起こって?

「動揺してます? “どうして?”って思ってます? この辺の説明は飛ばしましょうか?」

いや。駄目だ。今すぐ聞け。さもないと二度と知ることが出来なくなるかもしれない。だから今すぐ聞き、今すぐ対処しろ。

「どうしてだ? 私はコノ王の娘婿だぞ」

「娘婿だからですよ。そうさせるために娘を嫁がせた。小国だけど肥えた耕作地を持つリートムの、まだ若くて未熟で力量に劣る王に嫁がせたんですよ。リートムを併合するために」

「――」

「聞いています? 王様?」

「――聞いている。続けろ」

「続けます。コノ王の筋書きはこうでした。

 まずカジョウに、リートム王と軍勢が街を留守にする機を教え、その間にリートムの街を侵略させる。無論、イドルだけは無事に逃す約束で。

 その後、リートム住民が蛮族支配を恐れて反発するのを待ち、救国者としてマナーハン軍勢を派遣し、蛮族を蹴散らして街を解放する。王妃・イドルに王位継承権があると主張し、世間の誰にも文句を言われずに、それどころか逆に感謝をされて、リートムを手に収める。そうするはずでした。ところがね。

 巧妙にも、カジョウは、イドルを人質に取ってしまった」

 モリットはゆっくりと妹を見る。

 もちろん、彼女は何一つ知らなかった。自分が父親の策略の道具に使われていたと初めて知り、無言で、凍り付いた表情を続けるだけだった。

「しかもそれだけじゃ済まなかった。もっと予想外だった。

 貴方も気づいたでしょう? カジョウは決して蛮人なんかじゃなかった。抜群の力量者だった。奪取したリートムに、理想的な統治を敷き始めていた。とんでもない見込み違いになってしまった。

 間違いなくカジョウの方が一枚上でしたね。リートム住民の心を掌握され、イドルまで人質に取られてしまい、コノ王は完全に出し抜かれてしまったんですよ」

「――」

「もしかしたらカジョウは、コノ王の裏の策謀について、何か勘づいていたのかなぁ。その辺りは一度、訊いてみたかったんだけどな」

 つい今しがた自分の手で殺したバリマックの首領を見下ろし、モリットは一度口を閉じた。

 燭台の光が揺れている。冷えた空気と沈黙に落ちるのを、アーサフが低い声で破る。

「モリット。……違う、イリュード殿。続きは」

「モリットでいいですよ、今まで通り」

「続きを言え。次に利用されたのが私か?」

「王様。貴方についても、コノ王は計算違いをしてしまいました。

“リートム軍は、隣国ケルズとの戦闘中に大敗。アーサフ王は落命”

 それが筋書でした。勿論、事前にケルズ側に充分な援助を与えた上で。

 ところがあの日。たまたま両軍の戦闘開始が遅れたらしく、まさか無傷のアーサフ王から援助要請の書簡が届いた時には、コノ王は驚いてしまった訳で……。

 アーサフ王は、策略の邪魔になります。それで俺の出番となったんです」

「出番か」

「ええ」

「つまり、暗殺者の出番か」

 その口調に、モリットははっとした。

 目の前、リートム王は今までと変わっていた。多くを受け入れ過ぎ考え過ぎてしまう故のもろさが消え、反発していた。散々振り回された現実に、怒りを剥いていたのだ。

 一瞬、モリットは出遅れる。猛然と腕を伸ばした相手をかわせなかった。思わずあっと声を漏らした時には逃げ遅れ、壁に押し付けられ、その喉元にアーサフの短剣が押し当てられていた。

「……。貴方のこんなに強い顔を、初めて見ましたよ、王様」

「このまま殺されはしない。散々に貴様とコノ王に翻弄され、愚弄された挙句に殺されるなど嫌だ」

「俺は貴方を殺すなんて言ってませんよ」

「コノ王が言ったはずだ」

「それは当然ですよ、王様。ディエジさんやマクラリ卿が貴方の単独行動を止めようとしたのと同じように、カジョウがヨアンズ隊長を処刑したのと同じように、当然の事です。そうでしょう?」

「そうだな。だから私がここで、自分への暗殺者を逆に抹殺するのも、当然だ」

「そうですね。でも、今ここで私を殺すのは、貴方にとって得策ではありません。

 だって貴方の力だけでこの城から脱出できますか?」

「確かに私には、貴様のような冴えた力量は無い。要は、貴様が独りで救出を実行すれば良かった件だ。ましてやコノ王が、それを望んでいた。

 言え。なぜ早々に私を殺さなかった? 何の理由があったんだっ」

「――済みません。もう少しだけ剣を……。さすがに首が痛いです」

 気付くと、短剣に押さえつけられられている首の皮膚に、赤い線が刻まれていた。

 アーサフは相手の胴着から短剣を奪う。寸分逃さずに凝視しながら、一歩下がる。思考は冴え、この後語られる現実を受け入れる準備は出来ている。

 モリットはもう一度、窓の外を見た。雲間から月が輝き出している空と地上を見渡した。

「俺は、カラスのモリットなんて知らない。見たことも会ったこともない。ただ、貴方に近づくために名前を騙っただけです。

 イドルが城内に幽閉されていると知れば、貴方が救出に躍起になるとは目に見えていたから。ごく最近に城に侵入して評判を取った泥棒が現れれば、きっと貴方の目に留まると思って」

「その予想の通り、私はその策に落ちた訳か」

「聖者の思し召し通り。そうなりましたね」

「だから早く言え。私が知りたいのは、なぜこんな面倒な手法を採ったかだ。貴様だったら、夜中に私の寝所に忍び込んで一撃で殺害出来ただろう? なぜわざわざ私を誘い出して行動を共にするなんて手間をかけたんだ、なぜ?」

「なぜ――」

「言えないのか」

 モリットの顔が少し笑い、少し歪む。答えに躊躇している。窮している。

「言えっ。早く」

 心底から窮しているのが、はっきり伝わる。そして言った。

「イドルがね。嫁いでから何度も手紙を送ってくるから」

「おい、何の話だ?」

「ガルドフ城での生活が幸せだってね。

 マナーハンの大きな城で育ったイドルが、こんな小さな国の小さな城での生活が楽しいっていう手紙を送ってくるから。その手紙の中で、『夫のアーサフ王の事を皆が信頼している。自分も心から愛している』って繰り返して言ってきて」

「だから何の話だっ」

「もう一つ。最初からずっと気になってました。ずっとです。“王に成るのを泣いて嫌がった王”っていう評判。それがずっと、ずっと気になってて」

「――」

「貴方と俺は、同じ『王の息子』という立場なのにね。

 俺は、生まれた時から公に人前に出ることを許されなかった。コノ王がそう定めました。二人目の息子は国を継ぐのではなく、国の為に秘かに働くようにと、そう定められた。

 なのにリートム国では、泣いて嫌がりながら小王になった王子がいたって聞いて、何だか無性に興味が湧いて――どこか気に障って。腹が立つ気もして――、

だから取り敢えず、即座に殺せとの指示は後回した。取り敢えず少し、貴方と行動を共にしてみようと思った」

 深い眼でこちらを見ている。

 そしてアーサフの冴えた勘は、相手が次に言うだろう言葉が予想出来てしまった。

『興味が有ったから。いつでも殺せるから。面白いし。それだけです』。

「興味が有ったから。面白くて」

 予想通りだ。

 でも、微妙に語感の異なる言葉を、付け加えた。

「貴方が面白くて。だから貴方を好きで。だから殺したくなかった。それだけです」

 ――

 月と星が、密かに進んでいる。冷えた風が抜ける僅かな音がする。

 イドルは片隅に立ったまま、涙を浮かべて黙している。モリットもまた静かだ。いつもの明るさも人懐こさも消して、透き通るように静かだ。

「もう充分だ」

 アーサフもまた静かに見通した。

“たまたま興味が有った。興味が有って、面白くて、だから好きになった。だから面白くて助命した” 。

不思議な価値感に引きずり回され続け、でも自分は生き永らえた。それは幸運だったのだろうか。解らない。ただ、今は己のやるべき事をやるだけだ。

「もう充分だ。私はイドルを連れてここを出る。

 貴様は勝手にしろ。貴様のリートム王である私へ行為は、この場で即座に殺すべき罪科だが――それでも貴様は私の義兄だ。イドルの兄だ。イドルをこれ以上悲しませたくない」

「有り難うございます」

「最後にもう一つだけ答えろ。貴様はこの後どうするんだ?」

「俺のこれからする事ですか? するべき事?」

 その時。モリットが意味有り気に笑った。突然、卓上の燭台を掴み取った。

「何をする!」

 素早く窓から身を乗り出す。外に向け大きく燭台の火を振った。夜闇に鮮やかな光の軌跡が走った。

「何をしたっ、モリット!」

 叫びと同時に顔を殴る。モリットは床に倒れた。その上に覆いかぶさり首を掴んで激しく揺さぶる。

「今のは何だ! 何をしたんだっ、答えろ!」

「首を……緩めて下さい――覚えてますか――サティフ?」

「あの毛皮商人か? 今、私の軍勢と共に僧院に留めてある?」

「とっくに抜け出してます。今、彼が来ています。マナーハンの軍勢と共に」

 え?

 混乱したのは一瞬だ。飛んでもない方向へ進みだした現実を、即座に掴まないと!

「今すぐ説明しろ! 早く!」

「サティフは、コノ王の家臣で――そんなに驚いた顔しないでくださいよ。確かになかなかの演技で、俺も感心しました。

 サティフとはずっと、密書を交わしてきました。彼は今、マナーハン軍勢と共に城壁の許まで来ています。そして俺も今、イドルの救出に成功したと最後の合図を送りました。これで間もなくこの城への攻撃を開始できます」

「――止めろ――!」

 そんな事が起こっていたのかっ、自分の知らない現実で!

「止めさせろ! 今すぐ攻撃を止めさせろ!」

「出来ません」

「やれっ、やらないのならこの場で殺す!」

「殺すのは止めてください。まだ言う事があります」

「まだあるのか! もう充分だろう? 完璧だよ、貴様とコノ王の仕組んだ陰謀は完璧だっ、その上でまだあるのか!」

「あります。御免なさい。それとも言わずにおきますか?」

「言えっ」

「ターラ村の修道院に潜んでいる貴方の軍勢は、もう消滅しています」

「――」

「サティフがマナーハンの軍勢を呼んで、僧院を制圧したはずです。中にいた貴方の臣下はマクラリ卿を始め全員確保されて、捕虜となっているはずです。

 ただし。ディエジさんだけは、扱いが異なっているかも知れませんが。ほら、あの人は貴方と血縁だから」

「え?」

「ディエジさんがガルドフ家の血筋でしょう? ガルドフの血筋、即ちリートムの継承権を持つ者は、今回の策謀の邪魔になります。おそらく今頃はもう、地上に居ないのでは」

 ディエジが――何だって?

 指先が冷たくなっていく。なにか、視界が変わっていく。

 狭い室内の現実が消え、途方もなく広い記憶へと変わっていく。広い、明るい場の中に、無数のディエジが現れる。

 ……

 無駄のない体躯。いつもまるで生来のように、軽々と武衣をまとう。

 鋭く、きつい眼の印象。でもよく笑う。よく怒る。いつでも強気で、真っ向から己を表わす。

 ――ディエジだ。

 記憶は奔流のように寄せる。最後に見たのは、自分を見送る姿。霧の中。ぼやけていく輪郭の線。あれは何日前だ?

 身勝手に出奔した自分を灌木の丘で見つけてくれた時は? あれは安堵の表情だったのか? 泣き出しそうに怒っていた顔は?

 そしてあの日。

 父と兄の死報を握って全速で走り寄って来た日。長い通廊の濃灰色の石壁に響いた足音と、弾む息と、そして確固の声。

“お前が、王だ”

「王様? アーサフ様?」

 声が遠い。違う、

 ディエジはアーサフ様などと言わない、いつもアーサフと呼び捨てた。どんな時も。

 あの時も。何年前だ? 自分がただの子供だった時。

 臣下にも臣民にも充分に信頼を寄せられる父と、父の後継に相応しい剛毅の質の兄と。両者の存在の陰で、凡庸な自分には何の価値も無かった。人から目を向けられる事もなかった。それが普通で、何も感じていなかった。ただ日々だけが動いていた。

 そんな時。

 あの時。……城の裏庭で、女達の騒々しい声が上がっていた。

 自分はいつも通り独りで、裏庭を抜けようとした時だった。太った洗濯女の大袈裟な声が響いた。

「無理よ! 誰か止めて! あの馬――誰が見たってすぐ判るじゃない、全く人慣れしてないのよっ、鞍を着けただけであんなに興奮してて、ほら無茶よっ、暴れてるのよ!」

 馬がどうしたって? 今朝城に届けられたばかりの馬だけど、それがどうしたって?

 ドサッと大きな音が上がり、場から大きな悲鳴が上がる。目に飛び込んできたのは、一人の少年が派手に落馬し、取り囲んだ人々が一斉に大騒ぎしている光景だった。

「だから言ったのよ! 分ってたのにっ、あんなに止めたのに聞かないからっ。これじゃ、一年の内に十回は死神に言い寄られるわよ、向こう見ずにも程があるわ!」

 あんな見るからに気の荒い馬に乗ろうとしたのか。馬鹿な奴。

 ――と思いはしたが、口にはしなかった。いつも通り、そのまま通り過ぎようとした。なのに。

「三日で乗って見せる」

 相手が自分を見ていた。泥がはねた顔を向け、彼は、真っ直ぐに自分を見ていたのだ。

「三日以内だ。あの馬、必ず乗って見せる」

「……。え?」

「お前も一緒にやれよ」

 なぜ勝手に決めるんだ? と思った気がする。いや、それ以上に、なぜ自分に? と。だが相手はもう、立ち上がって馬に向かう。暴れ回る馬の手綱を握ろうと腕を伸ばし、夢中になっている。

 それが、生涯の友との出会いだった。

 その時からディエジは、横に居た。気の弱い自分の横に居て、常に怒り、笑い、気強さで自分を支えてくれた。護ってくれた。誰よりも大切な存在となっていた。

『信用していない者と敵のただ中に舞い戻るなんて、愚かだ』

 あの時だけは、そう告げた顔は妙に突き離していた。

 あれは何だったんだろう。似つかわしくない、諦めたかのように褪せた顔。あれが、ディエジの見納めになったのか? 神様。

 ……ここでアーサフの記憶は、遡上を止めた。

 感情を自覚できない。左目から僅かに涙が落ちたのにも気づかない。視界の焦点の中、モリットだけが現実にいる。

「ディエジが……地上に、何だって……?」

 再びモリットは、明瞭に言う。

「もう居ないのでは」

 怒りの衝動が全身を貫いた!

 目の前のモリットの顔を力の限り殴る。よろけ足元に崩れた相手の体を、さらに蹴る。力の全てを込めて腹を蹴る。

「嘘だ! 嘘を言うな――!」

 怒りを抑えられない。“無駄な殺害は避けたい、卑怯だ”、そう言った自分が、躊躇の一片も無く蹴り続ける。相手の口から潰れた悲痛の息、それに僅かに赤い血が漏れる。床に倒れたままの燭台が、苦痛の顔を照らす。初めて見る、モリットの苦痛と絶望の顔。

「止め……、殺すのは止めて、俺を殺しても、貴方に不利――何の得にも……」

「黙れ――っ、損得などどうでもいい!」

「貴方は、逃げてリートムの為――」

「嘘と言え――ディエジが地上に居ないなど!」

「リートムの王に……貴方は……、王様――止めて――」

「嘘と言え! 早くっ、殺してやる、貴様を――」

「止め……」

「止めて」

 虚を突かれ、動きが止まる。振り向く。

イドルが自分を見ていた。色を失った恐怖と驚愕と絶望をも合わせた哀しみの眼で、それでも懸命に自分を見ていた。

 なぜだ?

 ディエジが消えたのに。それなのになぜこの妻は自分を止めようとするんだ? 止めろ。そんな慈悲を乞う眼で見るな。哀願の眼を向けるな!

「兄は父に命じられて……。それに、自国のマナーハンの為を思って動いて、だから……」

 言うな。泣きながら正論を言うな。

「……だから、貴方様と同じです。マナーハンの為に、自分の国の為に尽くしただけですから……だから――だからお願いします、止めて」

「黙れ!」

「殺さないで、お願いします。私の兄ですっ」

「黙れ! 逆らうな! ディエジを殺した、殺したんだっ、その罪――」

 瞬間、アーサフの口が止まった。

 目を疑う。絶叫が喉を突く。

「止めろ――燃える――!」

 炎が上がって、イドルが燃えている。

 イドルの薄青の服の裾を、赤い炎が舐めている。そのすぐ横に、たった今モリットが投げつけた燭台が大きく転がって動いている。

「神様――! アーサフ様――!」

 イドルは恐慌で座り込み、立ち上がれない。床から立ち上がれず、ただ叫ぶ。

「イドル!」

 夢中で手を駆け寄ろうとするのに、それすら邪魔するのか!

「放せ! 狂ってるっ、モリット! 妹を燃やすのか! 殺すのか!」

 それでもモリットは放さない。あれ程に痛めつけたのに、それでもアーサフの背中にしがみつき放さない。自分の欲する物――アーサフの胴着の胸の短剣を手に入れるまで、決して放さない。

「放せ――っ、イドルが――!」

 モリットが短剣を奪った。途端、背中から振り落ちた。

 自由を得、アーサフは手近にあった椅子のクッションを掴む。妻の青いドレスの裾飾りや腰ひもを燃やして白い煙を上げる炎を、狂ったように叩き消す。

「アーサフ様っ」

 ようやく火が消えた瞬間、イドルは泣きながら夫に抱きついた。アーサフも気づくとぼろぼろと涙を落していた。あまりにもねじ曲がった現実に感情も思考もとことん混乱し、翻弄され、もう整理がつかなかった。泣いた。

 イドル。可哀想に。実の兄に焼き殺されかけた。

「……可哀想に。こんな……可哀想に――。でも」

 でも。どうして? 可哀想に。でも、なぜ?

「なぜ、――どうしてすぐに言ってくれなかったんだ? ……。もし、すぐに教えてくれていたら――。最初の瞬間に、教えてくれていたなら……。モリットが自分の兄だと、最初にすぐに真実を言ってくれていたら……」

 だとしたら、現実は変わっていたのか? 兄に火を点けられるなんていう悲惨な現実を、妻に遭わせずに済んだのか?

「やっぱりお前にとっては、マナーハンとコノ王の方が大切だったのか? 夫と兄とでは、兄の方が大切だったのか?」

 それを聞いて何になる? 聞けば少しは現実が変わるのか?

「私が心から愛しているように、お前も私を一番愛してくれていると思っていて……。そう信じていて――だから、皆を振り払って……ディエジを振り払って――そうしてここまで来たのに。お前に愛されていると信じていたから、だからここまで――」

「神様――お許しを下さい。アーサフ様」

 イドルが僅かに顔を上げ、泣きながら言った。

「御免なさい。許して下さい。――でも……、出来るならば、私を責めないで下さい――」

責めているのか? 彼女に責任を押し付けて? そうすれば、敗者に落ちてゆく自分が少しは救われるのか?

「貴方様が現れた時……。あまりに突然で、何が起きているのか分らなくて。イリュードまで居て――混乱して――だって、

 何をするのが一番良いのかなんて、すぐに分からなかったから……。リートムとマナーハン、どちらかを選ぶ羽目になるかなんて、そんなこと解らない――出来ないのに……」

「イドル……」

「何も知らなくて――。出来ない。だってリートムも、マナーハンも、貴方様も、兄も、皆大切で――。

アーサフ様、私はどうすれば良かったんでしょうか……」

「王様。イドルを責めないで下さい」

 モリットはすぐ横にいた。切れた唇に血をにじませ、激しく消耗した顔だが、しかし奪った短剣を確実に握っていた。その切っ先を自分の方へ向けていた。

「イドルは本当に何も知らなくて、ただ素直に混乱しただけですから。それだけですから。

 貴方への愛情も、父親への想いも祖国への想いも、イドルにとっては全て本当ですから、責めないで下さい。可哀想です。混乱して判断なんてできなかっただけだから」

「――」

 そうだ。自分も同じだ。

 唐突に襲いかかってきた運命の翻弄に――モリットに、無様にもがくしか出来なかったのだから。冷静に判断出来なかった結果がこの現実なのだから。

 イドルが嗚咽している。自分の犯した失敗を、猛烈に悔いている。これも自分と一緒だ。それでも責めるのか?

「王様。俺がイドルに燭台を投げつけたのは、ああでもしないと本当に貴方に殺されると思ったから。それだけです。だって俺は、ここで天国に送られたくは無かったからです。許して下さい」

 そしてモリットは、静かに宣した。

「俺の勝ちです」

「……。お前の勝ちだ。私は負けた」

 皮肉でも悔しさでもない。モリットの勝利への素直な賛辞として答えた。

 ――

 窓の外から、様々な物音が聞こえ出していた。

「そろそろイドルに別れを告げて下さい」

 城外に異変が起きているのに、守備兵が気付き出した。騒ぎ出した。

「夜警達が、軍勢の存在に気付いたみたいです。これから城内はすぐ大騒ぎになります。今からだとイドルを連れて逃げるのはもう間に合わない」

「どうする気だ」

「昨夕に厨房の爺さん達と喋ってた時、厨房の地下には貯蔵穴があるって聞き出しました。イドルは取り敢えず、そこに隠します。

 俺もすぐに雑魚寝の中に戻ります。城内に残って、バリマック側の動きを見なくちゃ。もっとも、カジョウはもういないし、コノ王の軍勢は万全の上での急襲だし、戦闘はすぐに決着するでしょうけどね」

 早口でどんどん現実を述べ、進めてゆく。

「ほら。物音が大きくなってきてる。王様、急がないと、すぐにここにも人が来ますよ」

(ならば私は――)

 そう言おうとした時、声は喉で止まった。

 モリットが強い眼で自分を見ていた。

 その足が猫のように音を立てず一歩を進めた。右手に握られている短剣の刃が、冷やかに光を返した。

 首筋のピリピリとした感触する。ここに至るまでの間に何度となく覚えた死の予感が、今度こそ現実味を帯びる。

(おそらく、自分は勝てない)

 思う。だが、

(ただでは殺されない)

 己の出来るところまでを己で進む。歪んでしまった命運を、それでも出来る限りを切り進む。リートムの小王に相応しく。

 アーサフは近づいてくる相手の剣先を見る。それを奪い取るべく僅かに身をかがめる。全身を引き締める。と、

「どうぞ。貴方はお好きな所に行って下さい」

 短剣は、差し出されたのだ。

「私を逃がすのか? なぜ?」

「言ったでしょう? 面白そうだから。貴方がこの後どう動いて、何をするのかに、興味が有るから」

「……どういうことだ」

「言葉の通りですよ。でもまあそれ以上に、貴方が好きだからかな?」

 本心なのだろうか?

 いや、もう考えている時間は無い。差し出された短剣を受け取る。一瞬だけアーサフは迷った。

(殺すべきか? この短剣で素早く刺すべきか)

 迷った時間は呼吸一つ分も無く消えた。今はやるべきではない。負荷になるだけだ。今は。

 それに。

(このカラスは、自分の命を救った。そして――強さを与えてくれた)

 部屋の外の物音と人声が、大きくなっている。異変に気付いた人々が次々と、一斉に騒ぎ始めている。

アーサフは泣き顔の妻を深く見ると、強く抱きしめた。抱きしめながら、自分でも意外な程に冷静に告げた。

「イドル。さようなら。神の御加護を」

「……」

 妻は答えない。ただ自分を見ている。

 何を思っている? そう訊ねたかったが、残酷に思えて出来なかった。なのに抱きしめたその感触はあの朝と全く同じで、だから冷えた感傷を覚えた。

“御無事で。お待ちしてます”

「お待ちしてます」

「――」

「ついて行きたいけれど、でも私と一緒だと貴方は逃げ切れないから。だから、お待ちしてます」

「……。そうだな」

「貴方が戻るまで、リートムでお待ちしてます。ずっとこの城で、逃げずにお待ちしていますから、だから、必ず御無事で。戻ってきて」

 そう言った。時間と現実の中に僅かな強さを示した。一度だけ、短い口付けを交わした。

 カラスのモリットが、部屋の扉を開ける。

「余計な事かもしれませんけど、一つだけ。

 もしその気があるようなら、散り散りになってしまったリートムの豪族と兵とを集め直しては如何ですか? その上で機が適ったら、再び旗を掲げてリートム奪還の行動をとって下さい。

大変でしょうけど、でもコノ王を驚かすことが出来たら面白そうだし」

「分かっている」

「あと、逃げるなら城壁の北東の角からが良いと思います。正面門と裏手のどちらの夜警からも一番遠くなる」

「分かっている。ここや私の城だ」

「夜が明けたら、コノ王のものになってますよ」

「貴様の望む通り、戻ってくる」

 短く言い、ガルドフ家のアーサフは、踏み出した。

 彼がすべき最初の事は、この部屋を去る事だった。

 騒乱が始まり一斉に灯が灯され出した己の城内を、走り抜ける事だった。



【前半終了】



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