5-2・ イドル
目を貫いたのは、光だった。
眩い燭台の光で視界は白くなり、それが戻るまでにもどかしいほど時間がかかった。間伸びた時間の果てに、目はゆっくりと慣れ、光の中に物は輪郭を結び……。
見慣れた輪郭だ。見慣れた淡色の普段着。無造作に背中に落とした髪。その姿で横向きに椅子に掛けていた。顔だけが、こちらを向いていた。強く驚きながら。
「……。アーサフ様……?」
“御無事で。御帰還をお待ちしています”
自分を縛り続けた幻影が、実像となっていた。
「アーサフ様……、どうして、ここに……なぜ……」
即座、驚愕を示す妻の許へ進み出て、抱きしめようとし、――しかしその足は止まった。
悪寒は、足首から這い上がった。生れた時から傍らにいた守護聖者が、この場で及んで自分を見捨てたと思った。神を冒瀆する怖ろしい句すら心を過ぎった。
もう一人の輪郭があったのだ。
広い室内の奥側。妻の向かいに、椅子に腰かけ微動もしない姿があった。バリマック人の独特の薄い色合いの眼が、真っ向から面白がるように自分を見て、言った。
「昼間、貴様が中庭を横切っているところをたまたま見かけていた。礼がまだだったな。鷹の子は受け取ったぞ。まさかあの贈品が、ガルドフ家のアーサフ王からだったとはな」
「……誰だ」
解かっているのに訊ねてしまう。なぜ?
「バリマック族の首領・カジョウだ」
「――」
なぜだ? なぜ――?
この部屋に居るのはイドルかカジョウのどちらかのはずじゃないか。その二者の選択に悩み、賭けたんじゃないか。それなのにまさか両者が同時に居るなんて、有り得ないじゃないか、酷いじゃないか!
視界の真ん真ん中、カジョウは巨大な存在感を放っていた。
かなりの年配者らしい。一つに結ばれ長く伸ばされた髪は、真っ白く変じている。だというのに、複雑な曲線文様で飾られた赤い長衣の中で、大柄な体躯は隅々まで張り詰めている。
何より、眼が強い。薄い色合いの眼が、圧巻の射抜くような力を持って、自分を見ている。
これが、カジョウだ。
エリン島各地で土地の奪取を繰り返し、小王達を恐れさせた男だ。見事な迅速さでリートムを侵略し、見事な手腕でその為政を執った男だ。――自分が対峙しなければならない男だ。
「リートムのアーサフ王は急遽の帰国の途中に、賊の手で呆気なく殺されたと聞いていた。だが生きていたのか。やはり噂は当てにならないものだ。ともかくも、よくこのような場まで戻って来た。その点だけは評価する」
「……。貴様、ここで――ここで私の妻と何をしていたっ」
はっとイドルが顔色を変えた。頬を赤くし戸惑うように夫を見た。
「いえ、アーサフ様。――カジョウ殿は毎日のように私の部屋を訪れてくださって、色々なお話を……」
「話?」
「街のことを話して下さいます。リートムの街と領地をこの先どうしていくかと。なるべく早く国内を安定させて、昔以上の活気を街に取り戻して発展させたいと。
今日は、昼間が御多忙だった為に、この様な夜更けになりましたが、私に、不自由が長びいていることに対する説明と、それに謝罪を伝えに来て下さいました」
「謝罪? お前に謝ったのか?」
「はい。カジョウ殿はいつも、私や城の者達に気遣って下さいます。私も城内でしたら自由にさせてもらっています。侍女達やかつての城の使用人達も、ここを去るか残るかを好きに選ぶことが出来ました」
「――」
「アーサフ様?」
顔が混乱に歪められてしまう。それを見ながらカジョウは流暢なエリ島語のまま、露骨な嘲笑の諺を口にした。
「『蝿の頭に下衆の勘繰り』。」
「――」
「貴様の蝿頭も下品な勘繰りで一杯か? 何夜かを離れてしまった今となっては、もう、妻の言葉も信じられないか?」
妻が当惑して下を向く。アーサフこそは見透かされた下世話への羞恥に、唇を噛んだ。それを面白がってカジョウはいよいよ皮肉気に笑み、
そして笑みは消えた。
「わざわざ戻ってくるとは」
その時、空気が張り詰めたのを感じた。
ゆっくりと、カジョウは椅子から立ち上がる。大柄の体躯の全体が、揺れる灯にさらされる。その存在の圧力は、単に体格の問題だけではない。この男の経験や頭脳や自信や、それら全てがにじみ出てくる。自分をはるかに上回る力量者であることを、アーサフに実感させる。
「そのまま姿をくらませていれば良かったものを。そうすれば私も探さなかったものを。
自らが妻の救出に来るなど、美談ではない。ただの無謀だ。王は何よりも国を優先させるという鉄則があるのを知らないのか? 常に大局を見て慎重に行動すべきなのに、それすら忘れたのか? それ程に貴様は愚かなのか?」
一体この男の、どこが蛮族だ? 神賭けて、そんなことあるか。完璧な力量をもった、第一級の宗主だ。
「妻の救出なら、なぜ臣下に任せなかったんだ。それとも貴様の臣下達はよほど信頼に足らない無能者ばかりなのか?」
「――黙れ。違う」
「自らが破滅したらリートムの未来がどう進むかを考えなかったとは、愚行極まったな。
今、こうなった以上、私も貴様を潰さない訳にはいかない。そのくらいは理解できるな? 王として失敗した以上、その責を採れ」
「――。失敗……」
「敗北した。貴様は」
カジョウが、滑るような一歩でアーサフに近づいた。
最大級の警戒が体内を走る。なのに吸い寄せられたように相手に見入る。判る。この相手が高年齢にもかかわらず、おそらく戦闘の能力においても、自分を上回っていると判る。
(このままでは、潰される。――だから)
続く句は、自分でも不思議なくらい自然に出た。
(だから、今は、戦う)
アーサフの右手が、胸元に伸びる。血と脂の残る短剣を胴着から引き出す。カジョウの眼付が変わる。
「ガルドフ家のアーサフ。本気でここで命を捨てる気か?」
「……」
「どこまで愚かなんだ。――。――――」
耳障りな言葉は、呪詛だろうか。嘲笑か、憐憫か、それとも祈祷句なのだろうか。カジョウは腰に差していた長剣を抜き、右手に慎重に握った。ゆっくり前へ進み出てきた。
にじるよう、アーサフは下がってしまう。相手の気迫に押されてしまう。
さらに数歩、進み出てくる。さらに下がる。背中が、タピスリーを吊った壁にぶつかった。
「もう後ろは無いぞ」
壁の固さとタピスリーのざらついた感触を覚える。ふと眼が、カジョウの背後の窓を捕えた。こんな時というのに思い出した。あの最初の宵まで、時を遡った。
あの時。唐突に月の現れた空。その直前のディエジの顔。“お前が独りで帰還して何ができる? それが今お前のするべき事なのか、アーサフ?”。
「それが貴様のすべき事だったのか? 殺されるために戻ってくるのが?」
カジョウの口が同じ事を発する。
違う。自分は殺されるために戻ってきたのではない。
部屋の隅、イドルは目の前で起こっている現実に恐怖し、凍り付いたよう絶句して床に座り込んでいる。戻って来たのは、彼女を救う為だ。愛して止まない自分の妻を救う為だ。だから、
「賢明の選択を採れ。降伏しろ。ガルドフ家のアーサフ!」
降伏しない!
アーサフは床を蹴る。短剣を振り上げ体当たりしようとする直前、右腕に殴打の衝撃が走った。短剣が床に落ちた硬い音とイドルの悲鳴は同時だった。
素早く見上げた視界が赤色で埋まる。カジョウの赤い衣だと思った瞬間、腰を力任せに蹴られた。床に頭を打った。
すぐ起きろ――と、頭のどこかが冷静に判じた。が出来ない。カジョウが剣を振り上げている。今度こそ、剣に貫かれる。
終わる。床に倒れた瞬間、終わる。
――だがアーサフは倒れなかった。独りでは。
「立って!」
殴ったのか? いや突き飛ばしたのか?
とにかく、モリットが部屋に飛び込んできていた。カジョウの体を床に倒していた。今、リートムとバリマックの宗主二人は同時に床に突っ伏していた。
「王様! どうします? 早く!」
甲高い声で急かす。不意の一撃を喰らったカジョウが、苦痛と驚きに顔をゆがめながら上体を起こし始める。
「王様! 早く!」
機だ。二度と来ない最高の機だ。なのに頭がズキズキと脈打ち、考えられない。他人事のようにじれったいほど思考が動かない。
「早く!」
考える。今、自分がやるべきこと。自分が自分の意志で動いてきたこの数日間の、その目的を思い出す。
“殺すのが目的ではない、必要無い!”
そう叫ぼうと息を吸った時だ。
アーサフは奇妙なものを見た。カジョウが、吸い付くようにモリットを見ていた。
「お前――」
カジョウがモリットを凝視している。真剣な、奇異な顔で。
「何故、ここに? お前は――」
モリットは何も言わない。異様に冷静な眼でカジョウを見返し、
いきなり床を蹴った。カジョウに襲い掛かった!
だがカジョウも速い。目指すは床に落とした長剣だ。衣の裾を翻し、長い腕を伸ばして今、五本の指が剣をしっかり掴んだ。
勝った! とカジョウは思っただろう。
「――っ」
己の神への謝辞を言っただろう。しかしそれが神へ届く事は無かった。
カジョウはこと切れた。
フィー川を遡ってリートムへと押し寄せ、一夜で占拠したバリマック族の首領、その街において賢明な統治を始めた為政者、ガルドフ家のアーサフの全身全霊を苛み続けた敵は、あっけなく消えた。細い短剣のたった一撃が、この男そのものを、彼の神の所に送ってしまった。
……
広い室内の空気が、静まっている。燭台の火が大きく、不安定に揺れている。
「モリット。お前……」
感謝するべきなのに。
しかし今、感謝の気持ちは無い。動揺と嫌悪が吐き気のように胸元を覆う。
「お前。落ち着いているな」
自分が言葉を選んでいると自覚する。警戒を発動していることも。
「カジョウを――奴を一突きで殺し、それでも落ち着いているな。
カジョウは殺さないと私は言ったぞ。奴を殺さなくても私を助けられたはずなのに。なのに奴を有無もなく殺したな。これ程鮮やかにっ」
首の後ろという人間の最も弱い部分を貫かれたカジョウが、床に転がっている。血すらろくに流れていない。
「奴は何かを言いかけていたのに。だが貴様が殺してしまった。
今私に分かるのは、カジョウが貴様を知っていたという事だけだっ」
「王様。今はここから即座に逃げ出すことを考えた方が良いのでは。説明は後でします」
「今しろ」
モリットは真顔で、冷静に答えた。
「以前にバリマックの野営地の辺りを、何か盗める物がないかと思ってうろついていた事がありました。。その時たまたまカジョウと顔を合わせてしまった事がありました」
「それだけでカジョウはあんなに驚くのか? 全ての動きを止めて貴様に留意するのか!」
「詳しい話は後でします。約束します。今はとにかく――」
言い終えると一転、部屋の奥へ向かい、この上なく明るい口調で発した。
「奥方様。もう御心配は不要です。貴方様の夫君であるアーサフ王と、私・薄汚いコソ泥のカラスのモリットが、貴方様を救出するべく御迎えに上がりました」
一番奥の壁際に、イドルは崩れるように座り続けていたのだ。
仔犬のように身を丸め、怯え、震えていた。恐怖に凍り付いた表情のまま、しかし涙だけが赤い目からにじみ出いた。
はっと自覚する。何てことだ。いくら動転したとはいえ妻の事を忘れていたなんて。
「大丈夫か、イドル――」
妻の許に向かい膝をつく。乾いた血の残る手で、そっと長い髪に触れた。
「済まない、怖がらせてしまって、済まない。もう泣かなくていいから……」
あれ程に望んだ妻を、ついに抱きしめた。抱きしめ、温もりと感触を確認せずにはいられなかった。
「もう震えなくていいから。終わったんだ。全て忘れてしまえばいいから。
もう恐ろしいことは起きない。私達はこのまま城を出て、隠れている陣営へ戻る。ディエジもマクラリも無事だ。皆が、私がお前を救い出して戻るのを待っている。
それから、リートムを取り戻す。すでにマナーハンのコノ王の援軍も取り付けている。だからすぐに元通りの日々を取り戻せる」
「マナーハンの……父上の……」
「そうだ。だから、さあ立って」
体を支えながら妻を立たせ、いたわるように腕を取って進もうとする。
その時に気づいた。
イドルは、自分を見ていない。小刻みに揺れる視線は、別の物を見ている。扉口をみている。そこにいるモリットを。
「イドル?」
「……え?」
慌てて視線を戻す。だが夫の眼を拒み、下を向いてしまう。
「イドル? 何?」
「王様、急いでください。早く引き上げましょう」
イドルが動揺している。視線が不安定に揺れ、激しく動揺している。
「イドル――」
アーサフの感覚に、何やら得体の知れない陰が生じ出した。だが。
(後にしろ。今は城から脱出することを最優先しろ。今はともかく、この妻を連れて逃げることだけを考えろ)
自身すら驚く冷静と賢明をもって制し、再び妻を支えて歩み出す。モリットは扉の握りに手を伸ばし、それを引き開ける。
「――!」
血まみれの巨体がそこにあった。
バリマック衛兵が目を極限まで剥き、目の前のモリットの胸倉を掴み、叫ぶ。剣を突き出す!
「モリットっ、剣!」
「イリュード!」
カラスがこの攻撃をかわすのは、いとも簡単だった。
バリマック兵はすでに瀕死だった。先ほど階段で騙し打たれた時には死に損なったものの、運命は変わらなかった。滑る様に身をかわしたカラスの短剣にあらためて首を刺され、神の許へ送られた。
運命が変わったのは、モリット、イドル、そしてアーサフだった。
「“イリュード”……?
その名前――。モリットが最初に名乗った名前だ。どうしてお前が……イドル?」
少女は、顔色と言葉を失っている。もう夫を見られない。
そしてモリットは、全く変わっていない。扉口に端然と立っている。足許の遺体には目もくれず、今夜三度目の用を果たした短剣を握ったまま、アーサフの次の言葉を待っている。
「どうして貴様が名乗っていた名前をイドルが知っているんだ」
「――」
「以前も訊いた。お前は何者だ」
「カラスのモリット」
「――」
「と言っても、もう駄目ですかね」
と言い、ニッコリと笑った。
カラスは、たった今開けたばかりの部屋の扉を再び閉めた。そのまま扉の前に立ちはだかった。
アーサフは部屋に閉じ込められるかたちになった。