1ー1・ ディエジ
1ー1・ ディエジ
風音を割り、速い蹄音が近づいてくる。その音が天幕の前で止まり、衛兵達の騒ぐ声が聞こえ出す。
(来た)
アーサフは閉じていた目を開け、簡易寝台から身を起こす。天幕の隙間には、慌ただしく動き回る数人の人影が見える。と思うや、すぐに扉布の許から、声が響いた。
「アーサフ王、失礼します。急使が来ましたっ」
来たな。
「遅かったな、ケルズからの使者だな?」
「いえ。違います、リートム王城からの急使です」
「王城から? ケルズのオオドワ王からの休戦申し出の使者だろう?」
「いいえ。王城からの、緊急の使者ですっ」
何を妙な事を言っているんだ?
だが見ろ。
天幕の外の人影――衛士やら侍従やら使用人やらの様子がおかしい。明らかに人数が増えている。声が大きくなっている。
おかしい。何が起こったんだ?
寝付いたばかりだったアーサフの頭は、急ぎここまでの事態を振り返った。
――自信はあった。
西のルースにも北のイライゴにも、隣国の動きに万全を整えた上での出陣だった。今回のケルズ国との会戦に、何ら不安は無かった。自国リートムの軍勢は順当に勝利を収める見通しで、ケルズのオオドワ王もまたこの状況を知っているから、ほぼ間違いなく、直前で休戦を申し出て来るはずだった。
「王。マクラリ卿が隣の天幕のお待ちです。早急にそちらへ。どうぞお急ぎ下さい」
疑念に構っている暇はない。着付けたままの胴着の上に外套を羽織り、アーサフは外へ出る。自身の天幕の左に並ぶように建てられている天幕へと向かい、中へ入り、
その瞬間、ムッとする光が目を射た。
光の中、一斉に全員の目が自分に集中した。厳しい緊張の眼で。
「……。なぜ、ここに皆が集まっているんだ?」
「尋常ならざる事態が発生したと、聞いています。急遽、彼らも招集しました」
最年長のマクラリ卿が淡と述べた。その通り、彼の側近達の七人が全員、天幕内に立ち並んでいた。
「尋常ならざるって、何が起きたんだ?」
伝令兵が即座、アーサフの前に進み出る。上衣も靴も泥に塗れた全身と、凄まじい疲労と緊張を示す表 情とが、燭台の灯にはっきり映し出された。
何が起きたんだ――?
「アーサフ王へ急報! リートム市街の守備隊長・ヨアンズ卿よりの急報!
本日、突然領内にバリマック族の武装一団を確認。その兵数は約三百。
敵は攻城用の武具を携帯。フィー川を遡って真っ直ぐにリートムの街に接近中。ほぼ間違いなく今夕には街に到着と思われる。
アーサフ王には即座に全軍と共に帰還されたし。街と王城の防衛に全力をっ」
「バリマック族がリートムに!」
誰かが大きく叫んだ。と同時、全員が主君の顔を見た。
主君は――アーサフは、固い顔だった。立ち並ぶ七人の卿の中でも最も若く、まだ少年の印象すら残す彼らの主君は、口許を固く引き締めたままだった。全ての視線に囲まれ、しかし固い目付きのまま呼吸四回分の無言を保ち、そしてようやく低い声を発した。
「ヨアンズ卿からの報告はそれだけか?」
「はい」
「街はすでに攻撃を受けたのか? 我々がここから戻るまで、ヨアンズは街を防衛し切れるのか?」
「市壁や防護柵は万全です。食料と武器の備蓄もあります。しかし今現在の街の状況は分かりません」
「バリマックは、北から襲来する海賊だ。荒らすのは海辺の地のはずだ。どうしてリートムのような内陸の領に現れるんだ?」
「分りません」
「海からフィー川を遡る間には他にも街が幾つもあるのに、なぜバリマックはリートムを狙ったんだ?」
「分りません」
「なぜリートムなんだっ、何より街は今どうなっているんだっ」
「分りません」
「いい加減に何か答えろっ、何なら分かるんだ! 貴様それでも伝令か!」
「王。この者も何も分からないのです」
見事な間合いで、マクラリ卿は、声を挟む。その年齢と経験に見合った充分な落ち着きをもち、必要な言葉を簡潔に述べた。
「状況は分かりませんが、それでも今求められるのは、即座の対応の決定です。すぐに討議に入りましょう。
王? アーサフ殿、聞こえていますか? 即座に検討に」
「――。すぐに馬を用意しろ」
「無理です。先程、陽は没しました。いくら伝令兵とはいえ、これから早馬を派遣するのには危険が伴います」
「伝令兵ではない。私が行く。私の馬を」
「何を言っているのですか? 今夜は曇天で月は隠れています。闇の街道を走る事は、専任の伝令でも難しい。増してここからの帰還は途中で沼地を抜けねばならず、危険すぎます。貴方が行うなど、許されません」
アーサフを見ながら、マクラリはよほど為政者らしい口調で言った。
「不安の気持ちは理解しますが、今は感情を控えて、リートム王としての義務を果たして下さい」
「――。そうだな。分かった」
十七歳の青年王は一瞬恥ずかしそうな表情をさらし、だがすぐ常通りの思慮深さを取り戻してゆく。が。
王の瞬きが妙に遅くなり、その指先が僅かに、不規則に動いているのに気づいた者が、一人いた。
真左に立つ、ディエジだ。
主君より少し年上の若い側近は、微動もせずアーサフを見ていた。きつい印象の顔立ちを一層に引き締め、鋭い視線を向けていた。その横でリートム王アーサフは、信頼する七人の側近達に告げてゆく。
「聞いてくれ。情報が少なすぎるが、取り敢えず私の考えを伝えるので、貴方達の意見を聞きたい。
夜が白み次第、情報収集の為に数名を、早馬で派遣する。また全軍も帰還する。つまり今回の対ケルズ遠征は中止だ。リートムの実状がどうあれ、この状況で戦役は出来ない。
兵士達にはまだ事情は話すな。動揺は与えず、しかし全速で街へ戻る。多少無理をかけることになっても、何としても明後日の朝のうちに街の南丘までに到着しているようにしたい。
今の段階では、出来ることはこれ以上見つからない。だが事は急を要する。もし事態がヨアンズ卿の報告通りだとしたら、今頃リートムは――」
そこで言葉は、詰まった。アーサフの体の底に、柔らかな微笑みが甦った。
“ご無事で。お帰りを待っています”
僅かの間だけ、眼を閉じた。
「……。私の考えは以上だ。マクラリ。貴方の意見は?」
「付け加える点があります。取り急ぎ、マナーハンに使者を出しては如何でしょう。
マナーハンのコノ王ならば――貴方の義理の父君ならば、リートムの危機にも支援の手を伸ばしてくれるはずです。
仮に街がバリマック族の強襲を受け、すでに占拠されているとすれば――守護聖者リートの名においてそんな事はあってはならないのですが――、我々が即座に街を奪回するには、マナーハンの援軍は極めて有効でしょう。打診をするべきです。如何でしょうか」
「……」
アーサフは黙った。横のディエジなどは思わず神の名を唱えた程の名案だったというのに、若きリートム王は無言のまま、返答に手間取っていた。
しかしそれも、側近達にとって意外では無い。彼らの主君の常の態だ。
常の通り、他者の意見を充分に聞き取り、静かに、慎重に考えを巡らせている。それが自分達の主君だ。まだ若年だというのに、それでも確かに自分達が信頼と忠誠を捧げるに足る、リートム王・ガルドフ家のアーサフの思慮深い姿だ。彼らはそう思った。
――大間違いだ。
今、アーサフの内側は、己への嫌悪に歯ぎしりをしていた。
本当に、言われるまで気付かなかったのだ。援軍という最も有効な要素を、間抜けなことに他人に言われるまで完全に忘れていたのだ。リートムという国の全ての責を負うべき王だというのに。
そしてもう一つ。今、彼の頭から冷静を奪って止まないものは、それは――、
“ご無事で、お帰りを待っています”
……明るいトビ色の眼の少女の微笑み。
「王。時間を無駄に出来ません。即決が必要です。この件への貴方の御意見を」
「……。確かに、私の義父であるコノ王は、信頼に値する。王にだけは事情を知らせ、援軍を要請する」
「ではこれからすぐに使者を準備します。
さらに早急に検討すべき事項として、現在の敵方であるケルズ国への対応があります。これこそは即座の決議が必要となります。すぐに軍勢の兵長達を大天幕へ呼びますので、あちらへ移動し、検討に入りましょう」
「分かった、すぐに向かう。――だが、少しだけ時間をくれないか」
「では我々は先に向かいます」
マクラリは一礼を払い、天幕から踏み出していった。それに続き、他の六人も次々と去ってゆくが、
「ディエジ」
弾かれたように振り返る。きつい印象の、しかしアーサフにとって限りなく親しみを覚える顔が、室内の光に照らし出された。
「何だ?」
「――」
「もう皆出ていった。何だ? 話せよ」
「……。諸聖人の名において、本心を言ってくれ。ディエジ。
リートムに……本当にリートムにバリマック族が襲来したと思うか?」
「思う。間違いでこんな罰当たりの報を流す奴はいない。事実だな。
そして事実なら、俺もバリマック族の噂は聞いている。恐ろしい素早さで街に攻撃をかけ、略奪の限りを尽くすそうだ。今頃リートムの街は本当に危うい」
途端、アーサフは弱さを露呈してしまった。
「なぜそんな冷静に話せるんだ? なぜっ、恐ろしくないのか? 不安じゃないのかっ」
「不安かだって? 不安だよ、不安でどうしようもない。俺だけじゃない、全員がそうだろう。俺一人だったら今すぐに馬を飛ばしてリートムに帰ってる。
でもそれは出来ない。俺はお前の家臣だからな。お前の指示と命令なしでは動けない」
「私の指示――」
「お前がリートムの王だ。決定を下すのはお前だ」
「どうして私だけが自分で決めなければならないんだ。ずるいぞ」
「何だって?」
隠すよう、アーサフは口の動きを止める。それもまたディエジは見逃さ無かった。
「混乱しているな。気持ちは解るが、でも落ち着け、アーサフ。今のお前には、俺達の誰よりも冷静でいなければならない義務がある。だから落ち着いて、いつものお前らしい慎重さを保てよ」
(それをなぜ、私にだけ要求すんだ! なぜ!)
アーサフの叫びは、声になる寸前で噛み殺された。
「俺は先に行く。皆がお前の指示を待っている。少なくともその怯えた顔色は殺してから来いよ」
黒い上衣の裾を翻すと、ディエジは天幕から出ていってしまった。
そしてアーサフは、揺れる灯の輝く天幕に、ただ一人になった。
“ご無事で、お帰りを待っています”
扉布が、風に大きく揺れていた。天幕の外は、とっくに闇に陥り出していた。上空では強い風が、雲を押し流していた。
「あれ?」
大天幕に入って来た雑務の小僧が、間抜けた声を上げた。
「アーサフ王はまだこちらに来てないんですか?」
途端、ディエジは振り返った。
「もう、御自身の天幕にいませんでしたよ。どこかへ立ち寄っているんでしょうか?」
極めて敏感に嫌な現実を予測し、誰よりも早く顔色を変えたのもまた、王を最も良く知るディエジとなった。
「お前っ、今すぐ馬を見て来いっ、王の馬だ!」
「王の馬って?」
「いいから行け! 早く! すぐ行け!」
何も飲み込めないまま追い立てられ、小僧は野営の斜面を登ってゆく。上空では強い風が吹き、雲間から月が浮かびだしている。大天幕内では、集まっていた側近達と隊長達がざわめき出す。
「どういう事だ。ディエジ」
自らも天幕から飛び出しかけていたディエジは、噛みつくような顔でマクラリを振り返った。
「アーサフがいないっ」
「意味が良く分からない」
「いないと言ったんですよ。アーサフが今ここにいない、俺はそう言ったんですよっ」
「ここというのは、この天幕という意味か? それともこの野営という意味か?」
「何を細かい事を言ってるんだっ、今俺が――」
と、苛立ちのままに続けようとした時、斜面の上から声が響いた。
「ディエジ卿、王の馬がいませんっ、一頭だけいないんですが、なぜ王の馬だけ?」
「あの――アーサフの奴!」
吐き出すように怒鳴り、即座走り出しかける。その肩口を後ろから引いて止めたのはまたマクラリだ。
「ディエジ。つまり王が、この夜営から単独で出奔して帰国したという事か」
「そうですっ」
「あの慎重に思慮をする質の王が、そんなに無謀で無意味の行動に出たというのか」
「そうですよっ」
「何故だ」
「『何故だ』?」
今度こそ苛立ちは怒りとなり、真っ向からぶちまけられた。
「そんな冷静な口調で俺に訊くな!
そうだよっ、あの慎重な、臆病な程慎重なアーサフが、たった一人で夜中の街道に馬を走らせるなんて気違い沙汰に出たんだよっ。しかも途中には沼地があるのにっ。しかも奴は早馬が下手糞なことを自分でも知ってるのに!」
「なぜ、あの冷静な王がそのような愚行に出たのだ」
「黙れ! そんな涼しい声で訊くな! 俺が知りたいのはアーサフが今どこにいるかだっ、無事なのかだ!」
「その通りだな」
またもや涼しい口調だった。
その時点でディエジはもう留まっていなかった。怒りも露骨に主君への罵倒を叫びながら、灌木の生える斜面を下ってしまった後だった。
・ ・ ・
エリ島。
くすんだ緑石のような色合いの、北の島。
季節を問わず、冷えた空気に包まれている。垂れた雲と小雨、そして白い霧が、たっぷりの湿度を与え、どこまでも連なる丘の斜面に、灌木を育ててゆく。島の全体に、深く濃い碧の色の風景を作り上げてゆく。
人々が知らない昔から、エリ島には豪族達が根付いていた。
彼らは父祖より受け継いだ土地に根を張り、これを護り、これを増やすことを使命としていた。戦闘や、交渉や、協定や、婚姻やらを繰り返し、統合と分裂を繰り返し、繰り返して競い合い、そうした果てに今に至る勢力図を築いてきた。
全島に三十数人を数える彼ら・有力な豪族達を、人々は『小王』と呼んでいる。
そして今。
三十数人の小王の一人、小国リートムの宗主、ガルドフ家のアーサフは、乳の様に白い霧の丘に居た。
「エリンの小王。リートムの地の王。ガルドフ家の、アーサフ」
彼は無意識のうちに、自分の称号を呟いた。
緩やかな、しかし延々と続いてゆく丘の斜面に、ゆっくりと馬を進めていた。疲れを覚えていた。体も思考も、疲れ切っていた。
分かっている。自覚はある。自責も。
(そうだな、確かに夜の沼地を抜けるのには、成功した。――ただしこれなら、夜明けと同時に出立しても大して変わらない程に時間を喰った上で)
王座に就いてから初めて、衝動に負け、感情に屈た。自分を信頼する臣下達を裏切る愚かな、最低の行為を採った。自嘲の笑みを作ろうとして、それも上手く出来なかった。
馬の歩みは遅い。昨夜、あれ程の勢いで野営地から走り出したのに、今はもう鞭を入れようともしない。これ以上鞭を入れても、自分には鞍の上で姿勢を保つ余力はないだろう。
疲弊した頭は、物を考えるのを嫌がった。だから様々なものが霧のように浮かんでは消えていくのを、漠然と受け止めるだけだった。それは例えば、
自分の国・リートム。
エリ島の典型を見るような風景。
たるみを持つフィー川の流れ。緩やかな緑の放牧地。手つかずの灌木の丘陵。
自分が支配をすることに――させられることになってしまった国。
リートムの地をガルドフ家の祖先が手にしたのは、遠い昔だ。綿々と連なってきたガルドフ一族の当主達=リートム小王達が行ってきた事は、常に同じだった。
“自分の領地を守ること”
だから自分も、同じ命運を負うことになった。――あの日、あの時から。
忘れない。いつだって、いつでも、望まなくても思い出してしまう。あの日の、あの時。自分の運命が変わった瞬間。
「アーサフ――っ」
悲痛の声だ。驚いて振り返り、あらためて、さらに驚いた。
城の通路をこちらへ走ってくる親友・ディエジは、泣いていたのだ。
「お前が泣くなんて……初めて見た」
唖然と驚く。その目の前で、ディエジは止まった。息を激しく乱しながら、目から涙を流しながら悲壮な声で言った。
「たった今、急使が……っ。負けたっ、リートムの軍勢は負けた!」
「負けたのかっ、イライゴ軍に負けたのか? 噓だろう? 父上も兄上も満を持して出陣したのにっ。
じゃあカナーの水路はイライゴ王に奪われてしまうのか? あそこは元々リートムの領民が掘ったんじゃないかっ、兄上は激怒してるぞ」
「……」
「きっと城に戻ったらすぐに、次の遠征の話を持ち出すぞ。元々、イライゴ側の無遠慮な越境が目に余ると兄上が父上に訴えたら、この戦が始まったんだから」
「……」
「二人とも、リートムへの侮辱を許さない質だからな。敗戦の挙句に水路を奪われたなんて絶対に済まさないぞ。
――何だよ、ディエジ。いくら敗戦だからって。水路はすぐに取り戻せるよ。兄上がすぐに軍勢を整え直して、すぐまた遠征を――、
どうしてそんなに泣くんだよ? なんでお前がそんなに――」
「アーサフ。レイリー王子は怒ってないよ。王も。……御二人とも今は、お静かだ」
「何言っているんだ、止めろよ。あれだけ誇りが高い二人が敗戦に納得するなんて、あり得ない。今頃は絶対に激怒して――」
「王も王子も戦死された」
その時、世界が歪んだ。
目の前にいる友の姿も、石組みの通廊も、通廊の窓から見える灰色の空も、全てが歪んだ。
しかし現実は猶予しなかった。涙を流すディエジを介して現実は、
(まさか……嫌だ……言うな――)
恐ろしい一言をアーサフに宣した。
「お前しかいない。お前が次のリートム王だ」
(――。嫌だ)
「すぐに守備隊長の所に行け。イライゴ王の軍勢が勢いに乗じて街までやって来るかもしれないからすぐに守備隊長と話し――、おい! 聞いてるのか?」
「嫌だ……」
「え?」
「嫌だ……無理だ、王なんて、僕には無理だ。だって、兄上が王座を継ぐって、そう決まっていたのに……」
「アーサフ、今は動転していられる時じゃないんだ、駄目だっ、
解る、父と兄と、突然同時に肉親二人を亡くしたんだ、混乱して耐えられないのは解ってるっ。でも今は駄目だっ、哀しむのは後にしろっ。イライゴ王との決着がついてからだっ」
泣き顔のディエジが捲し立ててくる。だが自分は涙も出ない。今、夢中で考えるのは、どうすれば逃れられるかという事だ。守備隊長と合わずに済むかという事だ。とにかくこの場に留まり、その間に誰かが事態を整えて自分の命運の流れを変えてくれる事だ。
「しっかりしろ、アーサフ! 何をしてるんだ、すぐに行け、早く!」
大声が怖い。すがる様に見てしまう。
「だって、兄上が王座を継ぐって決まっていたのに……今さら――。第一、それに――、
それより、知って、お前だって知って――みんな知っているくせに……。知って、思ってるくせに……」
「――」
「思ってるくせに。僕には到底リートムの王なんて勤まらない、そんな器じゃないって、そう思ってるくせにっ。なのにいきなり王位を押し付けるなんて、ずるいじゃないか!」
「――」
「そうだ、ディエジっ、お前がいい! お前にも母方からガルドフ家の血が流れてるんだ。お前の方がよっぽど王に相応しいから、だからお前の方がいい。皆も納得する。だってお前の性格と力量の方が優れていてリートムの為になるんだから。だからその方がいい。僕ではなく、お前がリートム王に就いてくれ」
「……。アーサフ」
その時、相手の顔が笑ったと思った。だから思わず自分も泣きそうに笑った。
これで避けられる。リートム王などという途方もない厄災から逃げられる。
――乾いた、痛烈な音だった。
振り上げて見た視界に驚き、顔に痛みを覚える間もなかった。
そこには、幼い時からの無二の親友の怒りの姿があった。自分より遥かに王者の資質に恵まれた者の、身を震わせんばかりの激しい怒りの顔があったのだ。
「早く守備隊長の所へ行け!」
「ディエ――」
「早く行け! 行け! 貴様が王だ! リートムを守るのが貴様の義務だ! アーサフっ、早く行け――!」
……
十三歳の時。寒い、薄暗い、初冬の夕刻だった。
その時からの四年間にアーサフが行ったのは、ガルドフ家の先代が繰り返したのと同じだった。ただひたすらにリートムの土地を守るだけだった。
周辺の国々との、小さな土地をめぐる小さな戦い。たかが牧草地一つをめぐる、たかが数十人の兵達による、たかが一~二時間で決着がつく戦い。それを繰り返した。その一つ一つに、全力で取り組んできた。四方を取り囲む老獪な小王達を相手に、泣き出しそうな顔をさらしながら、それでも己の義務を果たし続けた。
どうやらその努力は、恩寵深い神の御心にも届いたようだ。
気づいた時、リートム王国は一片の土地も失うこと無く、四年間を終えていた。その功績を領内の人々は、こう言って無邪気に讃えたのだ。
『アーサフ王には、神の御加護がある、
父王の代からの優秀な家臣達をそのまま引き継ぐという幸運によって、若いのに見事に国を護っている』
その言葉の通りだなと、アーサフは冷笑とともに覚えた。