人でなしの恋 心から一生抜けない透明な爪について
私は男性が苦手だ。そして、自分が女性であることが「苦手」だ。
私は私なのに、世界はどういうわけか「自分である前に女性であること」を当然のように要求してきたから。
というわけで、エピソードを一つ上げてから、本文に入ります。
(本文に入るまでが長いよ!)
大学時代入っていたとある芸能サークルの夏合宿でのこと。
夕食に続く酒宴ののち、酔い覚ましに野郎どもとぞろぞろ闇夜の散歩をしていたら、
「ほれっ」という声とともに、結構な大きさのトカゲが私の胸に向かって投げつけられた。
周囲の女子たちはキャッと声をあげていたが、私は黙って、胸にしがみつくトカゲをつかむと、丁寧に地面に置いた。
「そら、そういうところが駄目なんだよなあ」と髭面のY君が言う。
「きみいつもそうだろ。ほかの女子みたいに、普通に感情を表すことがなぜできないのかな。可愛げがないというか、奇矯を気取りたいのかな。もっと女子らしく、自然にしなよ」
私は睨み返した。
「私のことはいいです。トカゲを投げないでください。生き物ですよ、可哀相じゃないですか」
「これだよ。あー、はいはい。一度君は人材教育プロで教育しなおしてもらった方がいいな」
驚いたことに、人材教育プロという部署は本当にあったのだ。私のような「自然体の女子でいられない」「へそ曲がり」をまっすぐな女子に治すために。
私が入っていたサークルは前衛芸術すれすれの合唱団(というかパフォーマンス集団)で、ブルガリア民謡やバリの楽曲、ジェゴグ、ケチャなどを取り入れ、トランス状態になるまで歌い踊り叫ぶという、暗黒舞踏団のような一面も持つセミプロ集団だった。
指導者がとにかく異才のカリスマで、のちにこのサークルは映画「AKIRA」の主題歌を担当することになる。
メンバーは私の通っていた女子大以外に、東大、早稲田、教育大(現筑波大)、お茶の水女子大などが参加している、男女混合の合同サークルだった。
何しろカリスマ先生が園子温監督なみの熱血指導をしてくるので、人里離れた山の中での合宿となると状況は苛烈を極め、合宿が終わるとメンバーは毎回減っていった。
それはともかく、三人姉妹の末娘で女子高女子大と進んできた私にとって、まるで野獣のような野郎軍団と寝起きを共にすることは、負の意味で刺激的すぎた。
全身を使って余すことなく表現せよという指導の下、男たちが半裸でダミ声をあげてをめき叫び、踊り狂い、女子は裏声を出すと、地声で歌えというのがわからんかとカリスマ指導者に怒号とともに椅子を投げられる。
懸命に指導に従えば、「一生懸命さを表に出すんじゃねえ!」とラジカセをぶつけられる修羅場のようなレッスン場。
食事ともなれば餓えた熊のような食欲で男たちはどんぶり飯をかっくらい、酒宴が始まれば無礼講で、下ネタ連発で服を脱ぎ始め、女子に遠慮会釈なくお酌を要求する。
この「理不尽ハードで男尊女卑な空間」で、不快のあまり私は遠慮会釈なくぶすったれていた。
お酌を強要されると「自分で注いでください」とそっぽを向いた。
結果私は人材教育プロに呼び出しを食らい、お茶大のリーダーのお姉様に、女性がどうして女性らしくいなくてはならないのかを大真面目にお説教されることになる。
結局、私は彼女+サブリーダーと大喧嘩をした挙句、サークルを二年で辞めることになった。
後に私は「ノンバイナリー」という言葉を知ることになる。
その言葉を教えてくれたのは歌手の宇多田ヒカルだった。
彼女がインスタライブで「自分はノンバイナリーです」と告白し、ちょっとした騒ぎになったことを知り、それってどういうものなのかとネットで検索してみたのだ。
そして、ああこれだ、と思った。
今までこの世に、世界にどうしてもなじめなかった自分。親に友人に先輩に、あなたは普通じゃない、なぜ女性らしくできないのかと責められてきた苦い思い出。その自分の置き所が、やっとわかった気がした。
ノンバイナリーとは、一言で言って、自身の性自認と性表現を「男性・女性」という二つの枠組みに当てはめられない人のこと。英語の最も簡略な表現は
「Not he not she I am me」だ。
それこそ、私が長年心の中で叫んでいたことだった。
性同一性障害とは違って、肉体の性と心の性が一致しないわけではない。
男になりたいと思ったこともない。同性を好きになったこともない。
宇多田ヒカルも二度結婚しているし、子どももいる。「人」を好きになることに、支障はないのだ。相手が、尊敬できる人物ならば。
ただ私の場合、男性も女性も、自分にとっては「異性」としか感じられなかった。
自分の属する性が、この世にない。
それなら「I am me」でいればいいと思うのだけど、世界はそれを私に許してはくれなかった。
私はいつでもI am meだった。女子が好きなままごと遊びや人形遊びは嫌いで、いつも男の子とメンコやチャンバラ、秘密基地づくりで遊んでいた。(昭和生まれです)スカートはだいっ嫌い、自分を「わたし」と呼んだり、語尾に「~だわ」をつけるのが気色悪くてしょうがない。
ゴキブリがブーンと飛んできてもトカゲを投げつけられてもジェットコースターに乗っても、「キャー」という言葉がどうしても出ない。ほかの友達のように、芸能人や異性に興味が持てない。母親には「なんでもっと普通の女の子みたいにできないの。お姉ちゃんたちみたいに高い柔らかい声でお話しして、いつもにこにこしていなさい。ファッションに興味を持ちなさい」と言われ続けた。
赤ん坊のころから、姉たちとは違う私の個性を見続けてきた母が、なぜ私が私であることを認めず、決められた枠にはめようとするのか。私にはそれが分からなかった。
ついでに、私には木と見れば登りたがる変な癖があった。
どんなに止められても、どんなに高くても、登らずにはいられないのだ。なぜなら、木には鳥の巣があり、たくさんの虫がいるから。故に、母からも姉たちからも、「お猿さん」と呼ばれていた。
いつもヒステリックに命令ばかりする母に対して、姉たちは「はい」以外の返事をしたことがなかったが、私はいつも反抗していた。それも「アナウンサーのような理路整然とした抑揚のないしゃべり方」(よく言われる)で。
とどのつまり、自分は総じてへそ曲がりで「かわいげのないへんな娘」だったのだ。それは認める。 今なら多分、ADHDという立派な名前を付けてもらえたことだろう。
私は母の期待をことごとく裏切り、勉強はせず、中学に入ってもなお木に登り、虫を集め、本を読み空想に耽り、漫画に耽溺し、いずれは漫画家になろうという夢に向かって邁進していた。
姉二人は大学を卒業すると同時にそれぞれ恋人と結婚して家を出て行った。
私は大学在学中ずっと漫画家のアシスタントのバイトをし、夢はただ漫画家になることだった。
そしてコミケに出した同人誌の作品がある編集者に認められ、一本釣りでデビューすることになる。
家にアシスタントを呼んで漫画稼業を始めた私は両親にとって「いらない庭石」のような存在になってしまった。
当時、両親にとって親のゴールは「娘をいい大学にやってまともな男と結婚させること」だったのだ。
なのに不出来な娘が一人だけ、家から出て行かない。
デビューしてから順調に仕事は増え、24歳のころ収入は同年代のOLよりかなり上ではあったが、家を出て独り立ちするなど、命を懸けてでも母は許してくれなかった。家を出ていいのは結婚したときだけだというのが、我家の掟だったのだ。
母曰く、年収一千万を超えないと職業としては認めないという。
(ちなみに愛妻家の父はほぼ母の言いなりだった)
化粧品も持たず、男っ気ゼロの私に母は絶望し、若いうちに見合いを繰り返して誰かにもらってもらうしかないと、某結婚相談所に勝手に私を放り込んだ。
そこで私は生まれて初めて「化粧品」を買わされることになる。
それまでは顔につけるものとしてはニベアとリップクリームしかもっていなかった。自分を飾ることにまったく興味がなかったのだ。
お見合いするのだから化粧品ぐらい自分で買えと言われた私は、何の知識もないまま、ある化粧品店におずおずと入って
「あの、顔に塗ると白くなるものをください」と抜かしたのだ。
二十歳を過ぎた娘がいう台詞ではない。店員は目を丸くした後、横を向いて口を押さえて笑い、「ファンデーションでよろしいですね?」といくつか並べて説明してくれた。私はもう恥ずかしくて適当なのを選んで逃げるようにその場を去った。
なぜこんなものを塗らなくちゃいけないのか、道化でもないのに。
女という性がつくづく恨めしかった。
さらに何着かいけ好かないワンピースを押し付けられ、髪に緩いパーマを当てるように言われた。眼鏡はコンタクトに変え、棒のように痩せた体に母は何着も着せ替えごっこをしては写真を何枚も撮った。写真館で見合い写真も撮ったが、あまりにぶすったれた顔つきで使い物にならず、母が没にした。
私には、一生続けたい仕事があるのに。今どんどん仕事が増えているところなのに。
茶番だ。こんなの自分じゃない。私は漫画を描きたいだけだ、誰か自分の人生を私に許して。私は内心そう叫び続けていた。
かくて初めての化粧、初めてのイヤリング、初めてのワンピースにパンプスで私はいやいや見合いを始めることになる。
紹介所がマッチングしてくれた人は、東大出の医者だの商社マンだのスペックは立派でも、ドラマに出したくなるような変人しかいなかった。
二人きりになって喫茶店にはいると脂汗をたらたらと流し、全身を震わせ、「あの」「あの」以外何もしゃべれなくなる人。
母親同伴でやってきて、こちらが質問すると、厳しげな表情の母親の横で「だよねママ」「これでいいかなママ」「僕の得意なことって何かなママ」といちいち同意を求める人。(お医者様です)
オタク道まっしぐらでとにかく好きなキャラの話しかしない人。
五人とお見合いしたが、結論として「普通の人」すらいなかった。
(この際自分のことはたっかい棚に放り上げます)
そもそも見合いとは、結婚前提にするもののはず。自分には結婚願望もないし、男性苦手だし、主婦に納まって漫画稼業を捨てる気など一切なかった。
なのに、怒ると般若に変身する母親が怖い、それだけで言いなりになっていたのだ。
母はただの「怖い母」ではなく、精神を病んでいたのか、激怒すると「壊れて」しまうのだ。壊れた母は鬼の形相で何時間でも怒鳴り散らし荒れ狂い、関係ない父まで巻き添えにする。そんな母の姿を見たくなくて、私たち三人姉妹は母を刺激しないよう、できるだけ言いつけ通りにしていた。普段は母に対して唯一反抗的な私も、ことお見合いとなると異様な圧力をかけてくる母が恐ろしく、否とは言えない雰囲気があったのだ。
とにかく自分は誰かと結婚しなければ、この家と、母の監視から逃れられない。漫画を描き続けてもいいという寛大な人を捕まえて、脱出するしかない。
そして、私は望まない見合いを繰り返した。
目の前の男性におびえながら、ご趣味はとか子供を作る気はあるかとか聞かれて答えて互いのスペックを探り合う異様な時間は、私にとって地獄だった。
そんなころだった。
あの「キューピーさん」と出会ったのは。
(お待たせしました。ここからが本題です)
あらかじめ釣り書きや顔写真は見いてはいたけれど、ただの髪の薄い丸眼鏡の人、としか思っていなかった。私は男性の外見にさして興味はなかったので、薄毛だろうが丸眼鏡のぽっちゃりさんだろうがそこは気にしていなかった。
ところが、待ち合わせのホテルのラウンジで会ったその人は、なんというか
「あまりにキャラとして完成されていた」のだ。
まず身長。
私よりおそらく10センチ以上は低い。(私は164センチです)
ちっこくてお腹の出た、ぷくっと丸い体形。髪型は、これがもう、キューピーさんそのものなのだ。 まず目立った頭髪はないに等しく、おそらくはそれを集めた「ちょんちょこりん」が頭頂部にソフトクリームのように立っている。
牛乳瓶の底のような丸眼鏡の奥に、つぶらな目。
どこからどう見ても、その人はスーツを着た小さなキューピーさんそのものだったのだ。
「こんにちは、初めまして」とにこにこと笑顔でお辞儀する彼を見て、私は一瞬、思ってしまった。
ああ、この人は女性関係でこれまでどれだけ嫌な思いをしてきたことだろう。
容姿をからかわれたことも一度や二度ではないだろう。それで、女性不信に陥っているかもしれない。
なのに、この太陽のような明るさはどうだろう。微塵もいじけたところのない、にじみ出る純粋さはどうだろう。
いや、姿かたちから考えて人柄がいい、というレベルではない。いきなり結論から言うと、彼は、キューピーさんは、私が生まれてからこれまでであった人の中で、もっとも陰りのない澄んだ魂を持ったにんげんだったのだ。(今となっては人間だったかも怪しいのです)
「ここにはいいカフェがあるんですよ。そこでゆっくりお話ししましょう」と言われ、私たちはカフェに移動した。
その間も、(こりゃ困った)と私は思っていた。失礼ながら、正視して、なお笑わずに真面目に話ができるかどうか自信がないほど、彼は「キューピーさん」すぎる。
そして、男性は苦手だが私は「キューピ―」というキャラは大好きだった。あの、何の毒もない愛くるしい姿とかたちが。
この人と「お見合い」という場で出会ったことを、喜ぶべきか否か。少なくとも、女性として存在しなくてもキューピーさんは許してくれそうだ。そう思わせてくれる、おおらかなキュートさが、最初から彼にはあった。
「漫画をお描きになっているのですね?」と聞かれ、
「はいそうなんです。子どものころからの夢でした」と答えると
「夢を実現されたのですね。一生描き続けて、可能性を追いかける人生は素晴らしいものになるでしょうね。才能ある人は尊敬します。僕も応援しますよ」
にこにこと彼は答えた。
実はこれまでのお見合いで、こちらの現在の職業を言ったとたん、「でもそれは結婚したら当然やめるおつもりですよね?」と即言われたことがある。ああ、少女漫画家というのはそういう評価なんだなとがっかりすると同時に、「いいえ」と私は即答した。それが第一条件ならお断りされて本望だったのだ。
「そんな風に言っていただけるなんて。両親には、早くお絵描きごっこをやめてまともな職に就きなさいとしか言われませんでした」と答えると
「とんでもない。あなたの才能はあなたの宝ですよ、大事にしてください」
その笑顔、後光の差すような優しさ、みているだけで包み込まれる透明なオーラ。
彼は終始一貫して笑みを絶やさず、話し上手で聞き上手だった。
彼からは清浄な風が吹いていた。表現が難しいのだけれど、まるで空気清浄機のような人だと、私は思った。
一応言っておくけれど、こんな私でも「親しい男友達」がゼロだったわけではない。中には顔がマネキンのように整った人、知的で思いやりがありユーモアのセンス抜群な人、感性の波長が合いすぎて怖いぐらいの人、いろんな人がいた。だけど、誰とも長続きせず、結局「友達でいましょう」が結論となって、結局男女の仲になることはなかった。
友達として付き合う以外、男性の前で女性として存在するすべを、私が知らなかったのだ。
そういう人たちと比べても、目のまえの彼は全く存在感が違った。
「私などが口をきいていい相手じゃない」と思わず両手を合わせたくなるほど、なんといっていいか、男の、いや人間の匂いがしない、清らな水のような人だったのだ。
それ以上何を話したか、今となっては憶えていない。ただとにかく、時間がたつにつれ私たちは高揚し、相手の言葉にすぐに言葉を重ね、様々な分野で会話は伸びやかに広がっていった。
二時間近くおしゃべりしたころ、彼は言った。
「お会いしてすぐにこういうこと言うのも何なんですけど、ぼくは多分、あなたのような方を探していたのだと思います。こうしてしゃべっていると、高い山で深呼吸したみたいな清々しい気持ちになれるんです」
神降臨。なんというありがたい言葉。
オトコ女、変人を気取っている、猿、へそ曲がりと言われ続けた私が、私のすべてが受け入れられるとは!
思わず「私もです」と答えながら、響き合う魂と魂の震え合いに、涙さえにじんでいた。
「私、そんな風に言ってもらえたことなんてないんです。男性とお話しするのも怖くて、何かというと女らしくないと言われるのが面倒で、お化粧だって下手だし、こんな服も着慣れないし……」
「ええ、今のあなたもきれいだけど、あなたはお化粧しなくても十分きれいですよ。また会うことがあったら、その時は素顔とGパンが見たいな」
どんなお世辞を言われた時にもまして、私の心は弾んでいた。楽しい。男性としゃべるのがこんなに楽しいなんて。いや、彼は男性ではなくただその人として、ただ澄んだ魂を持つ存在として、そしてなんの圧も私に与えないキューピーさんとして、そこにいた。
彼は最後に言った。
「本当に、楽しいひと時でした。できればこれからも、お会いしたいです」
「私も、誰かとお話ししてこんなに楽しかったのは久しぶり、いえ、初めてです」
清い水が流れるように、その流れに乗って滑る花弁のように、共に過ごしたひと時は私の中で輝くような思い出になって結晶した。幸せという言葉を意識したことはないけれど、この人と話したひと時、私は幸せだった。この人と結婚すれば、もしかしたら本当に「幸せ」な毎日が待っているのかもしれない……
自分の中で初めて、「男性と一生暮らす」ことが、幸せな未来の予感となって花開いたのだ。
笑顔で手を振って別れた後、家に帰るまで、私は彼のような人物、彼のような魂に出会えたことに心を打ち震わせながら、あの人と生きるなら、私のかたくなな心もほどけていって、優しい人間に変身できるかもしれないなどと夢見ていた。
人間も男性も女性もろくなもんじゃないという私のゆがんだ価値観を、一日で彼は吹き飛ばしてくれた。私にも、「動く心」はあったのだ。
帰宅して、今度こそいい報告ができると胸ときめかせる私の前で、母は書類を手に複雑な表情をしていた。
「どうだった?」
「うん、今まであった男性の中で、とにかく人柄が、最高だった!」
「そんなこと言うの初めてね。結婚したいと思えるぐらい?」
「自分でも信じられないけど、そうなの! あのね……」
「このお写真では全身はわからないわね。身長はどれぐらいだったの?」
「ええと、150センチは超えてる、と思う、けど……」
「そうなの。お会いするのはもう、やめときなさい」
母は写真付きの書類を机に置くと、言った。
「え?」
「条件はいいわよ。学歴も、お仕事も。(今となってはその両方とも覚えていない)でもね。
現実的な問題として、遺伝を考えなさい。容姿と、身長。特に身長よ。もし女の子が生まれたら、いえ男の子でも、彼のその容姿を引き継ぐことになるのよ。これは大きな問題よ」
「……」
「あなたがそんなふうにはしゃいで帰ってくるとは思わなかったし、今回もお断りするのだと思っていたわ。でも、会わせるんじゃなかった。最初から、お断りしておくべきだったのよ、この話は」
「ママ……、とりあえず、話聞いて。ママはまだ、彼の外見しか知らないじゃない」
「はっきり言います。身長と禿は、遺伝するのよ。あなたは息子がはげたら責任とれる?」
おおぅっ。どストレートパンチが鳩尾にさく裂した。
……実を言うと、帰り道、私が考えていたのは、結婚式当日のことだった。
私たちは会い続けるだろう、そしてじきに結婚話がまとまるだろう。あの人がプロポーズしてきたら私はもちろん受ける。そして披露宴。そこまで私は考えていた。
私は彼のために、最高の装いをするだろう。彼もまたまっさらな白いスーツに身を包んで、そして……
多分、ストレートタイプの多い私の友人たちに驚かれ、そしてくすくす笑われるだろう。
あの人、芸人さん?
よくあの容姿で、R子のご両親が反対しなかったわね。
ほかに選べる相手はいなかったのかしら? どう見てもキューピーじゃない?
子どもが可哀相よねえ……
そして、思ってしまったのだ。
夫として彼の姿を友人親戚に披露するのが、本音では恥ずかしいと。もし結婚するにしても、披露宴なんてしなくてもいいんじゃないかと。
そこに、母の本音爆弾が投下された。
それは、私の地雷を直撃し、魂の美しい人と結婚したい、という「美しい正論」を業火で包んだ。
ここまで動揺するということは、母の言っていたようなことを、実は私も心の奥底で考えていたということなのだ。
子ども。遺伝……
友達に見せるのが恥ずかしい……
人は心と心で結びつくものだと心を着飾って、容姿など何のハードルにもならないと自分に思い込ませてはいたけれど、正直、それだけでは済まない、という本音に、母は着火したのだった。
母はたたみかけた。
「この際だから言うけどね。パパはT大出で、私もO高等女学校出でしょ。(註・二人とも大正の生まれです)パパは身長も高くてハンサムだし、私は近所の六校生から何度か恋文をもらったわ。そしてパパはきちんと出世して、あなたたちが生まれた。
上のお姉ちゃんは国立のG大、真ん中のお姉ちゃんは国立のO女子大に、塾にもいかずに合格したわ。あなたは全然勉強しないんで私立大学だけどね、まあ人様に名前を言えるだけの大学には入れられたわ。そしてあなたはともかく、お姉ちゃんたちは誰が見ても、美人でしょ。だから多くの男性から求婚された。それは私がパパを、パパが私を、選んだからよ。
もし今回のあなたのお相手みたいな人を私が選んでいたら、どんな子が……」
「じゃあなんで、釣り書きと写真を見たうえで、私とお見合いをさせたのよ?」私はむきになって言った。
「そりゃあなたがあなただから、多少の粗は仕方ないと思ったのよ。でもやっぱり、そこまで安売りするわけにいきません。身長は大事よ。男の子が生まれたら、絶対にチビで、そして将来は禿げるのよ? 本当にそれでいいの? お姉ちゃんたちのお婿さんを見なさい、一流企業のエリートサラリーマンとお医者様。見てくれも十分。あなただけが恥ずかしい結婚式を挙げるつもり? 私もパパも、そんなお式には出たくないわ」
言語道断、だけど本音であり俗っぽいけど現実的で最低な意見。
私は、言い返せない自分に混乱していた。そして、釣り書きに添えられていた写真では、ただ少々頭の薄い、分厚いメガネの人、と思っていた彼が、精いっぱいの髪形として選んだあのソフトクリームを思い、何かわけのわからない涙がにじんだ。
キューピーさん……
なぜあなたはキューピーさんなの。
神様は、なぜあなたにふさわしい、その美しい心のままの容姿を与えなかったの?
珍説ロミオとジュリエットのようなことを考えながら絶句していると、電話のベルが鳴った。
何かを感じたのか、母はさっと立ち上がり、急いで受話器を取った。
その口調からすぐに、あの結婚相談所からだとわかった。
「はい、はい、お世話になっております。娘ですか、今帰ったところで、入浴しておりまして…… 私がうかがいます、どんなお話でしょうか」
私は中腰になった。
「まあ。まあ、そうですか。こんなに早くに、いいお返事をいただいて、ありがたいことですけれど…… すみませんね、どうしようかしら。娘は、結論から言って、とてもいい方ではあるけれど、結婚には至らないだろうと、自分にはその意思がないと、はっきり申しておりました。そんな気持ちで二度三度とお会いしても、かえってお相手に申し訳ないことになるのでは……」
ママ、と口だけ動かして、私は母に近づいた。その私を手で押しとどめながら、母は私を睨んだ。
「あと一度だけでも、ですか。そうおっしゃられても、結局は、結婚するかしないかという問題ですよね。その意思がないのにお付き合いするのはちょっと…… 確か、三回会って結婚の意思が固まらないならそれ以上会わない、というルールでしたよね。もしお会いしても、娘から辛い話をさせることになるだけだと思うんですが……」
『お風呂から出てきた後でも、娘さんと直接お話しさせていただけないでしょうか。ご本人のご意思が確認できれば、それでいいんです』
近づくと、受話器の向こうの女性の声が聞こえた。母はじっと私を見ると、受話器に向かって言った。
「あら、今お風呂から出てきたところみたいですわ。じゃあ、本人に代わりますね」
そして厳しい視線のまま、私に受話器を突き出した。
何を言っていいかわからぬまま、私はそれを受け取った。
「もしもし、お電話代わりました……」
『ああ、Rさん。お話は伺いました。お相手は、是非ともまたRさんとお会いしたいと、それは乗り気でいらっしゃるんですよ。でも、結婚には至らないだろうからお会いしても仕方ないと、そうお母さまから伺いました。それでいいんですね? とてもいい方だと思うんですけど、残念ですが仕方ないですね』
私は母の目を見ながら答えた。
「あの、はい、私もとてもいい方だと思っています。本当に、私なんかにはもったいない方です。あの方なら、もっといい人を選ばれるべきだと思います」
『Rさん、本当にそうお思いなら、あちらはぜひお話を進めてほしいとおっしゃっているので、……だめでしょうか?』
「すみません。いろいろ悩んだんですが、結婚相手としてお会いすることは、もうこれ以上……」
『わかりました。こちらも無理強いはしません。ではお相手にそうお伝えしておきますね』
伝える?
私はたまらなくなって、言葉を重ねた。
「あの、本当に申し訳ないとお伝えください。お会いできて、お話しできて、楽しかったです。どうかいい人を見つけて、お幸せに……」
『すみませんが、あちらはたいそう乗り気でいらしたので、変に気を持たせるようなことはお伝えしない方がいいと思います。お見合いでは割り切りも必要ですから。では、これで失礼します』
そして電話は切れた。
終わった。すべてが。
私の、「ホンモノに出会った」と確信した、たった一日の恋が。
私は、負けたのだ。
誰に?
母ではなく、自分に。
男も女も容姿などで判断されるべきではない、中身が、魂がすべて、とお綺麗な理想を掲げて俗世をバカにしていた自分は、結局のところ、同じ俗物だった。
あれほど感動しておきながら、私は外見を無視できず、彼の魂を選べなかったのだ。
「これでよかったのよ。ほかにいい人はいくらでもいるわ。いつか今の選択を間違っていなかったと思う日が来るわよ」母はほっとしたような表情でそう言った。
私にはその時、母を恨む気持ちはなかった。
母は卑怯な自分の代わりに、一番言いたくなかったことを代弁してくれたのだ。そして私はきれいごとだけを言って、仲介者にやんわり叱られ、終わりを迎えた。
私はただひとつのことを考え続けていた。
あのキューピーさんが、お互い確かに楽しいひと時を過ごしたと確信しているであろうキューピーさんが、相談所からの電話を聞いて、どれだけ打ちのめされることだろう。
こんなことなら、あんなふうに声を弾ませて会話するんじゃなかった。最初から、この人問題外、という態度でいた方がまだましだったかもしれない。また会いたいな、ええ私も、という会話の末に一回きりのデートでぴしゃりとお断りの返事をされて、どれだけの傷を彼は与えられたことだろう。
私はあの人に惹かれていた。いやその魂に、魅了されていた。こんなことは初めての経験だった。あの人と話している自分は、いつものかたくなでいこじな自分ではなく、素直でおおらかで幸せな、私の知らない私だった。そんな彼を、私は思い切り傷つけて終わった。
これは一生、自分の十字架になるだろう。
それでもまだあの人は人を恨まず、女性を恨まず、綺麗な魂のままで生きていくのだろうか。生きていけるのだろうか。
……これでよかったのよ。ほかにいい人はいくらでもいるわ。いつか今の選択を間違っていなかったと思う日が来るわよ……
それからいろいろあって、その結婚相談所とは違う場で私は今の夫と出会い、二年間交際したのち結婚した。
優しくて働き者の夫。彼もまた「男性の匂い」を一切まとっていない人で、漫画家と結婚できることを喜んでいた。そして、女性らしい女性が苦手だと言い、私の、低温で抑揚のないしゃべり方を「とても落ち着く」と言ってくれた。
そして私たちは一男一女に恵まれた。
母親の私よりはよほど聡明で美しい娘と、優しくて賢い息子。子どもたちは「今風」のスタイルで、頭は小さく足が長い。母も姑も、二人を自慢の孫と言い、それはそれは可愛がってくれた。そして二人とも望み通りの職に就き、独立した。娘は学生時代から同棲していた恋人と結婚して、今とても幸せそうだ。
でも、「あの選択は間違っていなかった」と思う日は、いまだに来ていない。
深夜の散歩癖のある私は、日々形を変える月を見ては、いまだに時々、キューピーさんを思っている。
彼の存在、彼の思い出は、私の魂の深くに潜り込んで取れない、透明な爪だ。
私は死ぬまで、彼のことを思い続けるだろう。
どうかあの人が、今、幸せでいますように。
私のような俗物でなく、本当に美しく大事なものを選べる優れた魂を持った人と、結婚できていますように。
妻に子供に、愛し愛される、幸せな人生を送っていますように。
たとえ結婚はしていなくとも、せめて人生に絶望するようなことがありませんように。
私のような人でなしと出会ったことで、不幸になっていませんように……
そうだ、私のような未熟で半端物の人間に、あのような男性を幸せにすることはできない。魂の面で、つり合いがとれない。あの人のすべてを愛し、受け入れることができた女性だけが、あの人の魂に見合う人だ。だからこれでよかったんだ。これで……
懺悔するつもりで、最後は言い訳になる。そして私は、夜空に灯る優しい光に祈りをささげる。
お月様。
こんなこと、心の中でしか言えないけれど、お月様にだけ言える秘密です。
何十年たっても、私はキューピーさんのことを忘れることができません。あの人は私の永遠の恋人です。多分一生、月を見てはキューピーさんのことを思い続けるでしょう。
でもあの人は、どうか、どうか私のことを、すっかり忘れていますように……
知ったことじゃないね。もう帰って寝なさい。しでかしたことは、元には戻せないよ。
白々とした顔をして、お月様は答えるのだった。