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第二章 第8節 我が家での橘君

 橘君を連れて家に入ると食欲をそそるいい香りが玄関にまで漂っていた。

「おかえりなさーい!」

「おっ、さっそく娘がお出ましだ。(まな)、お兄さんにご挨拶だ」

「はじめまして! きのしたまな、ですっ!」

 娘の元気な挨拶に橘君はステーションでは見せないような純粋で柔らかな笑みを浮かべ「こんにちは、橘です」と優しく言葉を発するとともに娘に頭をさげていた。人というものは分からないものである。

 そのまま私は橘君を家に上がるよう促そうとすると、愛が彼の手をとっていた。そして愛は「どうぞ」と彼にスリッパを出していた。

「お、愛、よくできたなぁ。えらいぞぉ」

 愛がそんなことをやるのを初めて見て、私は娘の成長ぶりに喜んだ。

「ありがとう」

 橘君が愛にそう言って家に上がると、愛はどこで覚えたか知らないが「どうそどうぞ、何もございませんが」などと口にして橘君の手を引っ張ってダイニングへと連れて行った。

 私は愛たちの後ろに続いてダイニングへと入るとテーブルには盛り沢山の料理が予想通り並んでおり、まゆみは準備万端という満足げな笑顔で私たちを迎えてくれた。

「おかえりなさい。はじめまして。私がこの旦那の妻である、まゆみといいます。あなた、紹介して」

 まゆみは数段高いトーンでそう口にすると私へと目線を向けた。若い子を家に連れてくることなどなかったからだろうか随分と上機嫌なようだ。

「こちらは、橘君だ。今うちでガイドをやってもらっているんだ」

 私の紹介で橘君は「橘です。突然お邪魔してすみません」と礼儀正しくお辞儀して妻へ挨拶をした。

「いえいえ、全然気にしなくていいのよ。いつでも大歓迎よ。それに、ガイドなんて大変な仕事をやってもらっちゃって。もしウチの旦那のことで気に入らないことがあったらいつでもカモンよっ」

 まゆみは橘君へそう言いながらウインクをしてみせた。その対応にどうしたらいいのかと私へ問いかけるような表情を橘君は私に見せた。

「こら、何がカモンだ。ったく、わけの分からないことを。ウチの若いのにつまらないことを言うんじゃないぞ」

「つまらないって例えば、航路が転職するとき私に叱られてションボリしてたとか?」

「馬鹿! そんな昔話引っ張り出すなよ!」

 ステーションのスタッフを連れてきたのは今回が初めてで、もしかしたらまゆみは少し嫌がるかと思っていたが、それどころか逆に、連れてきたことが嬉しかったようで、明らかにテンションが上がっていた。

「どうぞ、橘さん腰掛けて。ゲストはこのお父さん席へ。今日はお父さん、(しも)の方ね」

 妻はそう言いながら橘君をいつも私が座っている椅子を引いて橘君を座るよう促した。その妻の行動に橘君は強く遠慮する動作をするも、妻は強引に彼の手を引っ張り、強制的に椅子へと座らせた。そんな妻が作り上げている和やかな雰囲気に橘君はここに来るまでの冷えた表情は暖められ、穏やかになっているようだった。

 そして私も妻が用意した料理を前に席に着いた。

「橘君、すごいだろ、この量。大人二人に小さい子供二人の家族でこれは多すぎると思わないか?」

「本当ですね。すごいですね。奥様一人で作られたのですか?」

「奥様だなんて、なんか照れちゃうわね。そうよ。さあさあ、遠慮なくどんどん食べちゃって。あ、良かったらビールか何か飲む?」

「そんな、お気遣い無く……帰りに困ります。自転車ですから」

「ああ、いいぞ橘君。今夜は泊まっていってもらって構わないから」

「そうよ、気にしないで」

「でも、今日は愛ちゃんのお祝いですし。自分は……」

「何言ってるのよ。だから今日はリラックスして楽しんでいって頂戴よ。そのほうが愛もみんなも楽しいもの。ね、愛?」

 さっきまで橘君の横にいたと思っていた愛がいつの間にやら消えていた。

「あれ、愛のやつどこいった? おい、始めるぞぉ」

 そう私が声を上げると愛の部屋から「はーい」と声が聞こえた。そして間もなく愛は部屋から出てくるとそのまま橘君のもとへ駆け寄っていった。

「おにいちゃん、どう?」

 愛はなぜか入学式用のワンピースに着替えていた。

「どうしたのよ、愛。さっき服が汚れるの嫌だからといって部屋着に着替えたのに。まあ、もう男に色目を使ってるの? ねえ、お父さん、どうなのよ、これ?」

 まゆみは口を大きく開けて笑って言った。

「愛に気に入られたようだな、橘君」

 私もまゆみ同様に笑って橘君へ言った。

「自分には年の離れた妹がいるんで、そのせいかも知れません」

 そんな中でも橘君は表情こそ和らいではいたが声の調子は冷静で落ち着いていた。

「あら、妹さんが? 年の離れたって幾つなの?」

 妻は興味津津で橘君に質問をした。愛も妻と同じように興味ありげな顔で彼を覗き込んでいる。

「10歳下です」

「10歳かあ。そうね、少し離れているわね。兄弟は一人だけ?」

「そうです」

「でもなんか、わかるわよ。橘くんの感じからしても、優しそうですもの。きっと妹さんも懐いているんじゃないの?」

「どうでしょうか……多分……嫌われてはいないと思います」

「妹さんの名前は?」

()()です」

「あら、かわいい名前ねえ。どんな字を書くの?」

「美しいに雨です」

「美しい雨かぁ。きれいね。あ、そういえば橘さんの下のお名前は?」

「え……? ああ、優輝です……」

「ゆうき? 勇ましいの勇気?」

「あ、いえ……優しいに輝くです……」

「ああー、綺麗な名前ね。素敵だわ」

「そうですか? 自分ではよくわからないです」

「ご両親も色々と考えてそう名づけてくださったのよ。橘さんもいつか子供をもつと分かると思うけど、子供に名前をつける時って色々な想いや願いを託したいと思って真剣に考えるのよ。一生が決まるといっても過言じゃないしね」

「……そうですね。一生が決まるのかも知れませんね」

 彼の表情こそは変化はないものの、どことなく視点が定まらない様子で妻の話に応じていた。そんな彼を見て私は橘君は自分自身を嫌悪しているのではないかと推測した。彼と彼の親との関係の不具合があることが関係しているのであろう。そして妻も私と同様な感触を感じたのか、話題を娘の話にへと切り替えていた――


「あの時は結局、オレとまゆみが随分と盛り上がって、橘君には愛の面倒見てもらってたって感じだったな」

「そうそう。つい私も彼に甘えちゃってお酒飲んじゃってね。それで泊って行ってもらったわね」

「だな」

「よかったらまた連れてきなさいよ。彼、彼女は?」

「そんなことオレが知ってるわけないだろ、そんなプライベートなこと。飽くまでも部下の中の一人ってだけだからな。それに彼はそういった干渉を一番嫌うだろう」

「うーん、やっぱりそうかしらね。まあ、それはそれとして、ぜひ今度連れてきなさいよ」

「そうだな」

 まゆみの言葉に私は彼に今度何か適当に理由をつけて誘ってみようと思った。


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