第二章 第7節 橘君を連れて
「航路、どうしたの? そんな神妙になっちゃって」
まゆみは石鹸の香りを漂わせながらバスローブ姿でリビングへとやってきた。
「ん? ああ。ふと5年前のことを思い出してな」
「5年前?」
「そう。俺がライフ・ケアに転職するって話をまゆみにした時のこと」
「ああー、あの時のことね。そうね。そういえば、あの時もワインを飲みながらだったわね……まさか、また何か私に告白するつもり?」
「馬鹿、違うよ。ただ、ふと思い出しただけだよ。もう、あれから5年も経ったんだよな……」
「よくここまで来られたわね。あの時はライフ・ケアなんてどうなるか私は正直、心配で心配で仕方なかったわ」
彼女はそう言葉にすると私の飲んでいたワイングラスをさらりと取り上げ口にした。
「そうだよな。ほんと感謝してるよ、まゆみ。俺自身、不安の方が大きかったのが本音だ。それでもやっぱり先生の意思には心底同調したし、自分自身の行く道だと確信してここまで来たからな」
「それでどうなの? 実際にあそこで終末を迎える人は減ってる?」
「んー、そうだな……開所当時からデータ上はあまり増えも減りもしていない。働き盛り世代は少なくなっているが、皮肉にもプレカリアート世代の高齢者たちが多い。年金問題の処理が上手くいっていない現状に嫌気が差し、残りの人生に不安を抱いて生きているより安らかに眠れる安楽死の方が何倍も良いと言ってな。さらには福島原発事故で内部被曝を受けたと思われる人たちが国から認定を受けられず結局医療費負担が重くのしかかり追い込まれた人も多いんだ……」
私は溜まらず大きな溜め息を漏らすと力なく続けた。
「そしてこれが実施される現状……これでは自滅支援だ、姥捨て山だと言われても仕方ないな……自分の力の無さに心底泣けてくるよ……」
私はうな垂れながらそう愚痴をこぼすと、まゆみは私の横へ深く腰かけ、私の太腿の上を柔らかく擦るように手を運び、風呂上がりの火照った体を私へ預けてきた。
「難しいわね……如月先生もきっと同じようにぼやいてるんじゃないの?」
「よくわかるな。そうなんだ。先生の力になりたいと思っていたのに情けない。時間が必要だと分かっていてもな……つい急いで結果を欲しがってしまう」
「あそこで自己安楽死を迎える人たちがいる現状は悲しいことだけれど、あなたがその意志を持ち続けていれば必ず周囲の人達や次の世代に意志が広がっていくわよ。あなたのやっていることはものすごく大きな事ですもの。時間がかかって当たり前よ。それに前言ってたわよね、飛び込みや投身とかはぐっと減ったって。私は効果出てきてると思ってるけどなぁ」
「たしかにその点での効果は出たと言えるな。飛び込みも投身も、その他のどれをとっても無残だからな」
自分自身を追い込みがちな私はいつも彼女の柔らかい言葉に助けられている。彼女の存在が無ければ私は間違いなく疲弊しきっていただろう。
「航路、話変わるけど橘くんは元気にしてる?」
「ん、なんだ藪から棒に。うん、まあ相変わらずと言ったところかな。決して明るく社交的なタイプではないからな」
「そうだったわね。でもそこが逆に魅力的にも感じたわよ。わたし的に。橘くんを家に連れてきた時、そう思ったもの」
まゆみは自信ありげに私へと言ってきた。
「おい、まゆみのタイプだったか?」
私は笑ってそう応えてやった。
「さあ、どうでしょうー? ねぇ、愛の入学祝いの時だったわよね、橘くんがウチに来たの」
「ああ、そうだったな」
今から3年前――
愛が小学校に入学したことを祝ってまゆみが御馳走を作るからと言い、そこで私はあの日、早く仕事を切り上げて帰ることとした。その時ステーションを出て駐車場へ向かうところで偶然、駐輪所にいる橘君を見つけ私は声をかけた。
「お疲れ様、橘君」
「あ、所長。どうもお疲れ様です」
彼はいつものように涼しく返す。そんな彼に私はなぜだか無駄なお節介を急に焼きたくなった。
「橘君、どうだ、今日は私のところで夕飯を食べていかないか。実は今夜、妻が娘の入学祝いだからと張り切って御馳走を作ると言ってな。妻は時々なんだかんだと理由をつけて凝った料理を作ったりするのだが、それがいつも量が多くてなぁ。たくさん並んでいた方が豪華でいいでしょなんて言って。おかげでいつもあくる日は残り物を温めて食べることになるんだ」
私がそう言って彼を誘うと案の定、平板な口調で気のない返事が返ってきた。
「え? いえ、それは申し訳ないです。僕みたいなのがいたら、せっかくの入学祝いをつまらなくしてしまいます」
「つまらなく? 相変わらず君らしいなあ。本当は自分がつまらないと感じるからってことだろ?」
私はずいぶんと厭らしく橘君に切り返した。そんな私の言葉に橘君は意外にも照れ笑いを見せた。
「いやいや、ごめん。冗談にしては厳しすぎたな。まあ多少の面倒臭さがあるだろうが、たまにはいいだろ? こういう誘いに乗っても。自分の妻だから言うわけではないが、これがなかなか料理が上手くてな。つまらない遠慮はするな。妻も喜んで君を歓迎するよ。ここで私と会ったのが運のつきだ。命令だと思って付いてこい」
そう言って私は彼の自転車を勝手に車のラゲッジルームに押し込めた。そんな私の行動を彼は黙って見届け、そのまま助手席へと座ってくれた。
「悪い、勝手ばかり言うがちょっと寄り道していくな。ケーキを取ってくるように頼まれていてなぁ」
私の言葉に彼は「はい」とだけ答え、外をぼんやりと眺めていた。私は黙ったまま車を起動させ洋菓子店へと向かった。
彼とはこのようにプライベートで話すのは初めてだ。所内での飲み会みたいなものがあっても彼はほとんど出席しないし、出席したとしてもあまり口を開かない。
私はステーション近くの洋菓子店で妻から頼まれていたケーキを受取ると、車を家に向かせつつ車内から妻へと電話を入れた。呼び出し音が車内に1回響くと妻が出た。準備万端で私を待ちかまえていたのだろうか。いつになく出るのが早かった。
『あ、航路? 仕事終わった?』
「ああ」
『お疲れさまぁ。ケーキ忘れずに取ってきてよ』
「ああ、大丈夫だよ。今ケーキ屋を出たところだ」
『あら、よく忘れることなかったわねえ。よくできました』
妻は子供に言うような口調で私に言うので隣に座っている橘君の表情が気になって仕方がなかった。
「あ、まゆみ。急遽だが一人ゲストを連れていくから準備しておいてくれないか」
『あら、ホントに? いいわよ、喜んで。で、誰? 誰?』
「おい、隣で聞かれてるんだから、もうちょっと言葉を慎めよ」
『ウソ? そうならそうと早く言ってよぉー。で、どちら?』
「うちの若い子だ。期待してもらっていいぞ」
『若い子? ホーント? わぁー、張り切って作った甲斐あったわ。気をつけてお連れしてきてね』
『おとうさん、早く帰ってきてねぇー』
「ああ、愛か。もう30分もかからないからな」
電話が切れてから間もなく、彼らしくもある意外な言葉が彼の口から出た。
「所長も人の親なんですね」
「どうした、藪から棒に。私に子供がいるように見えないか?」
私はそんな彼の言葉に笑いながら答えた。
「すみません。そういう訳じゃないんですが、なんか不思議な感じで……お子さんはやっぱり可愛いですか?」
「それは可愛いなぁ。特に上の娘にはつい甘くなる。どうも男という生き物は女という生き物に弱いようだ。娘のひとつひとつの表情にいちいち心躍るよ。いずれは男ができて私の元を去るのだろうが想像したくないな」
「そういうものですか……上の娘と言うことは、下が男の子で?」
「正解だ。もちろん息子は息子で可愛い。娘に抱く感情とは違うけれどな。男っていうものは放っておいてでも逞しくなると思っている。私自身、息子には笑われることがないようにという生き方をしたいといつも考えているし。そうだな、息子が成人して私と君とがこうして話をしているように酒を飲みながら話ができる日を楽しみにしているよ」
私がそう答えると彼は「そういうものなんですか」と納得したようでも、無いようでもなく、まっすぐ前を見つめたまま言った。そして間を置くことなく彼は口を開いた。
「この車、所長の車なんですか?」
「いや、これは私の住んでいるマンションのシェア・カーだよ。わざわざマイカーを持つ必要もないし、今では車への憧れも無くなったよ。まあ若い頃、独身の頃だが贅沢にも車を買って乗り回していたけどな」
「そうだったんですか」
「そうだ。今思えば本当に馬鹿をやっていたなと思うけれどな」
「親父は今も馬鹿やってますよ。呆れます」
「そんな風にお父さんを言うものじゃないぞ。馬鹿やってるといっても、簡単にできるものじゃない」
「簡単じゃないかも知れませんが自分には理解できません。親父のことは……」
「橘君のお父さんは何をしている方なんだい?」
私の問いかけに彼は「さぁ」と答え首をかしげるとそのまま外を眺め黙った。父親に対して嫌悪感を持っていることを私は知った。そして私は彼の心の内を覗いてみたいと思ったが、ここで根掘り葉掘り聞くのは良くないと素直に思いこの話は止めることにした。