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第二章 第2節 臆病者

 私は計画通りとはいえ、家に入るのが少々憂鬱だった。この歳で、そして今の家庭の状況でこの先どうなるかわからないライフ・ケアに転職しようというのだから。さすがに今回の話は簡単ではないという自覚が今更ながら滲み出てきていた。

 私は玄関前で大きく深呼吸をすると、ドアホンを鳴らしてから玄関のセキュリティを外し中へ入った。するとたちまち私の臭覚を刺激する香りが玄関先に漂っていた。その香りは空腹感を加速させるいい香りだ。しかし私はその香りに威圧感みたいなものを感じ、恐る恐る靴を脱いだ。

「ただいま……」

「おとーさん、おかえりなさーい」

 張りつめた空気感に満たされた玄関に(まな)の声が元気よく響いた。私はその声の方へ眼をやると愛が両手を広げながら私の方へと駆け寄り私に抱っこをせがんできた。私はもちろん快く愛を抱きかかえ、愛のふんわりとした頬へ軽く口づけをした。そして私はそのままリビングへと入り食卓に目をやると随分と立派な中華料理がたくさん並べられていた。

「おい、これ……」

 嫌味にしてはやりすぎじゃないかと私は少し気持ちが苛だった。

「おかえりなさい。転職祝いよ」

 彼女から出た言葉に私は思わず固唾を飲んだ。

「冗談よ。別に嫌味でも何でもなくてね、今日、打ち合わせの方がかなり押しちゃって全然食事の準備する時間なくなっちゃったからケータリングにしちゃった。で、メニュー見てたら色々と食べたくなっちゃってね。ごめん」

 まゆみは軽く舌を出して今朝の表情とは打って変わって可愛げな表情を見せている。私の想像を超えた変わりようだったので私は複雑な心境になった。この状況にどう対応すべきか……?

「すぐ食べられるから。愛、おてて洗ってきなさい。お父さんもね。そうそう、お父さん、うがいもしっかりしておいてよ。愛達が風邪になったらたいへんだから」

 私は完全に調子が狂わされ、どうしようか思案してみようとしたが、一瞬にして無駄な気がして止めた。

「お母さん、今日の料理には全く合わないが、これ。ワインとチーズ。今日仕事で名駅の方まで行って、ちょっと目に入ったから買ってきたんだ。良かったら後にでも……」

 私は露骨に彼女の顔色を(うかが)いながら手にしていた袋をそっと食卓に置いた。

「あら、珍しい! でも嬉しいわ。あとで頂きましょうね」

 私はそのまゆみの言葉を聞くと、愛の顔を見てにっこりと大袈裟な笑みを作り、愛を連れて洗面所へと駆け込んだ。何やら向こうは戦闘準備をしているのだろうか。いや、彼女はそういうタイプじゃないはずだ……いやいや、人は変わるものだ。まゆみも何か企んでいるかも知れない。

(……離婚?)

 そんな言葉が頭を駆け巡っていた私を鏡の中の愛は手を洗いながら不思議そうな眼差しで見ていた。

「愛ちゃん。しっかりおててを洗うんだよ。そうしないとお母さんが怖いからねえ」

 私は愛に大袈裟な笑顔で言うと愛は「はーい」と私に屈託のない心地よい笑顔と返事をくれた。お母さんが怖いのはこの私だ。手をしっかり洗ったくらいでは簡単に許してくれそうにない。そんな子供じみたことを思ってしまった今日の私はやけに臆病である。


 夕食の時間はいつものように妻が今日の出来事を語り、それを私が頷いて聞くという異様なほど普段通りに流れて行った。そしてそのあと私は下の大樹(だいき)を風呂に入れ、私のあとに妻は愛と一緒に風呂に入った。

 風呂から上がり、私は大樹の風呂上りでさっぱりとした顔を眺めていると、不安な気持ちがほんのりと沸きあがってきた。自分の選択は良かったのだろうか。なぜ私は素直に妻に相談できなかったのか。大樹は私の揺らぐ不安な気持ちとは無縁の安らいだ寝顔を私に見せていた。

「おとうさん、ごほんよんで」

 気がつくと愛が風呂からあがり、パジャマ姿で私に(すが)っていた。

「愛、今日はもう遅いから明日にしよう。それに来週からはお父さんしばらく家にいるからたっぷり本を読んであげられるよ」

「来週からですか。あ、そう。あとでじっくり聞かせてもらいますか?」

 まゆみは私に声だけ聞かせてどこかへ消えた。


 私は愛を何とか寝かせつけリビングへと行くと、すでにまゆみはソファーに座り、私が買ってきたチーズを片手にワインを飲み始めていた。

「さて、聞かせてもらいましょうか」

 私はまゆみの隣へ静かに腰を下ろす。彼女と付き合い始めてかれこれ12年。恐らくここまで私が彼女に対して臆病になったのは今回が初めてだ。私が彼女に対してどう対応するか色々とシミュレーションした計画はすでに崩壊し、私はワインを口に含みしばらく沈黙した。リビングには空気をわずかに震わせるヒーターが発する音だけが響く。

 まゆみはそんな私の対応にしびれを切らし口火を切った。

「で、来週からしばらくいるっていうのは?」

「ん? あ、ああ。実は今週いっぱいまでだ……」

 私は弱々しく答えるとワインを口いっぱいに含み、そして喉を鳴らして一気に体内へ流し込んだ。

 まゆみの顔を直視できなかった私には、彼女がどんな表情をしていたかは分からなかったが、恐らく私の幼稚な態度に腹を立てたのだろう。まゆみは大袈裟な音を立てて空いたグラスをローテーブルに置き私を静かに捲くし立てた。

「ねえ、航路。私が一番腹を立てているのは、私に一言も相談無しに決めたことよ。航路もそれは分かるでしょ? あなただって私が何の相談無しに勝手に同じようなことやったら怒るに決まってるわよ。そうじゃなきゃ、夫婦って何よ?」

 まったく返す言葉がない。まゆみの説教が胸にしみる。私はみっともなくも手にしたワイングラスを小さく揺らしながら、ぼんやりとローテーブルの端を見つめたまま沈黙する。これではまるでイタズラをして母親に叱られている子供の様だ。

「で、いつにこの話があったの?」

「一か月前だ……」

「もしかして、如月先生と飲みに行くって言ってた日?」

「よく覚えているな……」


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