第二章 第14節 橘家
彼の両親が住むマンションは名古屋市中心部にある繁華街近くの一際高い高層マンションであった。このマンションのエントランスは私が住むマンションの小じんまりとしたそれとは比較ならないほど広く豪華だ。天井は2階分の高さは十分にある吹き抜けで煌びやかなシャンデリアがホールを黄金色に輝かせ演出をしている。そして両サイドには水が流されており、小ぶりながらも品の良い噴水までもがあった。まるで高級ホテルのようだ。床は大理石か? 私の感覚では、このような場所を絢爛豪華に飾る感覚が理解できない。一般人を近づけないための結界でも作っているのだろうか?
エントランス奥中央の噴水前に設置された無人受付を見つけると、受付に設置された呼び出しパネルから橘家を呼び出した。
数秒後、無言のメッセージがパネルに表示されID認証を催促された私はパネル横のIDチェッカーへと手を当てる。私の身元認証が終わると「木下さん、どうぞ」と女性の声が聞こえると同時に真横にある大きく重厚な自動ドアが開いた。その重厚なドアには琥珀色の金属板に美しい花の文様のような装飾が施されており少々あきれた。そして私はそのままドアを潜り抜けエレベーターで最上階の39階へと上がった。
エレベーターを出ると正面の壁に左右の家番号が記されたプレートが目に入る。どうやらワンフロア―に2軒しか入っていないようだ。橘家のある3901号室の方へと足を運ぶ。玄関までの廊下はマンション外壁側を回り込むように作られ、途中大型ガラスで作られた壁からは名古屋駅周辺のビル群が美しく光放っているのを見ることができた。
エントランスの造りに比べ、随分と地味なモノトーンの玄関ドアへと辿り着くと私はドアホンを押した。すると間もなくそっとドアが開き甘い香りと共に女性が現れた。
「いらっしゃいませ。主人から伺っております。私は圭治の妻で博美と申します」
そう言うと女性は深々と私に頭を下げた。ふんわりとした軽いセミロングのウェーブヘアは深みあるブロンズ色に輝き、目元と唇はやや派手なコントラストのメイクを施してはいるが、厭らしさのないバランスで男の目を引くものだ。それだけにこの女性は完全に母親の臭いは消し去っており、抜け目のない賢さと女の艶やかさを前面に出し、『私は女である』と必要以上の主張を私の感性に被いかぶせてきている。個人的には関わりたくないタイプであると直感の印象が脳裏に沸いた。
「どうぞこちらへ。主人がお待ちしております」
広々とした玄関で私は出された内履きに履き替える。橘君の母親は私が内履きに履き替えたのを確認すると「どうぞ、こちらへ」と口にして玄関から目にすることができる扉へ手をかけていた。そして橘君の母親は部屋の扉を開け「あなた、お見えになったわよ」と部屋の中へ声をかけると私を部屋へと迎え入れるジェスチャーをした。
「どうぞ。こちらで主人がお待ちしております。私は色々と用事がございまして、ここで失礼させていただきます」
そう言葉を残して橘君の母親……いや、女は立ち去っていた。私はその後姿を目にしながら根拠なき直感による猜疑心を抱いた。
(本当に橘君の母親なのか?)
妙な違和感を抱きながらも案内された部屋へと入った。
その部屋にはソファーへ深くもたれかかり煙草を口にしていた男がいた。その男は浅黒い肌にセミショート丈の豊かな髪を持ち、その髪には細かいウェーブを施していた。母親と同様に父親の臭いはまったくしない風貌であり、体格こそは中年といえる太さをしているが年齢は不詳だ。私はディフェンダーの資格が無いため、親族などの詳細情報を手に入れることはできない。いったい何をしている人物なのだろうか? はっきりしているのは私とは反りの合わない人物のようだ。私の本能が嫌う匂いがする。
「はじめまして。ライフ・ケア・ステーション悠久乃森の所長をしております、木下と申します」
名刺を差し出すと、優輝君の父親はソファーから立ち上がり「橘圭治です」とだけ口にして名刺を手に眺めた。
「しかし、自滅支援のお偉いさんがウチに来るとは、もしかしてアイツが何かしでかしましたか? まあ、おかけください」
橘君の父親は無頓着な言葉で答える。子供への無関心をアピールしているようだ。
私は厭らしくない程度に部屋を見渡しつつ腰をソファーへ落ち着かせた。玄関からこの客間までは意外なほど何の装飾もなく、この客間にもガラス製のローテーブルと革張りのソファー、そして背の低い黒褐色のキャビネットが置いてあるだけだ。無駄のない部屋、事務的とも表現できるものであった。
すると部屋のドアをノックする音が聞こえ私は振り向くと、「失礼します」という言葉とともにお盆を持った女性が入ってきた。
「こんばんは、所長さん」
美雨ちゃんだった。私は彼女だと確認すると安堵した。この家の空気に馴染まないうえの緊張があった自分の気持ちを彼女の笑顔が和らげてくれたのだ。
「なんだ、二人は顔見知りか?」
「ええ、ちょっと」
美雨ちゃんは父親の言葉に少し言葉を尖らせ親の顔を見向きもせず返事をしていた。彼女も橘君のように親に嫌悪感があるのだろうか。美雨ちゃんはそのまま私たちの前に湯呑を静かに置いた。
「さっきこの部屋に入るのを見てお茶をもってきました。今日はどうなされたのですか、所長さん? わざわざ家にお見えになるなんて。びっくりしましたよ」
「美雨、オマエは関係ない。部屋に戻ってろ」
橘君の父親は低い声を響かせ美雨ちゃんを冷ややかにあしらった。その言葉を受けた美雨ちゃんは小声で「はい」と言うと黙って一礼をして部屋から出て行った。
美雨ちゃんが出て行ったのを確認すると橘君の父親は私を見下ろすような目線で私へ言った。