第二章 第10節 退職願
出だしの年が間違っていましたので直しました。正しくは「2059年8月31日」です。
失礼いたしました。
2059年8月31日――
『所長、すみません。少しお話があるんですが……』
始業30分以上も前に私のイヤホンから力の無い橘君の声が入ってきた。普段から明るい感じで話す彼ではないが、今日の彼の声はいつに無く弱々しいものであった。私はすぐさま不安な気持ちが湧き上がった。
「ああ、わかった。では5分後に第3会議室で。いいか?」
『はい』
彼は私の言葉に短く答えると回線はすぐ切れた。恐らく先日の件に関わることだろう。ひとまず訓戒処分で処理をし、彼の様子を観察することとしていたが、特段変化は見られずひとまずは落ち着いたと考えていたのだが。やはりあのビジターの事を知りたいのだろうか? 規則上ビジターの情報は秘匿義務があるため私は規則順守して彼には何も口にしていない。伝えるべきなのだろうか……
私は不安と悩みを抱きつつ即座に会議室へ行くと彼はすでにいた。そして彼は私を見るなりその場で「これを」と言って退職願なるものを渡してきた。
「ご丁寧に退職願か。君が初めてだよ、わざわざこんなものを持ってくるのは。しかも手書きとはな。それで率直に聞くが例の女性が原因か?」
「いいえ、全く関係ありません」
彼は私の小さな皮肉と単刀直入の問いかけには動じることなく、いつものように涼しく答えた。
「橘君、私にだけはせめて本当のことを話してくれないか。全く関係ないと言われても私はとてもその言葉を信用できないのだが」
「そうですか。そう言われましても僕にはそれ以外答えようがありません。以前から考えていたことで、純粋にこの仕事を続けることが難しいと思ったので決意したまでです」
彼は表情ひとつ変えることなく私を突き刺すように答える。私は彼が毎日こうしてビジターの相手をしていたのかと思い心苦しさを感じた。そんな私は彼に何かを追及するなどという事などできようものか……
「では、きっかけとしてあの女性の事ではないと?」
「はい」
「仮にもし私があの女性ビジターについての情報を君にここで話してもか?」
「はい」
すぐさまの彼の回答。私はうろたえると踏んでいたのだが彼は全く動じなかった。すべてを悟りきってしまっていて意志が固いのだ。その予想外の反応に私はいとも簡単に言葉を無くし私と彼の間にしばらく沈黙ができた。
「わかった。これは預かっておく。君もわかっているように、じゃあ今すぐ退職というわけにはいかない。早くとも1ヶ月後。それにこちらの都合だが後継者を探さないとな。なにしろガイドはなかなか集まらない。かと言ってそんな心境の君に無理に出て来いともいわない。たしか、橘君は有給休暇を使ったことないんじゃないか?」
私はそう言って会議室にセットしてあるフリーの端末で彼の情報を呼び出す。彼のパーソナルデータが表示される。私はその瞬間、この状況にデジャヴを感じた……そうだ、彼との面接だ……
2055年1月某日――
人口減少によりどこも人手不足の中、覚悟はしていたが想像以上に人員確保は困難を要した。特別の資格は必要のない職種ばかりではあったが、いかんせん“自滅支援”と揶揄される業種だけあってのことだ。コンダクターは辛うじて看護・福祉系の転身が集められ、またアフターやアウターは葬儀関連職から引き抜いて埋め合わせた。しかし問題だったのがガイドだ。当初、コンピューターAIに全部やらせるという案で進めていたそうなのだが、現状のAIプログラムでは複雑な人の感情変化に対応できないなどの問題があり議論の末、人で対応することとなった。
そのようなこともありガイドの募集だけが遅れたうえ、ガイドは三途の川の水先案内人などとネット上で揶揄されており、非常に人の集まりが悪かった。そんな中、ガイドになりたいと来た中のひとりがまだ二十歳になって間もない橘君であった。
「橘さん。あなたはなぜガイドという職種に募集されたのですか?」
「理由という理由はありません」
私の質問に彼は淡々とそう答えた。その回答に私と山本副所長は目を合わせ苦笑いした。こちらとしてはどんな人でも構わないという思いは多少あったが、理由もなく来たと答えられるとなると困惑した。そんな彼に山本副所長は言った。
「そういった気持ちでガイドをやられると困るんですね。ガイドの仕事内容を承知の上で来たと思いますが、人を相手にする仕事なんです」
「はい、わかっています。ただ、調べたところによりますとガイドの業務はかなり酷く世間では噂されています。ライフ・ケア・ステーション自体もそうです。私はそういった噂だとか悪評といった周りの声はまったく気にしません。そして私自身はこの仕事に対して何の思いもありません。ですからむしろ言われたことに対して忠実に業務を遂行できると思います。あえて言えば理由はそういうことになりますし、そういった人間の方がふさわしいのではないでしょうか?」
彼の皮肉なアピールは淡々としており、その表情は何の感情も持たないロボット人形のようでもあった。私はそんな彼が少々恐ろしく感じた。
その後、彼から今までのアルバイトの事を聞いたり、ガイド職の待遇の話などを伝えたりして面接を終えた。山本副所長は彼はやめた方がいいと言ったが、私はむしろ彼のようなタイプが適任だとして押さえたのだ――
結果、彼は間違い無くガイドとしては適任であったであろう。しかし、私はあまりにも彼自身の人生を考えていなかった。こんな若い彼になぜガイドという仕事を託してしまったのだろうか。私自身、人が集まらず藁をもつかむ気持ちであったとはいえ無責任であったと今さらになって後悔した。 そんな私は目の前にいる彼にかける言葉が思い浮かばないでいた。そして私が作った沈黙に対し彼は「それでは失礼します」と言い残して部屋を出た。私は自分の不器用さに呆れた。
結局私はガイド職に引き留める理由が無いことから橘君の辞表を受理し、ひと月後の9月30日、彼は有給休暇を取ることもなく去っていった……