第二章 第1節 出航
第二章、掲載開始しました。第一章を読まれた方、これからもよろしくお願いします。ちなみに、橘優輝くんはもちろんからんでます。一章を読み終えた方にはぜひ読んでいただきたいです。http://ncode.syosetu.com/n3606j/
5年前――
「あなた、バカじゃないのっ!」
我が家の窮屈な玄関に妻の声が響き渡った瞬間、私のまわりの空気が固まったような息苦しさを感じた。
「おかぁーさーん! おとーさんはバカじゃないのぉ!」
妻の声を耳にした私の愛娘の愛がリビングからパタパタと足を鳴らして妻へと駆け寄ってきた。しかし妻は愛を見ることもなく私を睨み付けたままだ。妻と私の身長差は玄関と廊下との段差とほぼ同じ。そのため妻の目は私の目の真正面にある。その目はあからさまに攻撃的で、瞬きもせずに口だけを動かしているようだった。
「いきなり何言ってるの? 私に何の相談も無く転職するって。それもよりによってあの自滅支援の仕事ってどういうこと? わかってるでしょ? 大樹が生まれてまだ1年足らずで、二人とも小学校から大学まで行ってって先はまだ長いのよ! 私たちの生活のこと考えてくれてる? あなた一人だけのことじゃないの。よくもまあ平気で勝手なことをできるわねぇ! ああー、もうあなたが分からないわっ!」
妻は畳み掛かけて言うと大きくひとつ溜め息をつき、足元に絡み付いている愛に保育幼稚園へ行く準備を促した。愛は私の顔をジッと幼いながらも心配そうな顔で見つめている。私は黙ったまま愛に目配せすると、私の気持ちを感じ取ってくれたのか部屋に戻ってくれた。
私は妻、まゆみとの付き合いは当然長いので彼女の性格を重々承知している。彼女が憤慨すると途中で口を挟んだってまともに聞きやしない。たとえ言うチャンスが来たとしても彼女は自分の考えで頭がいっぱいになり、人の話がまったく耳に入らない。だから私は彼女がすべてを吐き出すまで、まずはじっと彼女の話を聞くことに徹する。まあ、今回のこともそれを踏んで彼女へ出かけ間際の今、話を切り出したわけだが。
「わかってる。ゴメンまゆみ。今夜、ゆっくり話すから。もう時間だ」
私はそのまま言い放って家を出た……いや、逃げた。もちろんこれは計画的行動である。ヘタに最初から夜、子供達が寝静まった時にでも話をしたら、妻の声で子供たちは飛び起きて泣き喚くに違いない。そして、そんな中でまともに話し合いができるわけもなく話は収拾つかなくなる。ここは一度、朝出かけ間際に振っておいて、妻に落ち着いてもらう時間を持たせたほうがじっくり、ゆっくり話ができると私は考えた。
私はそのまま玄関を出るとエレベーターを使わず4階から階段を一気に駆け下り、駐車場まで来た。
「ウッ、しまった……」
ここで私は大きなミスをしてしまった。IDネックレスをよりによって部屋に忘れてきてしまったようだ。昨夜に限ってなんだか汚れがひどく気になり外して洗ったのが原因だろう。もしかしたらと思いわずかな望みをかけてカバンの中をあさってみる。
「ダメか……」
いつもつけっ放しにしており予備を持ち歩いていなかった自分を呪った。IDネックレスがなければ車に乗ることができない。私は小さく溜め息をつき、渋々家に戻ることにした。
さて、彼女に見つからず上手く部屋に侵入できないか? と、思案するもののそんなことができるわけ無く、運を天に任せるしかないだろう。私は祈りながらエレベーターの昇りボタンを押そうとした瞬間、エレベーターのドアが開いた。嗚呼、なんて私は運がいいのだろう。エレベーターの中には甚だしく存在感を醸し出した私の妻が、腕を組み仁王立ちしているじゃないか。その表情は……仁王だ。
妻はエレベーターから出てくると私を押し出すようにエレベーターホールから外に出た。
「あなたもバカね。こんな大事なものを忘れてくなんて」
妻は表情ひとつ変えずそう言って私のIDネックレスを私の目の前でユラユラさせた。
「あなたの計画通りに行くと思ったら大間違いよ。神様は簡単にあなたの思惑通りにはさせてはくれないわ。私の神様がね。とにかく今夜じっくり話を聞かせてもらいますから。それじゃ、気をつけていってらっしゃい」
妻は私にIDネックレスを手渡すと足早に家に帰っていった。残された私はただ黙ってネックレスをつけ、そのまま駐車場へ向かい車に乗り込んだ。
私はその足で名古屋笹島総合駅へと向かった。実は今日、如月先生と待ち合わせをしていた。それは先生に返事を直接伝えるためだ。
待ち合わせ場所のリニア新幹線改札口に辿り着くと、すでに先生はいらしていた。
「先生、すみませんお待たせして」
「おお、航路君。待ったなんてとんでもない。まだ約束の時間ではないよ。しかし航路君、私としてはもう少し返事が返ってくるまで時間がかかるかと思っていたから驚いているよ」
先生はそう言って私の顔を見上げながら一人頷いてみえる。私はそのまま立ち話というわけには行かないと思い、先生がリニア新幹線に遅れないよう改札近くにあるカフェに先生をお誘いし話すこととした。店に入ると丁度奥の窓際に空いている二人用カウンター席を見つけたので私達は並んで座ると話を続けた。
「すまないな航路君。今日はこの後東京で事業内容の最終打ち合わせがあってな」
「いえ。こちらこそお忙しいところに無理に時間を作っていただいて。このようなお話、あまり長々と考えたところで、ただ堂々めぐりしてしまうだけだろうと思いまして。先生をお待たせすることは却って申し訳ないですから、少しでも早く直接お話ししたいと」
「そうだったか」
そう先生は短く答えると静かにウインドウ越しに流れる人ごみを眺めながら私からの答えを待っていた。
「先生。色々と考えた末、やはり私も先生と同じ考えであると私自身結論付けました」
私は人が多いカフェだけに『ライフ・ケア』という言葉を避けて答えた。
「と、言うことは引き受けてくけると?」
「はい」
「ん、ありがとう。君なら最終的にはそのように判断してくれると信じていたよ。しかし苦労したことだろう。まゆみさんの説得は」
「え、ええ。まあ、それなりに……」
「おいおい、もしかして黙って決めたんじゃないだろうな?」
私の歯切れの悪い言葉に如月先生は眉間に皺を寄せ言った。まったくもって私は嘘をつくのが下手な男である。
「実を言うと、説得は今晩に……」
私のその言葉に先生は心底驚かれたようで、身を小さく仰け反らせ声のトーンを一段上げて言った。
「こりゃあ、参ったなあ。彼女は随分と憤慨するんじゃないか? 急な転職のうえ、ライフ・ケア事業とくる。いやぁ、君もなかなか突っ走ってくれるなあ。言ったじゃないか。夫婦でしっかり話し合ってくれと」
先生の声に周りの客が何かボソボソと話す動きを感じ、私は動揺した。先生は私の気遣いにお構いなしだ。
「申し訳ありません。もちろん、それは分かっていましたが……」
「まゆみさんは必ず理解してくれると?」
「はい。彼女は私の一番の理解者で最も私が信頼している人間です」
「うーん……まあ、私としてはたいへん嬉しい返事ではあるが、黙って決めるというのは感心できんな。夫としての行動としては些か勝手すぎやしないか? いやいや、しかし私は正直まゆみさんに叱られるのが怖いよ。きっと彼女は言うよ。『どうせ先生の入り知恵でしょ』なんてな」
如月先生は苦い笑いを出すとコーヒーを軽く口にした。先生もまゆみの事はよく知っている。だからこそ夫婦でしっかり話し合えと私に言ったわけだが。
「実は、先生からお話を頂いた時点で、すでに辿り着く結論は明確になっていました。それ故にまゆみに話しても中途半端に揉めるだけだと思いまして。それなら一層、事後報告にしてしまおうと。一応、今朝、ライフ・ケア事業の仕事に就くとだけ言って出てきたのですが……」
私は先生には申し訳ないことをしたと反省心が出てきて語尾が弱くなってしまった。
「そうか。まあ済んでしまったことだ。まゆみさんのことだから、瞬間的には熱くなるかも知れんが、冷静に話をすれば納得もしてくれるだろう。いいよ、いいよ。もちろん今回は私が君に強くお願いしたことだしな。私からも後日まゆみさんに話しておくよ」
「それは、ちょっと……恐縮です……」
「それでは君を名古屋事業所の所長として迎える手はずをつけるよ。また改めて連絡を入れる。そうそう、もうすぐ名古屋事業所が完成するから、一度一緒に見に行こう。たしか話したと思うが長久手市の古戦場駅近くだ」
「はい。よろしくお願いします」
先生は「こちらこそ」と言って手を差し出された。そして私たちは固い握手をした。先生の手は還暦などというものを思い起こさせない厚みのあるしっかりした若々しい手で、その手から熱意そのものがしっかり伝わってくる熱さを感じた。そして私は武者ぶるいのようなものを心に感じた。私は、私の人生の中で最も大きな選択と決断をしたに違いない。