魔女として看病しただけなのですが
──あなたの作った白粉、本当に肌がきれいになったし崩れなかったわ。お礼がしたいから是非我が家のパーティに来てくれない? 親しい友人しか集まらない、気楽なものだから。気を張らないでいらしてね──
そう言われて、魔女のケイトリンは一張羅を引っ張り出し、おしゃれをして依頼人の伯爵令嬢が住むイージス伯爵家へと出かけて行った。
屋敷の正面玄関にはたくさんの馬車が停まり、窓には全て明かりがともっている。
日が落ちたばかりの濃い群青色の空の下、きらきらと宝石のような輝きを放つ屋敷に、ケイトリンはゆっくりと近づくと、胸を高鳴らせながら執事の案内で舞踏室へと入った。
そこには大勢のドレスアップをした人たちがいて、ケイトリンの足がすくんだ。
彼らは高価な髪飾りや宝石を身に着け、豪華な刺繍が施されたドレスを着て踊り、ふわふわひらひら素敵な色の裾が翻っている。
だが自分で仕事をして、自分で生計を立てているケイトリンの着ているドレスといえば、依頼人からもらった一昔前の、胸の下で切り替えるタイプのもので、細い腰を強調したドレスのたっぷりとした裾が翻る中でものすごく浮いていた。
先程の高揚とは真逆の、血が冷えるような動悸を感じながら、ケイトリンは大急ぎでそこから逃げ出そうとした。
気楽なものだと言われて……平民のアットホームな舞踏会を思い描いた自分が愚かで仕方ない。
そんな彼女に、招待主であるイージス伯爵令嬢が声をかけた。
「まあ、ミス・ケイトリン! 来てくれたのね!」
大きな声がして、振り返れば、一番華やかなドレスを着た金髪の美少女がこちらに向かって歩いてくるのが目に飛び込んできた。
深紅のドレスに艶やかな踵の高い靴。肩と胸元がむき出しで、デコルテを飾るのは黄金と紅玉のネックレスだ。
「早速私のお友達に紹介させて?」
及び腰だったケイトリンの手首を取り、赤に塗られた唇を微笑むように引き上げた彼女が一際人目を集めている集団にケイトリンを誘う。
「あら……そちらはどなた?」
「この白粉を作ってくれた魔女のケイトリンよ」
「魔女?」
「ああ……あの、街で万事屋やってるっていう」
「へぇ……」
にこにこ笑う伯爵令嬢に肩を押されて、彼女が言う「友人たち」の前にでる。彼らの視線はケイトリンの頭のてっぺんから爪先まで走って……笑顔を向ける必要はないと判断されたようですいっと後ろの伯爵令嬢へと戻っていった。
「それよりエミリア、そのネックレス、マダム・タッカーのものでしょう? さすがよね、あそこの最新作を手に入れるなんて」
「なあエミリア、こっちに来てくれないか、ルクス卿が面白い話を仕入れてきたんだよ」
「あら、これ美味しいわね。このシャンパン、もう少し頂けない?」
ケイトリンを無視して次から次へと話が移り変わり、彼女はその場に立ち尽くす。
ふと、ケイトリンの上を滑っていた彼らのなかの一つの視線が彼女を認識した。
「あなた」
にこり、と可愛らしい令嬢が微笑みを浮かべた。思わず笑みを返せば。
「飲み物取ってきて」
「…………え?」
「あ、じゃあ俺の分も」
「私のもお願い」
次々に言われ、ケイトリンは固まったまま何も返せない。
くすり、と隣で哂う声がしてはっと顔を上げれば、伯爵令嬢が柔らかな微笑みを浮かべていた。
「よろしくね」
一瞬、何かを期待した。でもそれは優雅な笑顔の前に潰える。
「わ……わかりました」
ケイトリンはホールの反対側にあるグラスの置かれたテーブルからいくつかのグラスを持っていく。
その後も身の置き場がわからないのでその場にいれば、彼らはあからさまにケイトリンを排除はしないが、声をかけることもなかった。
あるとすれば。
「なんだか寒いわね。ねえ、ショールを取ってきて」
「これ、邪魔だわ。返してきて頂戴」
「侍女を呼んできて」
繰り返されるのは笑顔で繰り出される「命令」だけだ。
自分たちの侍女に笑顔を見せることはないだろうから、一応は「侍女ではない者」として認識しているのだろうが……。
「あ、あの」
何度目かの「命令」の際に、ケイトリンは歯を食いしばっていってみた。
「私も……招待客なので……お嬢様方の使用人のような真似は……」
途端、周囲にいた人間が驚いたように目を見張った。
突然椅子がしゃべり出したというような表情だ。
先に動いたのは伯爵令嬢だった。
「あら、そうね。ごめんなさい、私ったら」
一歩前に出て、耳まで赤くなって俯くケイトリンの両手を取る。
「これで足りるかしら」
ぎゅっと、握り締められた手に、押し付けられたのは金貨。
ざわっと背筋に寒気が走り、ケイトリンは顔を上げる。
屈託なく笑う伯爵令嬢がいて、彼女は特に意地悪な様子も尊大な様子もなかった。
ただ、明確に。
悪意とは全く関係なく。
無邪気に。
労働者階級の人間はそう扱うのが正しいと、疑っていないヒトがいた。
そのまま彼女はスカートの裾を翻し、別の人間の元へとひらひら舞っていく。
そんな彼女とは違う思考の人間が、蔑むようにケイトリンを見ているのに気付き、ますます血が冷えていった。
まだわからないのかしら。
自分がこの場に相応しくないって。
身の程って言葉を知らないのかな。
エミリア様は本当のレディね。対価を払うなんて。
(浮かれていた……)
ケイトリンはふらり、と傾いだ身体を支えるように両足を踏ん張る。
断るのが正解だったのだ。
伯爵令嬢が招待状を寄越したのは単なる建前。
自分が庇護するべき『労働者階級』の人間を取り立てて見せ、友人に紹介することで自分の慈悲の心を見せつける。
そこには特に悪意はない。
そうするのが当たり前だと思っているのだろう。
そうやって、領民を引き立てる。領民は『恐れ多いことなので』と辞退する。
だがケイトリンは若かった。
見誤った。
ぎゅっと握り締めた金貨を、床に叩きつけたい衝動を堪え、ケイトリンは踵を返す。
どうするのが正しいのか。逃げ出すのか。それとも堂々としていればいいのか。
特権階級と労働者階級。
深く刻まれた溝を、大人たちはどうしていたのか……。
不意に、舞踏室の空気がどよめき、視線が一斉にホールの入り口に向かうのがわかった。
みじめな気分を味わっていたケイトリンものろのろとそちらに視線を遣る。
緊張した面持ちの執事が、手にした名刺の名を読み上げた。
「グ、グランドール公爵、クロード・ライランド様」
途端、きゃあっという悲鳴が令嬢たちの間に上がり、ケイトリンの視線の先にあっという間に人だかりができる。
シャンデリアに照らされた階段を優雅に降りてくるのは、黒のコートに深い青の衣装を着た黒髪の美丈夫で。
彼の銀色の瞳が群がる一行を一瞥する。
「招待されたわけでもないのに申し訳ない」
微笑んで告げられた言葉に、溜息のようなどよめきが起きた。いそいそと前に出る伯爵令嬢の頬が赤い。彼の目に留まろうと、未婚の令嬢達が我先にとアピールする。若い紳士たちも、切れ者と名高い公爵の視界に入るべく公爵との距離を詰めようとしていた。
あっという間に場の人間の注目を集めた男に、ケイトリンは目を瞬いた。
それからどこかほっとした様に胸をなでおろす。
(よかった……体調は回復したようね)
ほんの数日前、彼はこの伯爵領の手前で馬から降りて具合が悪そうにしていた。秋とはいえ暖かい日に長時間馬に乗っていたという。脱水症状を起こしていた。
放っておけずに近くの教会に連れ込んで、水を飲ませたり、塩を取らせたりしていた。まだ体調が悪そうだったが、慌てに慌てた従僕が大声で彼を探し回っていたので、教会の牧師と彼に看病を任せて家に帰ったのだ。
あれから悪化するようなことはないだろうとわかっていたが、ちょっと気になっていた。
だが、こちらの伯爵令嬢の白粉の方が先だと、頭の隅から彼のことが消えていた。
今、この場にいる公爵はすこぶる元気そうで、なおかつ、彼が公爵だったことに少なからず驚く。
具合が悪そうにしていたとはいえ、教会まで肩を貸して歩いた際、彼は心からの感謝を述べていた……と思う。
(今日みたいな……断絶は感じなかった)
後日金貨が届くようなこともなかったし。
何の用事があるのだろうかと、ぼんやり彼を見つめていたら、ドン、と後ろから人がぶつかってきてケイトリンは反応できなかった。
べしゃり、と床に両手両膝を付いて倒れ込む。同時に、背中に冷たいものを感じ、ぶつかった人間の持っていたグラスの中身がかかったのだと気付いた。
いったい誰が、と顔を上げるが誰もこちらを見ていなかった。
(……そうか……)
ここの人たちは徹底している。
ケイトリンのような存在は……ここにいることすら認識されないのだ。
(一張羅だったんだけどな……)
型が古いけど気に入っていたし、大切に着ていた。
それを着て行こうと思うくらいには……自分に誇りがあった。
(……かえろ)
そうだ。
それが一番いい。
のろのろと立ち上がり、帰りは正面玄関から堂々と帰るのではなく、使用人用の裏口から帰ることにする。
馬車なんてものはない。歩いてきたのだ。
それが分相応だから……。
「ようやく見つけた、ミス・ケイトリン・マーシュ」
堂々とした、でもどこか甘い声。
背筋がざわざわするようなそれに名を呼ばれ、ケイトリンが振り返るより先に、ふわりと温かくいい香りがするものが自分の身体を覆うのに気付いた。
(え……?)
よく見れば、黒い、仕立てのいい大きなコートが身体にかけられている。
いったい何が起きたのかと、顔を上げれば、誰かが後ろからケイトリンの手を取り、腰を抱くのがわかった。
「!?」
さすがにぎょっとする。
いったい誰が、と斜め後ろを見上げれば、先程舞踏室を睥睨していた銀色の瞳にぶつかった。
頭一つ分背の高い男が、覗き込むようにしてケイトリンを見ている。
「ようやく会えた」
温かな吐息が唇を掠め、その近さに慌てたケイトリンが身を引く。だが腰を抱く腕は弱まらず、逆に捕まえられていた右手を引っ張られてしまった。
舞踏室に相応しい、ダンスの一場面のように、斜めに背中を支えられた態勢になり、彼女は真っ赤になった。
「この間教会で別れてからずっと探していた。栗色の髪と榛色の瞳の可愛い女性が誰なのか。あの教会がある領地の人間ではなかったから、見つけるのに手間取ってしまってね」
言いながら、男はすっと銀色の瞳を細めると柔らかく笑う。
(っ……!)
先程まで晒されていた視線とは全く違う、耳まで赤くなるケイトリンを映す銀色。
「是非お礼がしたいんだが……いいかな?」
にこにこ笑う男の笑顔が……どういうわけか怖い。
どういっていいのかわからないが、危険な感じがする。
「あ……あの、私……な、何かしましたか?」
思わずそう尋ねる。
機嫌が悪そうには見えない。むしろ上機嫌と言っていいだろう。
だが怖い。
何故か怖い。
本能的に……『捕食』されそうな怖さを感じるのだ。
「君はわたしの命を救ってくれた。何かしただなんて……ああ、そうだなミス・ケイトリン。したのはわたしを介抱してくれたことだ」
それは別に悪いことではないし、魔女である自分は薬草に詳しいせいで病人の扱いも慣れている。
普段通りの行動をしたまでだ。
「感動したよ。君はわたしの素性を聞くことも、お礼を強請ることも、ましてやここにいる連中の様におべっかをつかうようなこともしなかった」
ゆっくりとケイトリンを引き起こし、男は彼女の腰と手首を掴んだまま優雅に舞踏室を横切っていく。
視線が突き刺さる。
先程までは馬鹿にするだけだった彼らのそれに、じりじりと焦げ付くような、きな臭い香りを放つものが混じる。
だがそれは、ついっと男が視線を遣るだけで跡形もなく消えていく。
「レディ・エミリア」
そんな中、唖然とした顔で二人を見つめていた主催の伯爵令嬢に、男は眩しくて目が開けていられないような完璧な笑顔を見せた。
「彼女をずいぶんと贔屓にしていたようだが」
そっと、掴んでいたケイトリンの手首の内側に指が這う。ぞくぞくと背筋に寒気が走り、緩んだ掌から温かくなった金貨を摘まみだした。
「もっと彼女は価値が高い」
男は自分の親指の上に乗せた金貨を弾く。きらきらとした軌道を描いたそれは、音もなく、毛足の長い絨毯に吸い込まれた。
目を丸くするエミリアを他所に、男は「失礼」と笑顔で告げ、ケイトリンを連れて舞踏室を抜けていく。
ケイトリンが我に返ったのは、この男に馬車に連れ込まれた時だ。
「ってあの!? い、いい、一体!? ていうか、あなたは!?」
動揺してそう告げれば、むうっと不服そうな顔をした男がケイトリンの身体にかけていたコートをはぎ取り、彼女を引き寄せた。
「ひゃい!?」
「白のドレスに赤ワインをかけるなんて……やったやつはどこのどいつだ」
低い声が唸るように告げる。
耳元で囁かれたそれにぞわぞわしながら、ケイトリンは首を振った。
「な、何者かはわかりません。それに洗えば落ちますから」
「わかった。すぐに手配しよう」
やらかした奴の調査も含めて。
物騒なことをぼそりと告げられ、ケイトリンの顔が青ざめる。
「ていうか! あなた誰なんですか!?」
もう一度、声を荒らげればゆっくりと身体を離した男が、伯爵令嬢に向けたのとはまるで違う、優しい笑みを見せた。
「君に命を助けてもらった公爵だ」
「い、命って……」
単なる脱水症状だ。
いや、秋とはいえ水分補給もなしに馬に乗り続ければ倒れる。倒れた際に頭の打ちどころが悪ければ死ぬし、熱中症のようなものを併発すれば命に関わることもある。
確かに軽視はできないが……だが……幾分大げさではないか。
「あの日わたしは……君に助けられた。寝かされた寝台で見上げた君の、天使のような表情を忘れられなかった」
「………………はぁ……?」
「甲斐甲斐しく世話をしてくれる君から感じたのは……打算もなにもない、純粋な心配だった。そういったものに、久しく触れていなかったからね。わたしはとても感動した」
「そ……そうです…………か……?」
「是非もう一度君に会いたいと、方々探し回ったぞ」
「あ……はい……」
「名前も残さず消えるなんて……わたしがどれだけ絶望したことか」
両手が伸び、男の手がそっとケイトリンに触れる。むき出しの腕にその掌はやたらと熱く、ひいっという情けない声が喉から漏れた。
「ちゃんと自己紹介をさせてくれ。わたしはクロード・ライランド。グランドール公爵。二十歳、独身だ」
真剣な眼差しで言われて、ケイトリンは混乱する。
そんなことを……言われても……どうすれば?
目を白黒させながらも、彼女も必死で答えた。
「あ……はい、では……私もあの……ご存じのようですが、ケイトリン・マーシュ……魔女をやってる十八歳独身です」
何となく視線を伏せて告げれば、彼の手がゆっくりと腕をなぞり、はっと身を強張らせるより先に引き寄せられて抱きしめられた。
「!?」
ばくん、と心臓がものすごい勢いで鼓動を刻む。
声も出ず、身の置き所も手の置きどころもわからずあわあわしていると、ゆっくりと彼の掌が背中を辿り、そっと後ろ首に触れる。
耳朶に温かな唇がかすかに触れる。
「会いたかったよ、ケイトリン」
甘い声が耳から脳へと直撃し、なんだかよくわからない痺れが腰から首へと駆け抜ける。
「君が誰にも手折られることなく、真っ直ぐに咲いていてくれたなんて……奇跡だ」
どういう意味だ?
「あ……あの……?」
どうでもいいが耳元でしゃべらないで欲しい。
「一緒にグランドールへ来てくれ。魔女家業はそちらでもできるだろう?」
するっと背中を温かな掌が滑り、ケイトリンは思わず背中を逸らす。白く、露になった喉に、クロードの唇が触れ……その瞬間、ケイトリンは我に返った。
「いいえ、ダメです! 魔女家業は地域密着型なので! おいそれと地区を変えることはできません!」
節度ある距離、重要!
両腕を突っ張り、包囲網を敷く公爵の腕から体一つ分空間を開ける。
唇をきゅっと結び、とんでもないことをさらっと言ってのけた公爵を睨み付けた。
精一杯睨み付けた。
睨み付けたのだが。
(わ……笑ってる?)
にこにこと、周囲に花を飛ばしそうな能天気な笑顔を見せられて、思わずケイトリンの頬が引き攣った。
「では、どうすれば我が領地に来てくれる?」
「そ……れは……」
考えたこともない。
先祖代々この土地にいるかと言えば、そういうわけでもない。ケイトリンがこの地に来たのは三年前だ。独り立ちしてギルドの紹介でこの地に来た。
「……私の後任が決まれば……」
「わかった」
即答され、眉間に皺を寄せてクロードを見上げる。
「で、でもすぐに決まるわけではないですし、まずは魔法使いのギルドに連絡をして、この地を離れる理由の説明もあって」
言葉を紡ぐケイトリンの唇に指先を押し当て、公爵はついっと顔を寄せると銀色の瞳を輝かせた。
「理由はわたしにスカウトされたから。後任はすぐ見つけられるように手配する。現在わたしはここの隣の領地の伯爵家に滞在しているんだがよかったら君も……」
「い、いいえ、結構です! 私は自分の家に帰りますから」
慌ててそう告げれば、ほんの少し目を見張った後、公爵はふっと見た人間が溶けそうな顔をする。
「わかった」
呼ばれた令嬢の屋敷は本来、歩いていける距離にある。すぐに馬車が自宅前に到着し、ケイトリンは緊張と混乱から震える足を叱咤し、ようやく地面に降り立った。
「すぐ迎えに来るから」
「……はぁ……」
何と答えていいかわからず、ぼんやりと立ち尽くしていると不意に額の辺りに口付けられて仰天する。だがひらりと手を振って公爵は馬車に乗るとその場から立ち去った。
「……なんだったのかな……」
暗闇に馬車が消え、周囲に虫の声が響き出すころにはケイトリンは今起きたことの全てが幻のような気がしてきた。
どこまでが現実でどこまでが夢だったのか……曖昧な気分になる。
いくらかよろけながら木製のドアのカギを開け中に入る。吊り下げられた薬草や棚に積まれた本や保存食、綺麗に洗ったカップやお皿を見てようやく「いつもの」世界に戻ってきたと実感し、はーっと深い溜息を吐いた。
(ほんと……なんだったんだろう……)
一張羅を脱げば、赤い染みができていて、染み抜きをしないと駄目かとうんざりする。
洗濯の準備をしながら、じわりと込み上げたのは自分たちが入れない世界があるのだという、変え難い事実に直面した複雑な感情だ。
ただ。
(あの公爵様は……なんだったんだろう……)
距離が近くて、他の特権階級の人間とは全く違った。
それにどうしてケイトリンに唐突に領地に来るように打診したのか全く理解できない。
きっと単なる気まぐれだろうと、無理やり自分の中で話を片付け、眉間に皺を寄せながらケイトリンはたらいにお湯を張る。無患子で洗えば落ちるだろうかと無心で汚れと格闘していると、誰かが戸を叩く。
手を拭って来訪者を出迎えるよう扉を開ければ。
「三十分ぶりだね」
件の公爵が立っている。
「………………何故」
「ドレスを受け取りにきた」
言って、先程別れたばかりの公爵がずかずかと部屋に踏み込んでくる。付き従えているのは隣の領地の洗濯メイドだろうか。
彼女たちは泡だらけのドレスをてきぱきと絞ってさっさと部屋から持ち出していく。唖然として見ていれば、部屋をざっと見渡した公爵がケイトリンの手を取ってソファに腰を下ろした。そのまま隣に座るように促す。
「…………あの……」
「彼女たちは優秀だ。すぐに綺麗になるよ」
「……それはありがたいのですが……」
お茶でも出した方がいいのだろうか。
そんなことを考えていると、改まったようにこほん、と公爵が咳ばらいをしきゅっとケイトリンの手を取って握りしめる。
「本当にすまない。だがようやく見つけたのにこのまま君をまた見失うのかと思ったら耐えられそうもなかったんだ」
「…………はぁ」
見失うとはどういうことだ。ここにいる限り、見つけやすいと思うのだが。
「他に誰か尋ねてこないとは限らないし、訪ねてきた男が君を攫っていかないとは言えない」
「……………………はぁ」
まったく意味が分からない。だが曖昧に返事をすれば、公爵はケイトリンの両手を握ったまま立ち上がった。
「というわけで、今から一緒に来てもらう」
「はい!?」
仰天して声が上ずるケイトリンを綺麗に無視して、公爵はふわりと彼女を抱き上げると大股で歩き出した。
「い、いえ、ちょっと……あの!?」
「申し訳ないがここに君を置いてはいけない。何が起きるかわからないし」
何も起きない。起きるはずがない。ここは平和な街なのだから。
「あの、公爵閣下!? 先程も申しました通り、魔女とは地域密着型で」
「旅行する権利くらいあるだろう」
「旅行? まあ、それは……」
「じゃあ我が公爵領に招待する。近隣住民にはわたしの従者から説明させよう」
「で、でも急には……準備だって……」
「それはこちらで用意する。君はただ一緒に来てくれればいい」
何が裏があるのだろうか。
パーティにのこのこ参加をしていらない思いをしたのだ。
そう思って間近にある貌を見上げると。
「何も心配しなくていい」
微笑まれて目が回る。
ここまでくると……気持ち的に自棄になってくるから不思議た。
何も心配しなくていいというのなら、そのまま流されてもいいかもしれない。
(でもなぁ……)
先刻覗いた世界とのギャップが胸にのしかかる。
「……私、高貴な血筋ではありませんよ?」
思わずぽつりと漏らせば、軽く目を見張った公爵がふん、と得意げに笑った。
「わたしは公爵だからな。誰と親しくなろうが意見できる奴はいない」
そういうものなのか。
なんだか違うような気もするが。
「というわけで、しばらく我が領地に滞在して欲しい」
最終的に懇願するように、情けない顔で言われ、ケイトリンは仕方ないなという気持ちで頷き返すのだった。
グランドール公爵が連れて帰ってきた栗色の髪に榛色の瞳の魔女は、閣下の命の恩人として好待遇で扱われた。その間に早急にギルドへの申告が終わり、気付いた時には伯爵領の貸家にあった家財道具一式がすでにグランドールへと運ばれてくることになるのだが。
街の様子に目を輝かせ、終始公爵が傍にいる状態のケイトリンには気付くはずもなく。
数週間後、酷く驚き唖然として彼に詰め寄ることになるのだった。