白い迷い
私には何もない。
普通の人が普通に持っている記憶が、日々を追うごとに消えてゆく。
そして、ただ、白い空虚な自分が存在するだけ。
思い出せないのだ。
私にもある筈の名前、家族、住まい、友達、趣味、仕事。
全てを忘れてしまった。
それが、例え病気のせいだとしても。
辛い、という言葉の形容の仕方も分からない。
悲しい、という感情もよく分からない。
ただ、淋しい、という感情だけは少し残っていた。
私は、若年性アルツハイマー症という病いに侵されているらしい、という事もよく分からない。その病気は、難し過ぎて分からない。
私は目覚める度に、私の頭の中に「記憶」というものが存在しないか確認してみるのだが、いつも少しの絶望を招くだけだった。そしてここは何処なのだろうという疑問からその日が始まる。
八月の肌に絡みつくような蒸し暑さの中で、燃えるような太陽が少しづつ沈んでいく。
ここはどこだろう?
見知らぬ街の、見知らぬ公園のベンチ。
私は何故ここにいるのだろうか。
傍らには、ブランコがふたつと、すべり台。それと高さの違う鉄棒がひとつづつ、あるだけ。
ある日を境に私は少しづつ自分を忘れてゆく。何をしようとしていたのかが、思い出せない。
それはひとつの恐怖となって私を苛む。怖い、ここから逃げなきゃ。でも何処へ逃げればいいのだろう。
もう、それすらも思い出せない。
生きているのか、死んでしまったのか、私にはそれも分からない。
何かをしようとしていたのか、分からない。
ただ、そんなぼんやりとした、輪郭のない白い絵を見ているようだ。
私は公園のベンチに腰掛けて途方に暮れていた。
私は何処へ行けばいいんだろうか。
どんなに足掻いても、私の記憶はもう戻ってくる事など、有り得ないと言うのに。
その時、私はその手に何かを持っている事に気付き、視線を落とした。小さなメモだった。
それには、こんな文章が書かれていた。
「私の名前は、杉本悠花
年令は36才、身長150cm、背中まで伸びた茶色がかった髪をひとつに束ねている。見た目は20代後半、どうしたらいいのか分からない時はここに電話下さい。悠花の夫で、杉本海斗という名前です」
携帯電話の番号が書いてある。所謂、迷子札のようなものだろう。
こんなものを持っているという事は、私は恐らく以前にも迷子になり、家族の誰かに大騒ぎされて、大捜索されたのちこれを持たされる羽目になったのだろう。
私は震える手で持っていたバッグからスマートフォンを取り出し、そのメモに書かれていた数字を押した。まだ辛うじて電話の使い方は覚えていたようだ。
二度目の呼出音が切れて、誰かが出たらしく電話の向こう側から「ゆうかか?今どこにいる?」と、男の人が言った。
私の名前が「ゆうか」だということを、この電話の向こうの人は知っているのだ。
私が知らない私の名前を呼んで、その声からも容易に解るくらいに心配している。
きっと、私の家族とか、そんな感じなのだろうな。
「あの……どこなのか分からないの」
すっかり日も暮れて、辺りを夕闇が支配してゆく。
「ああ、そうだったね。ごめんね、難しい事を君に聞いて……うん、GPSで君の居場所は分かったよ。直ぐに迎えに行くから、そこから絶対に動かないで待ってて」 そう告げて、電話は切れた。
ほぅっ、と深呼吸して、悠花という名前らしい私はベンチに座り直した。
夕闇の中、ブランコや滑り台などの遊具のシルエットだけが浮かび上がって見える。
遠くの方から電車の走るガタゴトという音が聞こえ、すぐそこにある家から漂ってくる夕飯のカレーの匂いが悠花の鼻を掠める。
程なくして、公園の入り口に白いクラウンアスリートが滑るように入って来て止まった。
そこから降りて来た男の人が、一直線に悠花の元へ走って来た。
「良かった、何もなかったね」息を切らしながら、その人は言った。
「あの……」私は不思議そうにその男の人を見ていた。懐かしいような、それでいて見知らぬ人のような、そんな曖昧で漠然とした印象。
「悠花がいなくなったって、聞いて、心当たりは聞いたけど、誰も、今日は、見てないって、言われて……」乱れた呼吸を整える余裕もなく、私の目の前の人はそう話した。
個性的な顔立ち、という形容詞が当てはまるか分からないが、街中を歩いていたら必ず数人の異性の目を引く存在である事は容易に想像がついた。短くカットした髪に、少し下がり気味の目、浅黒く焼けた肌、それらが全て独特の雰囲気を出している。背はそんなに高くはないのだろう、悠花との身長差は二十センチくらいだろうか。それすらも計算に入っている様な佇まいだ。
今、その人物は悠花の心配をして、この公園まで駆けつけて来てくれたのだ。しかも、悠花本人が何処にいるのか把握してない状況である事をも、熟知している。
悠花は、持っていたメモを見て「かいと、さん、ですか?」と少し躊躇いながら、尋ねた。
海斗は、もう慣れた、という様子で「そうだよ」と答えて微笑んだ。
「付け足すなら、悠花と俺は夫婦、って事だよ」ちょっと不安感がひょっこり顔を覗かせそうな、そんな口調で話した。
夕闇から藍色の闇に辺りは変わっていった。そろそろ帰らないとこのままでは二人とも確実に飢え死にするだろう。何しろ今日も体温に迫るほどの猛暑日だったのだ。
それにしても私は今日、どうしてあの公園にいたのだろう?
そんな事考えても無駄な事だと気付くような悠花ではなかった。多分もうその目的であったであろう事すら悠花の頭の片隅にも残ってはいないのだから。
「子供達も心配してるし、とにかく帰ろう」海斗が悠花の手を掴んでもう何処にも行かないでとばかりに半ば強引に車の助手席に押し込んだ。
子供達。海斗の口をついて出たその言葉が悠花の脳裏を反芻する。
私には子供がいるの?
何をどう聞いたらいいのかを考えてもその術を持たない悠花が、戸惑っているのを光の速さで察した海斗が言葉柔らかく「何か聞きたいかい?」と、口を開いた。
けれどそれに素早く聞きたい事を返せるのなら、迷子になどなったりはしない。
そう、悠花は言い換えれば人生という道端で迷子になっているのだから。
「悠花と俺の間にはふたりの子供がいるよ」そう海斗に告げられてもそれは私の事なのかしら、とまるで映画のストーリーでも聞いているように現実味がない。 本当に私は悠花という名前で、この男の人と夫婦なの?
子供がいるというのも本当なんですか?
覚えていない事、忘れてしまった事の全てを疑惑というオブラートに包み込んでしまう。今の悠花はそんな感じだ。
人は、辛い事や悲しい事を忘れることで生きて行く生き物であり、また、楽しかった事や嬉しい事は忘れずに大切に覚えているもので、対称になるのは記憶の大切さではないか。
覚えている事が大切なことは、多分多かれ少なかれ誰もがあるのではないのだろうか。
それがある日を境にだんだんハッキリしなくなる。ご飯をいつ食べたのか思い出せない。
この人誰だったのかが、どうしても思い出せない、そんな事がそのうち日常茶飯事になってしまう。
そうこうしているうちに、今日が何月何日なのかも分からなくなってゆく。何をしようとしていたのかも分からぬまま燃え尽きる。
記憶の欠片はどんどん砕け散って、跡形も残らなくなってしまう。
自分の、今は覚えている事が、次の瞬間には消えてなくなる。そんな事を考えると本当に怖い。帰る家や待ってる家族の事も忘れてしまう、自分という人間を形容していた記憶の全てが水泡に帰す。
その病名は、アルツハイマー症。
若年性アルツハイマー症と、アルツハイマー症とに、症状の区別はなく、単純に65才を基準にそれよりも若い人は若年性となるだけ。
そして、未だにこの病気は詳しくは解明されてはいない、有効な治療法もない未知の病気の類に分類される。
一番顕著な病変は、脳の萎縮。それも記憶を司る海馬と大脳皮質、そして脳幹が萎縮する事で起こる、記憶障害がこの病気の症状の大部分であり、症状によって段階的に分類されている、ややこしい病気なのだ。
そもそも何故、脳が萎縮するのかが分からないが、原因のひとつに睡眠時間が関係している。極端に睡眠不足の人は、この病気になる確率が大きく上がる。 更にこの病気は、染色体異常も原因のひとつになる。それはつまり遺伝子レベルでの発症、血縁者にこの病を患っている人がいたら、気をつけた方がいい。と言ってもそれはちょっと無理だと思うけれど、必ずしも発症するとは限らないので、気に病まない方がいい。
染色体異常というと、ダウン症もこの病気に分類される。
そしてもうひとつ、糖尿病患者の罹患率が高いというのも謎のひとつだろう。
更に付け加えるなら、薬の過剰摂取もこの病気を発症する引き金になる。過去にオーバードーズをやった事がある人は要注意だ。
そう、悠花はしばしば精神安定剤の過剰摂取をしていた経歴があった。
クラウンの助手席にすっぽり入って窓の外を流れる灯りが幻想的に綺麗だなと、頭の何処かで誰かが囁いていた時。不意に車が急ブレーキをかけたので、シートベルトに縛られた体にガツンと殴られたような衝撃を受けた。
「ごめん!びっくりした?」急ブレーキをかけたのは運転していた海斗なのは当然なのだけれど、何だか焦っているみたいだったのは何故なのか分からなかった。
「どうか、したの…」最後まで言葉を発する勇気がない悠花は、どうしたのかを聞きたいのだけれどそれが出来ない。無論海斗にはその事情も当然伝わっている。
「悠花、お前、持ってたバッグは?」
そこからまたさっきの公園に舞い戻って忘れた悠花のバッグの捜索が開始された。
万事がこんな状態なのだから、そりゃあ悠花がいなくなったら大騒ぎになるのは火を見るより明らかだろう。
悠花のバッグはそこに持ち主が座っていた時と寸分たがわずにベンチに座ったままだった。
「やれやれ、まぁ見つかって良かったな」海斗は悠花を責める言葉のひとつも言わず、それよりもさっさと帰ろう、とばかりに車を走らせながら「腹減ったな」ポツリ、海斗が呟いた。
そういえば私もお腹が減ってるのかしら、海斗の言葉を受けて悠花は少し考えてみた。けれどやっぱり分からない。自分の身体の事さえ分からない私は何なのだろう?
ウザさ最高潮のアブラゼミの鳴き声が消えドロドロに暑かった夏もようやく過ぎて、鈴虫のりーんりーんという音楽会に季節は変わっていった。
悠花の病状は毎日更新されているように確実に進行している。頭の中によく消える消しゴムがあるように、悠花の記憶は日を追うごとに薄く掠れて見えなくなってゆく。
それでも子供がいると聞いた時、心が締め付けられるように痛んだ。この痛みは何だろう?悠花にはまだ子供の記憶の断片が愛しい自分の命を分け与えた存在として、残っていた。
けれどそれが何になると言うのだろうか?今の悠花には母親の役目すら出来ないというのに。それでも子供達からすれば悠花は唯一ママと呼ぶ存在でありそれは他の誰にも取って代わる事など出来はしない。
そう、母親とは子供にとってかけがえのないものであるが、今の悠花の病気を理解するには、子供達はまだ幼すぎた。
病気が進行してゆくにつれ悠花は人ではなくなってしまうのだ。人であることすらその頭の中から消え去ってしまう。終末期は必ず訪れるのだしそれを回避する術は何もない。それが今の医学の限界なのだろう。
外はしんしんと雪が降っている。音のない世界。真っ白な銀世界は幻想的なまでの美しさを醸し出していた。不純物の混ざらない完璧な白銀の世界。まるで悠花の頭の中にも雪が降り積もっているかの如く、全ての記憶を真っ白な雪が美しく消しているようだった。
人を忘れた悠花を海斗はどう受け止めてゆくのか?そして子供達にはなんと説明するのか?その時が来てみない限り答えなど出せる筈もない。けれどその時は確実に迫ってきている。生まれたての赤ちゃんの様に何も知らない何も出来ないそんな真っ白な悠花と、海斗は遅かれ早かれ向き合わなければならないのだ。
なんて残酷な病気なのだろう。記憶の全てを奪ってしまうそれがアルツハイマー症という病気なのだ。
そう、あの真夏の夕暮れに忘れて来た悠花のバッグのように、もしかしたらあのベンチに悠花の記憶も置いてあるかも知れない。
[完]
神崎真紅