天高く届くは女神の抱擁 8
「――! 今の記憶は……」
ハッと目を見開き呟くと、イシュタルがわたしの顔を覗き込んでくる。
『リリス様、また夜の魔女の記憶を見られたのですか?』
「……うん。今見たのはちょうど、ルナと夜の魔女が初めて会った時のものだった」
〝羨ましい、羨ましい、羨ましい!
どうして、どうして、いつもいつも、あの女ばかりが――!!〟
夜の魔女は、女神リリスの側にルナが居ることをとても羨んでいた。
目を閉じれば彼女の呪詛のような声がまだ生々しく脳裏にこびりついている。
『顔色があまり良くありません。少し休んでから神殿には向かいましょう』
「ううん、大丈夫。ちょっと驚いただけだから。行こう、女神リリスの神殿へ」
『けれど……』
なおも心配そうなイシュタルを安心させるように微笑んで、わたしは腕に抱いていたピグくんをそっと草原に下ろした。
するとピグくんが不思議そうに小首を傾げる。
「キュ?」
「ごめんね。ここから先は何が起きるか分からないから、ピグくんは連れて行けないの。でもピグくんの元気そうな顔を見れて本当によかったよ。また数年後に地上で会おうね」
「キュー! キュキュー!!」
「えっ!? ピグくん!?」
草原に下ろした傍からピグくんがわたしの足にしがみつき、そのまま肩までよじ登ってきて、離れようとしない。聞こえてくる声も『やだやだ! リリスと一緒に行くもん!』と、まるで駄々っ子だ。
「ど、どうしよう……イシュタル」
『そ、そうですね……』
困り果てて目の前の神龍を見やると、イシュタルもまたジタバタと駄々をこねるピグくんにオロオロとしたのちに、溜息をついてこう答えた。
『リリス様、諦めましょう』――と。
* * *
「イシュタルもいいって言うから連れてくけど、でもいい? ピグくん、絶対にわたし達から離れちゃダメだからね」
「キュ!」
神殿に向かう道すがらピグくんに口が酸っぱくなるほど、わたしは何度も注意する。するとピグくんは分かっているのかいないのか、わたしの肩で「キュキュ!」とご機嫌に鳴くのである。
「……本当に分かってんのかなぁ。夜の魔女のせいで地上に戻れなくなっちゃったのに……、心配だ」
『万が一の時は私が魔法で逃がします。……そう言ってる間に神殿の跡地に到着しましたよ、リリス様』
「あ、ここが神殿の跡地……」
ぐるりと見渡せば、辛うじて何かの建物があったことだけは分かる、いくつもの柱とがれきの山。辺りはシンと静寂に包まれており、どうやらこの場所には召喚獣達も近づいたりはしないようだ。
「ボロボロだけど……、でも」
一見するとただの廃墟だが、どこか他の場所とは違う神聖な雰囲気がするのは、人間のわたしでも肌で感じる。
「女神リリスはここに住んでたのね」
『はい。夜の魔女の襲撃を受け、原形は留めていませんが、元々ここにはそれはもう立派な神殿があったのです』
がれきを避け柱の奥へと進めば、大きく破損した一体の女神像が月明かりに照らされており、そのあまりに神秘的な様子に息を吞んで見惚れてしまう。
すると横にいたイシュタルも女神像をジッと見つめて、ポツポツと話し出した。
『……ここで私は、女神リリスとそして他の天使達も共に多くの時間を過ごしていました。彼女は時折故郷の歌も聞かせてくださりましたが、それはそれは美しかった。けれどそれがどんな歌だったのか、今はもう私には思い出せませんが……』
「そっか」
目を細めて過去を語るイシュタルに、なんだかわたしまで不思議と懐かしさを感じる。女神リリスがたくさんの天使達に囲まれて歌う姿。楽しそうな様子が今にも目に浮かぶようだ。
イシュタルが忘れてしまった歌。
……ああきっと、こんな感じ。
「――――……」
息を吸って、頭に次々と浮かんでくるメロディーをゆっくりと口ずさむ。
それに隣のイシュタルから息を呑む気配がした。
「キュー」
「!」
と、そこでわたしの歌につられたのか、肩で大人しくしていたピグくんが一緒になって歌い出した。わたしとピグくんの声が重なり合い、そしてまた、別の声も混じり合う。
それがイシュタルの声だと気づいた時には、次、また次と混ざり合う声が増えていき、そして――。
「――――!」
歌い終わってゆっくりと目を開き、わたしは目の前に広がる光景に驚く。
何故ならわたし達以外誰もいなかった筈の神殿に、たくさんの召喚獣がわたしを中心に輪になって集まっていたからである。
その輪の真ん中で、わたしの目の前にいたイシュタルの声が頭の中で響いた。
『不思議です。どんな歌だったのか、ついぞ思い出せなかったのに、自然と口が動きました。私達のかけがえのない記憶、思い出させてくださり感謝します、リリス様。……いいえ、女神リリス』
そう言ってイシュタルがわたしに向かって首を垂れる。すると他の召喚獣達もそれに倣うようにして、次々とわたしに頭を下げていく。
「イシュタル、みんな……」
リリス・アリスタルフが絶対に見ることのない光景。それに戸惑いながらも、感じることが一つあった。
それは長い長い時を経て、誰もが当時とは姿かたちが異なっていても、今この瞬間だけは、確かにわたしは〝女神〟であり、彼らは〝天使〟だということである。
――パチパチパチ。
「!!」
そこで唐突に頭上から拍手の音がして、わたしはハッと空を仰ぎ見る。
すると夜空に純白の大きな羽根を羽ばたかせ、舞い降りてきたのは――……。
「なんだか懐かしい歌が聞こえると思ったら……。どうしたの、リリス? こんなところまで来て」
もうすっかり聞き慣れてしまった飄々とした声。
だけど場違いな程にのんびりとした様子に、ずっと再会を待ち望んでいた筈のわたしの肩の力がどっと抜けていくのを感じた。