神の御使い
※前半アダム視点、後半ルナ視点
――遠くで誰かの声が聞こえる。
俺は、どうなったんだろう……。
あの時――、
突然犬型の魔獣が肥大したかと思うと、そこから不気味な二つ頭の化け物が現れて、俺は周囲が一目散にコロッセオから逃げ出すのをかき分けながら、無我夢中でリリスの元へと向かったんだ。
そして俺が逆流する人の流れに何度も押し戻されながらやっとの思いで観覧席の最前列へと辿り着いたのは、ちょうど観覧席より中に張られていたという結界をエルンスト様が壊した頃だった。
左脚を引きずるリリスの姿が目に飛び込んできた瞬間、考えるより先に体がリリスの方へと動いていた。
エルンスト様の俺を静止するような声が聞こえたが、そんなもの関係ない。
俺は、あいつのところまでがむしゃらに走って、走って。
「アダム!!」
初めて見たリリスの、今にも溢れそうな涙を堪える表情。
今までどんなに辛いことや苦しいことがあったって、いつだってこいつは傷ついた顔を絶対に人には見せようとはしなかったのに。
そんな表情をされたら、抱きしめたくなってしまうじゃないか。
しかし今はそんな場合じゃないと、己を叱咤する。とにかくあの化け物からリリスを引きはがさなければならない。
俺はリリスに肩を貸そうとして屈んで、
「アダムッッ――――」
それからすぐに、聞いたことのないようなリリスの絶叫が耳に響いた。
「っ……!?」
ハッと混濁していた意識が一気に浮上する。働かない頭で周囲を伺おうと考えるが、目は霞んでよく見えない上に、体がまるで金縛りにでもあったように動かない。
それでも無理矢理に身を起こそうと体に力を入れた瞬間、あり得ないほどの激痛が背中に走って、額に脂汗が滲んだ。
……そうだ、俺は化け物の攻撃をモロに背中に受けたんだった。
一度自覚すれば、先ほどまでは感じなかった傷の痛みがジクジクと俺を苛み始める。
俺はこのまま死ぬのか?
リリスはどうなったんだ?
瞼を閉じれば最後に見た泣きそうなリリスの顔が浮かぶ。
周囲はいやに静かだ。さっきまでは聞こえていた声も、今は何も聞こえない。
リリスは近くにいないのか?
それとも――……。
嫌な想像が頭を駆け巡り、心臓がバクバクと脈を打ち始める。
――と、その時、頬を何かに舐められる感触がした。
その感触はとても懐かしく、覚えがある。
ああ、これは……。
「……ピグ?」
「キュ」
俺の問いに答えるようにピグが鳴いた。俺に甘えるように、何度もペロペロと頬を舐めてくる。
その元気そうな様子に俺はホッと息を吐いた。
「……よかった。お前が無事で」
撫でてやろうと、痛む体を少しずつ動かし、体勢を変える。目の霞が少しずつ回復し、視界も徐々にはっきりしてきた。
――そして、そこで俺は見たんだ。
リリスを大事そうに腕に抱えた、純白の羽根を生やした男を。
そして俺とそう年の変わらなそうな見た目のその男が右手を化け物へとかざした瞬間、化け物が一気に光の粒子になって跡形も無く消えていった姿を。
* * *
光の粒子が完全に天に還ったのを見届けた後、僕は腕の中のリリスを抱え直し、もうこの場所には用はないので行こうと、出口の方へ振り返る。
すると振り向いた先には、肩まである金髪に濃い青色の瞳の背の高い男が立っていた。
背に神龍を従えたその男は警戒心を露わにしており、僕を鋭く見つめて低く問いかけてくる。
「――妹を、どこに連れて行く気だ?」
「見たらわかるでしょ、医務室だよ」
リリスの痛々しい左脚を視線で示せば、男――リリスの兄、エルンスト・アリスタルフは、とても分かりやすく顔を顰めた。
「ならばリリスは私が運ぼう。得体の知れないお前になど、大事な妹を任せられない」
「得体が知れないは心外だなぁ。僕は正式なリリスの召喚獣だよ。リリスが僕を召喚するところを、君もしっかり見たんでしょう?」
「…………」
僕がそう言うとエルンスト・アリスタルフは押し黙ってしまった。しかし、無言は肯定だ。
これ以上無駄な問答を続けて、リリスの手当てをするのが遅れるのが嫌だったので適当に話題転換することにする。
「ねぇ、それよりそっちの彼、早く手当てしないとヤバイんじゃない?」
顎でしゃくって背後に血塗れで転がっている濃い栗毛色の髪の少年を差し示せば、エルンスト・アリスタルフはハッとしたように少年へと駆け寄って行った。
それをちらりと視界に入れた後、僕は背を向けて足を踏み出す。するとまた後ろから、「待て」と声がかかった。
「何? 僕しつこいのは嫌いなんだけど」
「……頼む、一つだけ教えてくれ。お前は〝リリスの神託に出てきた神の御使い〟なのか?」
「神託? 神の御使い? ――さぁね、知らない」
「…………」
僕が振り向かずに肩をすくめてそう言うと、エルンスト・アリスタルフは明らかに納得出来ないという雰囲気を出した。
でも悪いが僕は君にそれを言うつもりはない。
だってそれは、リリス自身が辿り着かなきゃならないことだから。
だから僕は振り返らない。
そんな僕をもう、エルンスト・アリスタルフは呼び止めなかった。
=神の御使い・了=
次回『夜を照らす月の光』