リリスとルナの夏休み 14
「うう……」
「そんなに緊張なさらなくて大丈夫ですよ、お嬢さま。旦那様はお優しい方ですから」
「ううう……、だって……」
父様の書斎で待つ間、革張りのソファーにルナと並んで座ったわたしは、そわそわと落ち着かなかった。
紅茶と焼き菓子を運んできたマリアに何度も大丈夫だと宥められるが、それでも胸の騒めきは収まらない。
――バタバタバタ
「!!」
すると扉の向こうから慌ただしい足音がして、わたしの心臓が跳ねる。
そして次の瞬間ギィっと扉が開き、父様が少し疲れた様子で現れた。
「すまない、待たせたな。町の被害状況を確認していて遅くなってしまった」
言いながら父様がわたし達の向かいのソファーに座り、溜息をつく。
「旦那様、紅茶をどうぞ」
「ああ、ありがとう。いつもすまないな、マリア」
そんな父様の前にマリアがスッと紅茶を置き、そのまま部屋から退室しようとしている彼女の背中に、父様が声を掛けた。
するとマリアはにっこり笑って、
「いいえ。私のことなどよりも、お嬢さまに声を掛けてあげてくださいませ。此度の騒動の最中、アリスタルフ家のご令嬢として、お嬢さまは本当に立派だったのですから」
「……あ」
キッパリと言い切るマリアに父様が何事かを言おうとするが、その前にマリアはパタンと扉を閉めてしまった。
「…………」
それに一瞬場が気まずい空気に包まれるが、わたしは意を決して恐る恐る口を開いた。
「あの……、町の状況はどんな感じだったのですか?」
「あ、ああ。家屋や領民に被害は無い。それは安心してくれ。あれ程巨大な竜巻だったにも関わらず、被害は祭り用の備品が壊された程度だった。……あの人魚は元より人間を傷つける気はなかったのだろうな」
「……そうですか」
そんな気はしていたが、実際にみんなに被害は無かったと聞けてホッとする。
『ワタシ達は人間と共存することを望んでいるのだから』
あの言葉は紛れもなく彼女の本心だったのだろう。
「彼女との約束は、どう守るおつもりなのですか?」
「浄化魔法が使える召喚獣を領地のみならず国中から集め、源泉の浄化は直ちに行うつもりだ。既に王宮にはエルンストを通して申し伝えてある。人々は……私自身も含めて、意識を変えねばならぬ転換期ということだろう」
「…………」
「私はずっと、家族を顧みず仕事に打ち込んできた。……領主として領民が豊かに健やかに暮らせれば、それは家族の幸福にも繋がると、そうただ逃げているだけの自分を正当化して」
「父様……」
ぐっと目の前に置かれた紅茶を飲み干して、父様は続ける。
「しかし結局は急激な発展と引き換えに、領民を危険に晒す結果となってしまった。全て私の独りよがりが招いたことだ。……本当に愚かなことだ」
「…………っ」
俯き、手を膝の上で組む父様の表情は見えない。それに今わたしは、無性に悲しさを覚えた。
ずっと物心のついた頃から碌に顔を合わせず、話さず。〝父〟というよりも、もっと遠い人だった父様。
きっともっと冷酷で、人のことなんて全く考えない人なのだと。そんな人だからわたしを見てくれないのだと、ずっとそう思っていたのに。
「――どうして」
どうしてこんなにも弱々しく見えるのだろう。
「ん?」
「どうして父様は、家族を遠ざけていたのですか……?」
「…………」
尋ねる声が震えているのを自覚する。ずっと聞きたくて、でも聞けなかったこと。
でも、今なら聞くことが出来る。わたしは一人じゃない。
隣にルナが居てくれる。
だから、大丈夫。
「……神託のことは、エルンストから聞いたな?」
「はい」
その言葉にわたしが頷くと、父様はおもむろに立ち上がり、窓の前で後ろ手を組んで立った。
そしてわたし達に表情を見せぬまま、ポツポツと話し始める。
「――神託を受けたあの日から、私はリリス、お前の顔を見るのが恐ろしくて堪らなくなった」
「!」
「生まれた時にあれほど愛おしさで胸が詰まったんだ。このままお前の成長を真近で見守り続けても、ある日突然、神の御使いによって命を散らす。そうなってしまえば私自身の心が壊れると、私は娘よりも家族よりも、自身の心を守ることを優先したんだ」
「…………」
父様の言葉に膝の上に乗せた両手をぎゅっと握りしめる。
夜の魔女の企みによって降された神託。
それはやはり父様にも、多大な影響をもたらしたのだろう。それはその苦しそうな後ろ姿を見れば分かる。
「しかしそんな弱い私とは、お前の母――シルビアは違った。シルビアは赤子だったお前を片時も離さず腕に抱き、愛おしげに微笑んでいた。……それが変わったのはリリス、お前の髪が黒に染まり始めた頃だった」
「……っ!」
じわりと頭を過ぎる母様の姿に、わたしの胸がドクリと音を立てた。
「シルビアはリリスの金髪がくすみ始めた時、初めて涙を流した。それでもお前に注ぐ愛に変わりはなかったが、心は限界だったのだろう。次第に体調を崩しがちになり、一日の大半を一人で部屋で過ごすようになった。……これはお前も知るところだろうが」
「……はい」
もちろん。嫌と言うほど、よく知っている。
「だが私はシルビアに手を差し伸べることはしなかった。今まで家族のことも、リリスのことも顧みなかった私が彼女を心配する資格があるのかと、子供のような言い訳を並べて逃げていた。そうして次第に誰も私に寄りつかなくなった。シルビアもエルンストもリリスも。……私が拒絶したのだから、当然なのだがな」
「父様……」
きっと父様は今、先ほどの川の源泉で見せたような泣き笑いの表情をしているのだと、背を向けていても分かった。
「――――……」
向き合うと決めたのに……言葉が出ない。
だって家族が崩壊した原因であるわたしが、今更何を言ったって、何も変わらないんじゃないのだろうか?
わたしはもうこれ以上、父様も母様も苦しめたくない。
「…………」
ネガティヴなことばかり頭に浮かんで、口を開こうとしては何度も閉じてしまう。
「――――っ!」
するとそんなわたしの膝の上に置いた手に、温かい馴染んだ体温が触れた。
ハッと見れば、ルナが〝頑張れ〟と目で訴えている。
『もし君を傷つけるようなことを君の父が言うのなら、僕は君を抱えてすぐに寮まで帰るよ。だから大丈夫。――向き合うって決めたんでしょ?』
そうだった。何かあったら、すぐにでもルナがわたしをここから連れ出してくれる。側に居てくれる。
もう一人じゃないってとっくに理解してるのに、また弱気になってしまった。
ルナの視線に応えるように頷いて、わたしは父様の背中を見る。
そして――。
「……父様、わたしの話を聞いて頂けませんか?」
わたしはそう、静かに切り出した。