リリスとルナの夏休み 12
思いがけずルナを覚えている存在と出会えたことに嬉しさを感じつつ、わたしは虹色の吸い込まれそうな光彩をした人魚の女性の瞳を見つめる。
「えっと……、じゃあ貴女のことは〝人魚さん〟って呼んでいいかな? わたし達のことを知っている貴女が、わたし達をここへ呼んだ二つ目の理由を教えてくれる?」
『……はい』
わたしが問いかけると、人魚さんが神妙な面持ちでコクリと頷いた。
『二つ目の理由は、この地を元の清い地に戻してほしいからです。――見ててください』
「えっ!? 人魚さん!?」
人魚さんが抱えていたピンクのイルカをそっと岩場に下ろし、自らはポチャン!と音を立てて源泉の淀んだ水の中に入る。
それにわたしは慌てて声を上げるが、しかしすぐさま彼女が念じるように両手を水面にかざすと、ぷかぷかと水面に浮いていたゴミがスーッと消えていったのだ。
「わぁ……! なぁにこれ、すごい! どうやってるの!?」
「浄化魔法だね。でもあまりに淀みが酷いせいで、浄化が追いついていないようだ」
「え……」
ルナの言葉にハッと源泉を見れば、確かにゴミは綺麗に消えてしまったが、肝心の淀んだ水の状態はあまり変わっていない。
「……どうしてこんな……。町に多くの人が訪れるようになったせい……?」
『はい、そうなのです』
わたしの呟きに人魚さんが頷く。
『この地はここ数年で瞬く間に水が濁り、空気は淀んでいきました。ワタシ達は清らかな水でしか生きられません。今まではこの浄化魔法でなんとか凌いできましたが、それもそろそろ限界が近いです。しかし常に住処を追われる恐怖と隣り合わせであっても、ワタシ達ではその声をあげる術を持たない。だからこそ全ての生き物の声なき声を聞く、貴女にお願いしたいのです』
「…………」
人魚さんの言葉に改めて周囲を見回す。
ずっとこの場所に帰って来た時からどことなく感じていたもの。
「人の生活によって自然が汚されて、貴女達は生きる場所を失いつつあるのね……。じゃあ漁船に魔法を掛けたり、その子が地上で倒れてたのもそのせい?」
『はい。この地の変化に気づいてほしくて、わたしが封印魔法を掛けました。そして坊やは……』
「クーン?」
人魚さんが悲しげに目を伏せると、水のボールに入ったピンクのイルカが不思議そうに首を傾げた。
『坊やは元々魔獣の中でもことさら弱い個体でした。汚れた水では呼吸もままならないのです。それで度々清らかな水を求めて浮上していました』
「そんな……。じゃあこの子は綺麗な水を求めて、地上に乗り上げてたってこと?」
『……それもありますが、それだけではありません。実は、今の坊やは――』
「――――っ!!」
言い淀みながらも紡がれる彼女の言葉に、わたしは目を見開き、手をぎゅっと握りしめる。
するとルナが心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「リリス? 彼女に何を言われたの? 顔が真っ青だよ」
「ル、ルナ……。この子、すでに実態を失っているんだって。それを人魚さんの魔力で無理矢理ここに残しているって……。昨日地上で倒れていたのは、その魔力が尽きかけていたからみたい……」
「……そっか、やっぱり……」
ルナが何か納得したように頷くので、わたしは俯いていた顔を上げる。
「やっぱり?」
「うん、その魔獣には君の女神の力が効かなかったでしょ? そんなこと本来あり得ないんだ。――実態ある生命なら。昨日彼女の魔力なしに意識を取り戻したのは、僕が与えた水のボールを吸収したからだろうね」
「……っ! そんな、そんなことって……」
もしわたしがもっと早く帰ることを決断していたら、故郷の変化に気づけていたのだろうか?
そしたら、彼女達がこんな風に苦しむこともなかったのだろうか?
頭に浮かぶ〝もしも〟にぐっと胸が苦しくなる。
「クーン?」
「!」
――するとその時、ぷわぷわと水のボールで浮いたピンクのイルカが、くりくりとしたつぶらな瞳でわたしを覗き込んできた。
「クーン、クーン!」
「君……」
まるでわたしを慰めるように何度も鳴く姿に涙が溢れそうになるが、そんなわたしの背をルナがそっと撫でた。
「リリス。君が心を痛めるのは分かるけど、自分を責めてはいけない。大事なのは彼女の願いをどう叶えていくか……でしょ?」
「ルナ……。うん、そうだね」
零れた涙を拭い、ルナに頷いて、そっと水のボールに包まれたピンクのイルカを抱きしめる。
そしてわたしは真っ直ぐに人魚さんを見つめた。
「もうこんな悲しいこと、絶対に起こさせない! 貴女の願い、わたしが叶える! まずは人魚さんの声をみんなに届けなきゃ! 何より、この地の領主である父様に――……」
「――その必要はない」
「!!?」
唐突に低く落ち着いた声が背後から響き、ざわっと胸が騒ぐ。
何年会わなくても頭にこびりついたこの声。見なくとも声の主が誰なのか分かる。
それでも恐る恐る振り返れば、やはり予感は的中した。
金色の刈り込まれた短い髪に金茶の瞳。
顔にはくっきりと皺が刻まれ、厳つく見える表情を更に強面に見せる。
そんな強面の顔が一切の表情を変えることなく、わたしを見て口を開く。
「久しいな、リリス」
「と、うさま…………」
――そう。目の前に現れたのは、わたしの父、ハイネ・アリスタルフ。
そしてこれが、約十年振りに交わした父様との会話だった。