リリスとルナの夏休み 1
――タタンタタン
列車が揺れる心地よい音がする。
車窓から見える景色は賑やかな王都の街並みから、今はのどかな田園風景へと変わっていた。
この先にある筈の大きな湖が見えてくれば、そろそろだろうか?
近づくにつれ、心がざわつき落ち着かなくなってくる。
何しろ学園に逃げるように入学してからは一度も帰らなかったのだ。
今更帰っても迷惑がられない?
もうわたしの居場所なんてないのでは?
ぐるぐるとネガティブなことばかり考えてしまう。
首を横に振り、外の空気を吸って気分を落ち着かせようと窓の鍵に手をかけた時だった。
「――リリス」
向かいに座っていたルナが、わたしの空いている方の手をぎゅっと握る。
「何があったって僕がついてる。そう言ったでしょ?」
「うん……」
落ち着かせるような柔らかな声色に、揺れていた心が穏やかになっていく。
そうだ。わたしはルナがいるからこそ、ずっと躊躇っていた実家への帰省を今年はすることに決めたのだった――。
* * *
「――リリス、今年は家に帰省しないのか?」
ことの始まりはこんな兄様の一言からだった。
夏休みに突入した最初の週。
学園長に仕事の報告をしに来たついでに、わたしの寮を訪ねてきた兄様を招き入れた開口一番がそれだったのだ。
「え? 行かないけど……。兄様はどうするの?」
「私の方は未だ例の騒動の後処理で慌ただしいからな。流石に今年は帰省出来そうも無い。リリスはずっと家に帰っていなかっただろ? 私が帰る度にマリアからお前は帰って来ないのかと、せっつかれて堪らなかったからな。久々に顔を見せてやったらどうだ?」
「そう、マリアが……」
「?? 〝マリア〟って?」
「えっと、マリアっていうのはね――」
わたし達の話をソファーに座って聞いていたルナが、興味津々に身を乗り出して問いかけてくる。それにわたしはマリアのことを思い浮かべて、ポツポツと話し出した。
――マリア。
彼女はわたしが魔法学園に入学して実家を出る前までの間、世話付きだったアリスタルフ家の侍女である。
年齢が5歳しか違わないこともあり、侍女というよりは世話焼きのお姉さんみたいで、家族との関係が芳しくなかったわたしは、彼女を本物の姉のように慕ってとても懐いていた。
学園に入学して寮生活になった際も、わたしが一通り身の回りのことを自分で出来るまで、マリアも共に寮生活していた時期もあるほどだ。
確かにマリアには会いたい。
でも、あの家で過ごした時間は今でも辛く、どうしても帰るのは気が進まなかった。
「…………」
話している途中で言葉に詰まったわたしを見かねたのだろう。兄様がわたしの頭をポンポンと撫で、こちらを覗き込んでくる。
「リリス、お前の気が進まないのなら無理にとは言わない。マリアもお前が辛い顔をするのは見たくないだろう。ごめんな、余計なことを言った」
「う、ううん! 余計だなんて、そんなこと……!」
行きたくないと思っていたのに、いざ兄様からそう言われてしまうと、本当にそれでいいのかと胸がモヤモヤしてしまう。
わたしを見ようともしなかった父と、わたしが成長していくにつれて心を病んだ母。
二人が決してわたしを愛していなかった訳じゃなく、原因は〝神の神託〟にあったことは、先の夜の魔女を巡る一連の騒動の中で理解した。
けれどだからと言って、幼い頃のトラウマが消えた訳じゃない。
やっぱり二人と顔を合わせるのは……怖いのだ。
だけど時を経てわたしと兄様が〝兄妹〟になれたように、父様や母様とも今なら家族になれるのではないかと淡い期待をしている自分も確かに居て、結局自分でもどうしたいのか分からない。
心配そうな表情の兄様になんと言っていいのか考えあぐねていると、
「えー! 僕リリスの家に行ってみたいよ! ねぇリリス、行こうよ!」
「え、えっと……」
気まずい空気を散らすように、ルナが楽しげにそう言い出した。
それに対してとっさに言葉が浮かばず戸惑うが、わたしより先に兄様が「おい、ルナ!」と声を荒げた。
「お前は我が家の事情をよく知らないのかも知れないが、私達家族は一般的な家庭とは少々事情が異なるんだ。行った先でリリスが辛い思いをするのはお前も本意じゃないだろう? だからあまりリリスを困らせるようなことは……」
「だからでしょ?」
「――え?」
楽しそうに声を弾ませていたルナが、不意に真顔になってそう言う。
「リリスは今その辛い思いを押し切ってでも現状を変えたいと思っているからこそ、困っているんだ。だったら僕は後悔しない為にも行くべきだと思う。それにもしリリスが辛い思いをしたとしても、味方になってくれるマリアって人がいるんでしょう? ――何より、リリスには僕がいる」
「あ……」
ルナの言葉に視線を合わせると、ルナはわたしを見て優しく微笑む。
その笑顔を見ていると、先ほどまで感じていた恐怖がどんどん和らいでくるのを感じた。
そうだ。わたしはもう昔のような落ちこぼれじゃない。
過去と向き合うのは、〝今〟なんだ――。
「――兄様」
わたしは兄様に視線を戻して、ぎゅっと両手に力を込める。
「わたし、やっぱり家に帰るよ」
「リリス」
「ルナの言う通り、きっと今行かないと後悔すると思うから……」
「――――」
わたしの決意した瞳を見て兄様はひとつ息を吐き、そしてふっと笑みを浮かべる。
「そうか。お前がそう決めたのなら私はお前の意思を尊重する。――なあリリス、父上と母上の態度ついて少しだけフォローさせてくれないか?」
「え?」
わたしが首を傾げれば、兄様がポツポツと話し出した。
「父上と母上はリリスが生まれた時、それはもう大喜びだった。家の中は女の子用の服やおもちゃで溢れかえっていて、私が子供心にヤキモチを妬くぐらいにはな」
「…………」
「しかし二人の様子は、ある日を境に一変した」
「――――〝神の神託〟……」
ポツリと呟くと、兄様が神妙に頷く。
「そうだ。神託を受けて以来、父上は家族と関わろうとはしなくなったし、母上はいつも泣いていた。だが当時の私は神託が何なんだと思った。そんなもの跳ね除けてしまえばいいと。だから私は長年リリスを神の御使いから守る術を探していた」
「兄様……」
「だけどあの人達は、そう思えなかったんだろう。それを心が弱いと断じるのは簡単だが、しかし私も今になって二人の気持ちが分かるような気がするんだ」
「――え?」
意外な言葉に目を瞬かせると、兄様がふっと眉を下げて笑う。
「リリスと過ごし、こうしてリリスを知れば知るほど、お前に万が一が起きてしまった時を想像すると私は立ち直れなくなる。きっと、父上と母上も同じ気持ちだったのだろう」
「…………」
何も言えず俯くわたしの頭をまたポンポンと撫で、兄様が言った。
「――なぁリリス。あの人達と向き合おうとしてくれて、ありがとう」