天高く届くは女神の抱擁 16
遠くで誰かがわたしを呼んでいる。
「……ス」
誰?
「…………リス」
誰なの?
「――リリスッ!!!!」
「!!?」
唐突に耳元で大きな声で叫ばれて、わたしは驚き飛び上がった。
「……え……?」
「キュ!」
「!?」
すると驚くわたしの視界いっぱいに大きくピグくんが映って、思わずギョッと目を白黒させる。
「大丈夫? リリス」
そこで誰かの手がスッと伸びてきて、わたしの胸元にしがみついてたピグくんがそっと持ち上げられる。それを目で追いかければ、ちょうどルナがわたしの前に片膝をつくところだった。
その背後には女神リリスの神殿跡が見えるので、どうやらわたしはここで倒れていたようだ。
「あ、ルナの姿……戻ってる……」
改めて視線を神殿からルナに戻せば、夜の魔女に取り憑かれて変貌してしまったあの禍々しい姿はすっかり消え去って、いつもの真っ白で美しいルナに戻っている。
「うん。リリス、君のお陰だ。君が僕の中に閉じ込めていた夜の魔女を救い上げて一体化したことで、僕は元の姿に戻れた」
「そっか、よかった……。でも一体化??」
ハッとわたしは自分の胸に手を当てる。
すると感じるのは、女神リリスの力ともう一つ。
これは、夜の魔女……いや、リィの力だ。
どうやら無事に、彼女はわたしの心の隙間とやらに入れたらしい。
「……リィ、いっぱい泣いてたわ。まるで幼い子どもみたいに」
わたしがポツリと呟くと、ルナが静かに頷く。
「そうだね。夜の魔女の言葉にならな孤独、悲しみ。それは分かっていた。女神リリスだって……痛いほどに」
「…………」
「でも、僕らでは〝理解〟はしても、〝共感〟は出来なかった。そんな傷だらけだった魔女の心を、リリスが癒したんだ。……本当に、君は凄い。天使は愚か、神ですら成しえなかったことを、君は成し遂げたんだ。僕は君の召喚獣であることを誇りに思うよ」
「ルナ……」
サワサワと草原に柔らかな風が吹く。妙に眩しいと思って空を見上げれば、もう夜明けだった。
ふらつく足をしっかり地面に踏みしめて、わたしはゆっくりと立ち上がる。
「……っと」
するとくらりと少々立ちくらみがして後ろに倒れ込みそうになるが、トンと何かに背中を支えられて事なきを得た。
『ご無事ですか? リリス様』
「あ、イシュタル……」
振り返ればイシュタルが心配そうにわたしの背をそのにょろりと長い体で受け止めていて、わたしは慌てて今度こそしっかりと立ち上がる。
「ごめんね、体に寄っかかっちゃって。助けてくれてありがとう、イシュタル」
『いえ、ご無事ならそれでいいのです。しかしリリス様、貴女様は夜の魔女の力をその身に全て受け入れたのです。無理はなさらず、完全に体に馴染むまでは安静にしていてくださいね』
「あ、はい……」
龍なので表情こそ変わらないが、その声色は有無を言わさぬ圧があり、わたしはコクコクと頷く。
もちろん心配故の言葉だとは分かるんだけど、こういうちょっと強引なところ、兄様に似てるかも……。
そんなことを考えていると、わたし達の隣で成り行きを見ていたルナがクスクスと笑い出した。
「ふふ、リリス。イシュタルに小言でも言われたかい?」
「!! 正にそうなの! なんで分かったの!? イシュタルの声、ルナには聞こえないんでしょ?」
「聞こえなくても分かるよ。イシュタルが天使だった頃の階級は〝智天使〟。女神リリスのお目付け役で、いつも彼女に何かと小言を言っていた」
「お目付け役……、ああ」
確かにイメージピッタリかも。あれこれと女神リリスを心配しているイシュタルの様子が、今にも目に浮かぶようだ。
「……でもそっか。だから兄様は、〝わたしの兄様〟になったのね」
兄様は『わたしの力になる為に兄として生まれてきた』と言っていたけど、本当にずっとわたしを見守ってきてくれてたんだ。
――天使だった頃も、人間と召喚獣に別れた後も。
イシュタルにわたしを乗せて天へと送り出してくれた時の姿を思い出して、胸がじんと熱くなる。
「そういえば、他の召喚獣達はどうなったの? 無事かな?」
キョロキョロと周囲を見渡せば、いつの間にかわたし達以外誰もいなくなっている。不安になってルナに問いかければ、ルナはピグくんを地面に下ろしながら、「もちろん無事だよ」と頷いた。
「彼らには傷ひとつ付いていないよ。まだ神の楽園に居るか、召喚士の元に居るだろう。彼らはみんな天使だった頃の自分を忘れている。リリスの歌を聞いて、一瞬でも過去を思い出したことの方が不思議なんだ」
「そうなんだ……」
折角みんながルナのことも思い出したのかと期待したから、ちょっと切ない。
けれど同時に、これでいいのかも知れないとも思う。
もう彼らは天使じゃない。召喚獣なのだ。
既に新しい生を生きている。
それはきっと、ルナも。
そしてわたしも――――。
「……完全に夜が明けちゃったね」
ルナがすっかり高く昇った太陽に視線をやり、眩しそうに目を細めた。
「うん、兄様達どうしてるかなぁ? ふぁ……、流石に眠くなってきた……」
「人間は一日でも眠らないと調子を悪くしてしまうからね。ものすごく疲れたでしょ? すぐに地上に戻ろう」
「ん……」
わたしはうつらうつらとする目をこすって、こちらを見て優しく微笑むルナを見上げる。
「……ねぇルナ、戻る前にちょっとだけワガママ言っていい?」
「? もちろん。リリスのワガママなら、僕はなんでも喜んで聞くよ」
「なら――……」
そっと手を伸ばして、ルナの腕に触れる。
「抱きしめてほしい」
穏やかな静寂にわたしの声がよく響き、ルナの肩がピクリと揺れ動く。それをぼんやりと見つめていたら、ゆっくりとわたしの背にルナの両腕が回された。
わたしもぎゅっと腕を回せば暖かく、胸に頬を寄せるとルナの鼓動を刻む音がする。
「ふふっ、めちゃくちゃドキドキしてる」
「当たり前でしょ。好きな子に好きって言われた上に、こんな可愛いワガママまで言われたんだ。ドキドキしない訳ないよ」
素直な言葉に、わたしの口からは自然と笑みが零れる。
ちょっと緊張したような反応を見せるルナは初めてで、今までで一番人間っぽく、より近くに感じられた。
「…………」
瞳を閉じて考える。
起こってしまったこの一連の騒ぎは、多くの人の運命を変えてしまうのだろう。
そう思えば、きっとこんな風にルナが戻って来たことをただ喜んでいるのは、いけない事かも知れない。
でも今は、今だけは――。
「おかえり、ルナ……」
ようやく手にしたこの温もりを、ただ感じていたかった。
=天高く届くは女神の抱擁・了=
次回『双子の夜の女神』