日直のお仕事
無名崎高校は、学区内でも平均的な成績で入れる高校だった。
無名崎というのは地名だったが、現在から過去まで、このあたりが『みさき』であったことはない。
「……もっとも、歴史に記されていないほど古い時代、ここに海があったかはわからないがな」
と、一人の男がそう言った。
その男は学生服を着て天井を見上げていた。
男は、この無名崎の生徒で、鈴木万慈という。
「万慈。今の何? 突然、誰に言っているの?」
横に座っている女生徒は、宮藤静香といい、万慈の幼馴染だった。
肩につくかつかないか、といった長さの髪が、軽く揺れる。
鈴木は手を合わせて謝る。
「今のは本当にすまない。きっと、天の声と対話したんだ、と思う」
「そうなると私には、もっと訳わからない」
宮藤は両手を広げ、お手上げ、といった風に肩をすぼめた。
万慈たちのクラスは、朝のショートホームルーム前の時間で、何となく教室内に集まってはいるものの、各々が好き勝手に立ったり、座ったり、私的な話をしていた。
『断る!』
大きな声が廊下から聞こえてきて、教室内が静まり返った。
万慈が、ボソリと言う。
「今の、竹の声だよね」
竹とは『竹敏志』というクラスメイトのことだ。
「そんなの全員がわかってるの。改めて確認する人は、クラスに溶け込めてない万慈だけよ」
「そう? やっぱり?」
すると、さらに廊下から語気強めな声が聞こえてくる。
『おとなしく引っ込めばいいのに、絶対お前になんか投票しねぇからな』
『お前の票なんかなくたって当選する』
『なら、立候補出来なくしてやる』
廊下側は壁で窓は、上下の採光用のみ。教室から誰が廊下にいるか、顔を見ることは出来ない。
「声的に、もう一人は、神部益雄だね」
「ねぇ、なんでそんなこと改めて口にするの? しかもフルネームで。さっきから変じゃない?」
鈴木は手の指を広げ、左右に振って打ち消すようにしながら言った。
「クドウちゃんなら知ってるでしょ? 俺、あんまり学校に興味がないんで、そういう質問、勘弁してよ。それと、後、さっき言ってた立候補って何のこと?」
「生徒会の選挙よ」
宮藤は呆れた顔でそう言った。
「へぇ、立候補してまで、ウチの生徒会、やりたがる人いるんだな? けどさ、神部が『立候補出来なくしてやる』って言ってたってことは、神部に相当な権限があるのかな?」
「口だけだと思うけど」
「口だけだったら脅しにならないじゃん。神部は、なんか重要なことを握ってるんじゃない?」
「うーん、推薦状…… かな。けど、推薦状はなくても立候補できた気がする」
宮藤は生徒手帳を取り出して、生徒会のことを調べている。
「……そうね。立候補を取り消すのは停学とかそういうことぐらいね」
「クドウちゃんの言った通り、『口だけ』ってことか」
「まあ、推薦状がないと『人望』が無いって思われるせいか、例年、推薦状が少ない側が負けているけどね」
万慈は宮藤の横に立っている女生徒が気になって、上の空で聞いていた。
「ちょっと、ちゃんと聞いてよ」
万慈が宮藤の横にいる女生徒に会釈をすると、ようやく宮藤もその存在に気づいた。
「えっ? アレ? 益子どうしたの?」
横に立っていたのは多田羅益子といって宮藤の友人だった。
「あのね……」
多田羅は何かを言いかけて止めると、笑顔を作って手を振り始めた。
宮藤は視線の先を追った。
「万慈。何やってんの?」
鈴木と多田羅が手を振り合っていたのだ。
「いや、多田羅さん可愛いよね」
鈴木は、そう言いながら、多田羅の足元から舐めるように視線を這わせる。
規定の靴下と、生足。膝下は細く、膝上からの膨らみが美しい。
スカートをヘソの上で履いているのだろうか。ウエストが高く見える。
制服なのではっきりないが、胸もありそうだ。大きくて少し垂れ目だが、二重だし、顔のバランスは取れている。前髪は左右に割って、後ろ髪はポニーテールにしている。
髪を縛るゴムは、リボンの形の大きめの飾りがついていた。
「ちょっと、ジロジロ見るのやめなさいよ。女性に対する態度が一々セクハラなのよ」
鈴木を見ている宮藤の視野の隅に、花村の姿が映った。
花村は口に手を当て、笑いを堪えているようだった。
「私、万慈くんの発言、気にしないから、こっち向いて?」
「そうね。無視無視」
宮藤は多田羅の方を向くと、多田羅は言う。
「あのね、井神が休んじゃって、日直私一人なの。静香、手伝って」
「うんうん、手伝う手伝う」
「何で万慈が手伝うとかいうのよ。私が頼まれたのよ」
「万慈くんが良いなら、万慈くん手伝ってくれるかな」
ガタっと椅子が動く音がすると、万慈が立ち上がった。
「ダメダメ、こいつ役に立たないから私が手伝うわ」
宮藤も立ち上がると、教室の前の扉が開いて、竹が入ってきた。
続いて、後ろ側の扉が開くと、神部が入ってくる。
二人とも怒りを隠せない様子で、再び教室がピリついた。
それを横目で見ながら、多田羅と宮藤、鈴木の三人は教室の前方へ進むと、日直の仕事を始めた。
黒板の傍の窓側には、備品の並んでいる机が置いてある。
日直はそれらに不足がないかチェックすることになっている。不足していたら、補充をするためだ。
多田羅がペンを持って読み上げる。
「チョーク白、チョーク赤、チョーク青、チョーク緑……」
「チョークはオッケー」
宮藤の返事を聴いて、多田羅が用紙にチェックを入れていく。
退屈そうに、鈴木は頭の後ろで腕を組んだ。
「セロテープ、マーカーペン、ハサミ、ホチキス、ホチキスの玉、メガホン」
宮藤が一つ一つを指差して確認し、最後にホチキスを開いて中を確認する。
「オッケー」
「静香、ありがとう」
「クドウちゃん、日直ってさ、男女ペアなところに良さがあると思わないかい?」
よく理解できないようで、宮藤は首を捻った。
「万慈くんて、そういうこと考えるんだ」
「俺は考えないけど、よく前日から盛り上がっている日直ペアの話をネットで見るから」
「前日にメッセージ送って、どれくらいで反応くるかな、とか。初めてLINKのアイディー交換するとか」
「日直を口実にして、その娘に電話してみたりとか、話すきっかけにしたりとか」
宮藤が口を出す。
「日直当日、一緒に登校したりとか?」
「それは静香と万慈くんだけでしょ。たまたま通学路が一緒な人は、滅多にないわよ。やっぱり、お隣同士って素敵ね」
「俺は多田羅さんとお隣同士が良かったな」
「マジ!? 感激!」
多田羅の声は裏返っていて、教室の注目を集めた。
「万慈の隣に住んでも良いことないわよ。万慈のお弁当作らなきゃならないし」
「ああ、例のオカズ弁当ね」
万慈はお米を炊くことはできたが、おかずを作る能力が絶望的に低かった。そこでライスは自分で炊き、おかずを宮藤に作ってもらうことを続けているのだった。
「じゃあ、今度から静香の代わりに、私が万慈くんのオカズ弁当を作る」
「多田羅さんが一緒にいれば俺、オカズいらないよ」
「万慈、それセクハラよ」
宮藤は、鈴木がお弁当のおかずと、違う意味のオカズを掛けた発言をしていると感じていた。
「私、全然気にしないんだけど」
鈴木の本当の意図がどうあれ、多田羅は気にしていなかった。
「ほら、本人が気にしないんだからセーフだぞ」
「私が許さないって言ってるの!」
「良い加減、席に戻ってくれるかな?」
黒板の傍にいた三人がびっくりした顔で、声がした方向を向く。
七三にバッチリ分けた髪から、整髪剤の匂いがしてくる。
担任の真岡だった。
三人が教室の方に向き直ると、クラスの連中は着席していて、三人をみてニヤニヤしている。
『も、申し訳ございません……』
三人は声を揃えてそういうと、各々の席に戻っていった。