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ブラックな聖女『終わっことは仕方がないという言葉を考えた者は天才ですね』  作者: ヨシムラ


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96 ラグナロク領域へ

大佐部隊を突破した直後、私はS王国の首都にあるカフェテラスに腰を下ろし、優雅さをまといながら、紅茶を口に運んでいた。

頭上に広がる空は雲ひとつなく、濃密な青が果てしなく伸び、その間を細く長い雲がまるで天空の道しるべのようにすうっと走っている。陽光は穏やかで、肌に触れるとほんのり温かく、風は軽やかに頬を撫でて通り抜ける。高台に敷かれた白い石畳のテラスから目を下ろせば、赤い屋根が斜面に向かって自由気ままに並び、その向こうではコバルトブルーの海が光を反射して果てしなく広がっていた。景色だけ見れば、誰だって息を呑むだろう。しかし――正直に言えば、退屈だ。


こんなにも美しい天気、こんなにも整然とした街並み、そして香ばしい紅茶の香り。なのに、どうしても胸がときめかない。私は昔から“優雅な気分”というものに縁がない女。いや、正確には、そんなものを楽しむ才能が根っこから欠けているのだ。


ふと、周囲の気配を探れば、店内の視線がじわじわとこちらに向かって集まっているのが分かった。空気がわずかにざわつき、客たちは距離を置くように席を固め、その視線の刹那に一瞬息を呑んでいる。その理由は簡単だ。可憐だの聖女だのと持ち上げられる私ではなく、向かいに座る黒マントに全身を包んだ存在――あの圧倒的な異彩を放つ存在――に注がれているからである。


そう――私は今、死霊(アンデッド)王と一緒に、まさにカフェテラスでお茶をしていた。


その骸骨の指が、静かに、しかし確実にカップへと伸びていく。金属の擦れる音も、骨の関節が鳴る気配すらもなく、白い指先は軽やかに紅茶を掬い上げている。湯気をすっと吸い込む仕草は、不可思議なほど自然であり、どこか優雅さすら増して見える。音もなく、しかし確実に飲むその姿は、通常ではありえないはずなのに、私の視線を釘付けにする。


「三華月様。後のことは藍倫様に任せておけば大丈夫です」


低く落ち着いた声が、場の空気をわずかにひんやりと冷やす。死霊王の言う“任せておけば大丈夫”とは、今まさに藍倫がS王国と折衝し、『スイカップ杯』を『Sカップ杯』に改名させようと奮闘している最中だ、という意味にほかならない。……とはいうものの、藍倫ならきっと結果を出してしまうのが怖ろしい。


藍倫は、ついこの前まで“機械兵討伐の順位:帝国第5位”に甘んじていた。それが今では地上世界で第4位、帝国では第2位にまで昇り詰めていた。わずか15歳でこの出世は異例どころか、もはや化け物じみている。信仰心が薄いこのS王国ですら、藍倫の政治的影響力は日に日に増しているらしい。


「三華月様へ、もう一つ報告があります。その藍倫様は、『大事な競馬場を潰そうとするとは、マジでなんて迷惑な人なんだ』と、苦々しそうに唸っておりました」


……どう聞いても、私が厄介者のようではないか。否定はできないにせよ。


次元列車が佐藤翔と接触した件でも、危うく大災害級の衝突に発展するところだった。それも藍倫の奔走によって、ぎりぎり事なきを得た。藍倫の英雄譚が、もしかしたら今まさに始まろうとしているのかもしれない。


「ところで、三華月様はこれからどうされるつもりなのですか」


死霊王の声は静かだが、ほんのわずかに空気を震わせる。私が動くときには、必ず戦いや厄介ごとが付いて回る――そのことを、彼は知っているのだろう。


「はい。帝国からの依頼で、七武列島へ物資を運ぶクエストを受注させてもらいました」


「現在、七武列島では漁獲業が1000年に一度の不漁に見舞われていると聞きました。物資不足は深刻だとか。しかし、なぜ三華月様が物資を?」


「先日、S王国から七武列島へ食料物資を送ったのですが、近海に出没している伐折羅海賊団に襲撃されたそうです」


「なるほど。そこで鬼聖女様の出番というわけでしたか。つまり、その商業船を襲っていた海賊団が、今度は三華月様の餌食になるわけですね」


……その言い方だと、まるで私が海の食物連鎖の最上位に棲む怪物みたいではないか。いや、まあ、間違ってはいないのかもしれないのだが。


———————


空一面を覆い尽くす分厚い雲が、月の光すら完全に呑み込んでいた。闇はまるで海そのものを飲み込むかのように深く、冷たく、重苦しい。

帝国旗艦ポラリス――全長300mの巨躯は、闇の波に押されるたびにわずかに身を傾け、その存在感を否応なく示している。甲板に立つと、湿った潮風が肌を撫で、熱を帯びた空気がまとわりつく。雨の前触れのような生温さが鼻をくすぐり、気配だけで湿った世界の息遣いが感じられる。


周囲は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。ただの静けさではない。肌の下を刺すような、不吉な気配が漂う。遠くからじわじわと押し寄せる、目に見えない圧力。姿は見えぬものの、背後から視線を刺されるような、居心地の悪さ。


S王国を出航してから、すでに12時間が経過していた。

甲板の周囲では魔導の精霊たちが淡い光を瞬かせ、夜の闇に昼間のような明るさを生み出している。しかし、その光が照らす先は、すべて深い闇だ。海と空の境界は消え失せ、世界はひとつの巨大な闇に丸呑みされてしまったかのようだった。


風は完全に止まり、帆を畳んだポラリスは潮の流れにただ漂うのみ。全長300m、幅30m、総重量20,000tの巨艦も、風がなければただの巨大な箱でしかない。


乗っているのは、私と――航海士兼操舵士として招かれた、最古のAIにして参賢者の一角であるペンギンだけだった。

ペンギンは足元で海面を覗き込み、静かに口を開いてきた。


「現在、旗艦ポラリスは、世界で最も危険とされる『ラグナロク海域』を航行中です」


その一言が船内放送として響いた瞬間、空気がびくりと揺れ、私の胸の奥がすっと冷えた。

まるで見えない刃が、背骨に沿って滑り落ちたかのような感覚だったのかもしれない。


地図にも記されぬ禁域、“ラグナロク領域”。

世界の古い記録には、かつて神々同士が正面から激突し、その余波だけで大陸が丸ごと吹き飛んだ戦場だと残されている。

生き物が足を踏み入れることすら許されない、最凶最悪の場所――とはいうものの、まさかその闇が、こうして自分の視界いっぱいに広がる日が来るとは、夢にも思っていなかった。


ペンギンは、七武列島へ向かう新航路を探す途中、偶然“次元の狭間”を発見したらしい。

未知の航路は、航海者にとっては勲章だ。良かれと思い、舵を切り、そのまま突き進んだ結果が――この有様である。

善意というものは、ときに命取りになる。まさに、その典型例だ。


「三華月様。ここが“あの”ラグナロク領域だとは、私も航行するまで気づきませんでした。しかし、歴史的価値からすれば、これは大発見かもしれません」


淡々とした報告口調。

だが、その内容を聞いた私の内心は、冷え切った海水の底に沈んでいく。


歴史的価値?

そんなもの、今の私にとっては塵ほどの意味もない。

ペンギンの判断は、安全な既存ルートを避け、わざわざ“神々の戦場”へ舵を切った。それだけの話なのだから。


海域に満ちる空気は、異様なほど重苦しい。

普通の迷宮や危険海域とは、根本的に質が違う。目に見えない圧力が、肌を、骨を、内臓を、じわじわと押し潰そうとしてくる。

呼吸をするたび、肺の奥でパチパチと小さな爆発音のような緊張が弾け、全身に嫌な痺れが走るのだった。


「ペンギンさんの功績は理解しました。とはいうものの……今回は安全な海賊ルートで、七武列島へ向かうようお願いします」


「三華月様。つまり、この領域から即座に脱出せよ、とお考えというわけですか」


「はい。そう願います!」


即答だった。迷っている時間はない。


「ふう……申し訳ありませんが、現在は風が完全に止まっております。従って、ラグナロク領域から出航する術はございません」


「ペンギンさん。つまり、風が戻るまで船は動かない……そう言いたいのですね?」


「はい、まさにその通りであります。しかし、今はそんなことより――」


「そんなことより? 何をそんなに慌てているのですか」


その問いかけに、ペンギンの喉がひくりと鳴った。

胸の奥に沈めていた恐怖が、耐えきれず声として溢れ出してくる。逆立つ羽毛、青灰色に強張った顔。

その異様な様子は、見ているこちらの背筋まで冷やすほどだった。


「三華月様……クラーケンという存在をご存知でしょうか」


「クラーケン……確か、伝説級の魔物でしたか。それが……どうしたというのでしょう?」


嫌な予感が、背中をなぞる。


「三華月様! 我々は、今、絶体絶命でございます! 笑えないほど危険です! 旗艦ポラリスは、複数のクラーケンに完全包囲されております。このままでは――一撃で粉砕、船は海の藻屑となる運命なのです!」


「ポラリスが……クラーケンに、取り囲まれているということですか」


「三華月様、どうか……どうかお助けください! この船では、クラーケンからの一撃に耐えることは、絶対に不可能であります!」


その叫びが、甲板全体に反響する。

クラーケン――ドラゴン級。

その単語だけで、心臓がぎゅっと締め付けられ、ひゅっと嫌な跳ね方をした。息を飲むたび、背骨を冷たいものが這い上がる。


私はゆっくりと空を仰ぐ。

濁った墨汁を流し込んだような暗雲が、幾層にも折り重なり、視界の果てまでどこまでも広がっていた。

昼と夜の境界が溶け合った空は、光を一切通さず、空気そのものが深海の冷たさを背負っているかのようだ。

鼻孔を刺す潮の匂いが、緊張をさらに濃くする。


ペンギンが私の脚に必死にしがみつき、震える声で叫ぶ。


「三華月様ぁ!」


ぬるり、と唾液が脚に張り付く感触。

一瞬だけ眉をひそめかけたものの、そんな些細な不快感など、今はどうでもいい。

1秒たりとも、無駄にできない状況なのだから。


迷いの入り込む余地はない。

息を吸う、その一拍すら惜しい。


私は運命の弓をスナイパーモードで召喚し、淡く光を放つ矢を静かに番える。

指先が弓に触れた瞬間、周囲の空気がピンと張り詰め、遠くで鳴っていた波音さえ、すっと遠ざかっていった。

静寂の中に、刹那的な緊張だけが濃く滲み出す。


「三華月様、どうか! クラーケン達を撃ち抜いてください!」


違う。

撃つべき相手は、目の前の彼らではない。


狙うのは、さらに遠く――厚い曇天の、その向こう側。

空の奥深くにある“月の位置”だ。

目には見えないが、微かな脈動のような気配が、確かにそこにある。

必要なのは、正確な座標ではない。突き破るだけの力、それだけである。


私は、ゆっくりと、しかし揺るぎない意思で弦を引いた。

3mを超える弦が、ギギギ……と重く軋み、空気が細かく震えていく。

その振動は指先から腕、肩へと伝わり、全身に鋭い杭のような緊張を打ち込んでくる。

限界が近いと告げる音が耳を刺し、世界が一瞬、完全に止まったかのような感覚に包まれた。


「クラーケンが船底に接触します!」


ペンギンの声は、もはや悲鳴だった。

甲板がざわりと揺れ、ギシギシと木材が悲鳴を上げる。冷たい海風が、容赦なく肌を打つ。

弓が限界を訴えるように微かに震え――


――突き抜けろ。


SHOOT――!


矢は閃光となり、音速を置き去りにして飛び出した。

白い尾を引きながら闇空を貫き、雲の層へ突入していく。

ジャイロ回転によって雲が激しく渦を巻き、巨大な筒状の穴が、空そのものを穿った。

閉ざされていた天の道が、たった一本の矢によって、強引にこじ開けられたのである。


裂けた空から、滝のように“月光”が溢れ落ち、一本の光柱となって私を包み込んでくる。

胸の信仰紋が、ふわりと脈打ち、身体の奥底から光がせり上がっていく。

存在そのものが宙に浮かぶような感覚。

たとえドラゴン級の群れが1万体並んでいようとも、恐怖など微塵も残らないほどの力が満ちていた。


――そう。

神域に、片足を踏み入れるところまで、力が到達したのであった。


「……ぎりぎり、生き残ることができたのだろうか」


スキル《真眼》が起動していくと、視界は一気に拡張され、漆黒の深海、その最奥まで突き刺さるように見通せるようになった。

そこに蠢く巨大な影――クラーケン達が、鋭い眼差しでこちらを睨み返している。

刃物のように研ぎ澄まされた視線が、肌に突き刺さり、思わず呼吸が細くなる。


雲が再び月を覆い隠す前に、決着をつけて差し上げましょう。


深海に潜む個体ごと、“0秒”で殲滅するつもりで力を収束させ――

その瞬間、私の神気を察したのか、クラーケン達は潮に逆らうように、一斉に距離を取り始めていく。


……そう。退くのですか。

なら、今回は――見逃してあげることにしましょう。

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